見出し画像

⑥抽象画にはまった理由、誤読の自由

画家・小河泰帆さんとの往復書簡6回目です。

前回小河さんからは、「原風景・よく行ってた美術館」へのコメントと、抽象画を描くようになったきっかけを伺いました。

国立西洋美術館のドニ《雌鶏と少女》、とても可愛らしい絵ですよね。
絵の平面性や色調、筆遣いと相まって、おとぎ話のいち場面みたいにも見えます。
この少女の顔、小河さんに似てませんか?輪郭そっくりだし、たくらんでる表情も私のなかの小河さんのイメージと重なる感じです。ぜひ絵の前で同じポーズしてほしいです。
クレーの作品は繊細な旋律の音楽が聴こえますね。マス目に区切られたグラデーションや透明感が、音の響きあいを連想させるのかな。こっそり秘密の宝物を見せてくれてニコニコしているような、親密な感じもあって好きです。

そして小河さんが「最高に好きな作家」として挙げていたトゥオンブリー、私にとっても神様みたいな位置にいますよ。
あのすごさ、とても言葉にならないです。すごくかっこいいのですけど、なんでなのか全然説明できない、だから真似もできないんですよね。わけわかんないです。
そりゃあトゥオンブリー見にDIC川村記念美術館へ通わざるを得ないわけですよ。
原美術館の個展でみた紙の仕事も、良かったな。
持ってるトゥオンブリーの画集2冊、付箋だらけです。

画像1


さて、ご質問いただいた、私が抽象画を描くようになったきっかけについて。

小河さん自身のお話、とても共感しながら読みました。
大学入学して自分のレベルを知り、模索した結果が今の表現という大筋は私も全く同じです。私の話でやや珍しいのは通信制美大卒で、前職があることくらいでしょうか。

思い返してみるときっかけは、誰かの言葉であることが多いです。抽象画に関しては、ムサビ通信の在学中に2人の先生からいわれた言葉「(私のデッサンをみて)全然おもしろくないです」と「(私の抽象画をみて)制作、続けるべきじゃない?」は、とても印象に残っていて、抽象表現へとむかう原動力になりました。

でもこういうの、発言した先生側はぜんぜん覚えてなかったりしますよね。
その温度差含めて面白いなと思ってます。作品講評会に出席すればいろいろ言われるのは当たり前で、その中から自分が必要なものだけを選びとり、溜めていき、それを紡いで好きな物語を織って、ひとりで勝手に納得する感じ。すごくひとりよがりな行為なんですけど、結果として良い作品が生まれて、周りに感謝しつつ、自分もご機嫌なら良いんじゃないのかしらと思ってますよ。

卒業制作は抽象画でした。

画像2

卒業制作《愛着》P100号/2013年制作

私の前職は図書館司書なのですけど、高校卒業後、女子大の短期学部で文学を専攻して司書資格を取りました。多分これが私の武器というか特徴で、小河さんにおける演劇で培った身体表現にあたるものです。今でも覚えている文学講義で、誤読の自由についての話があったのです。文学の研究って長文読解を延々やるのですけど、読解は事実を明らかにするためだけに行っているものではない、おおいに誤読せよという話で、驚いたのですよ。学生の研究発表に対しても、多分それ間違ってるけど、面白い主張だからよし!みたいな感じ。すごく楽しくて、影響をうけました。

芸術鑑賞の醍醐味って、誤読の自由にあると今でも思ってるのです。抽象絵画って余白が多いから、誤読もやりたい放題ですよね。ここまで妄想の自由度が高い表現、ちょっと他に思いつかないです。作家の意図とはまったく別の話であるという知性を持ちつつ、ひそやかに愉しめばよいと思います。そんなところがすごく自分の感性にしっくりと馴染みまして、現在に至ってますよ。

なんだか長くなったのでこのへんで。
小河さんの武器、身体的表現のお話もっと聞きたいです。劇団むさびでは役者だったのですか。