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作品タイトルの件、タシロの場合 往復書簡#28

画家・小河泰帆さんとの往復書簡28回目ですよ。
前回はこちら、作品タイトルのつけ方のお話でした。

タイトルは完成作品からイメージした言葉をつけているとのこと、後付けが多いのですね。最初にあった元になったもの(例えばりんご)から離れていくことを恐れない感じ、「そのほうが何倍もイメージが膨らんで面白い」って書かれてましたけど、「膨らむ」って動詞は内側からものが湧き上がってくる様子の描写で小河さんの作品にぴったりだと思いました。
小河さんの作品は色が笑ってるというか、楽しそうにスキップしてるように見えますよね。タイトルつける時にも軽やかにもうひと跳ねするのだなと感じました。

タシロさんは私とは違ってシリーズでタイトルをつけていらっしゃいますが、シリーズで付けていても変える時ってとういう時に変えるのですか?コンセプトが変わった時とか自分の心情が変わった時とかでしょうか?

往復書簡#27

作品タイトルはシリーズ名に番号をつける形でつけていて、50枚くらい描くと変えてきました。《used》→《relationship》となって今は《patch》とつけています。あとはたまに制作している、普段と違う支持体・描画材を使用した作品群があって、それには他作品と区別するために違うシリーズ名をつけています。《かさぶた》《Re:》など、いくつかシリーズがありますが、実のところ描こうとしているものは全作品共通しているので、シリーズ名も同じものを言い換えたという感じです。順番は小河さんと逆ですね、タイトルが制作より先にあります。

《Re:01》布、金網、糸、ホチキス針、額

ある程度の枚数を描くとタイトルを変えたくなるのは、言葉のもつ乱暴さに我慢ができなくなってくるからなんですよ。自分の制作スタイルって描きたいものは明らかなので、イメージを自由に膨らませるというよりは、どちらかというと何度も繰り返し濾過して純度をあげていくような、丁寧に検証しながら雑味を取り除く作業が主なのです。

新作に取り掛かるたび、タイトルの言葉が意味するところを再考するのですが、大体50枚くらい描くとやっぱりこれ違いすぎるってなるのですよ。当然といえば当然で、そもそも言葉が与えられていないようなものを描こうとしているんだから、ぴったりな言葉なんか無いですよね。もし近づけるとしたら、純文学か詩の仕事なのかもしれませんけども、タイトルにするには分量が多すぎますし。言語化って定義を与えるということで、定義の外側は切り捨てて無かったことにしてしまうから、ある意味とても乱暴な行為であると感じています。

そして言葉では表せない、言語化するとこぼれ落ちてしまうものを絵画に、、と私も思っています。
しかし、より多くの人に伝えるには言語化することも必要なわけで、、、というのがずっと私がぶつかっている壁でもあります。

往復書簡#27

これ本当に共感します。兼ね合いが難しいですよね。
結果、とりあえず入り口にタイトル(仮)の看板を付けてみて、我慢できなくなると違うタイトル(仮)を付けなおしているのが私の現状です。

さてさて、ふたりそろって言語化の壁にぶつかっていることが明らかになりましけど、この問題はタイトルをつける時だけでなく、在廊時などの受け答えにおいても発生しますよね。
小河さんは個展会場によく在廊されている印象があります。頻繁に聞かれる質問や印象的なやりとり、気をつけていること、お客様がとぎれた時間帯の過ごし方など、在廊時のお話をぜひ伺いたいです。