【ネタバレ】スパイダーマン/ノーウェイホーム

待ちに待った映画を試写会で鑑賞しました。今作を語る上で本編の内容は避けては通れないので、ネタバレ注意とさせていただきます。

オリジン3部作を締めくくる傑作

MCU版三部作が3作を通じてオリジンを描いてることに気がついたのはNWH鑑賞後です。『シビルウォー』でサプライズ的に登場した、業務提携の産物であるスパイダーマンが「物語」としてここまで丁寧に紡がれたのは、本家としてのマーベル(ディズニー)のプライドと、スパイダーマン過去5作を製作し、その権利をそれを手放すことも妥協することもなかったスパイダーマン「映画」の本家ソニーの矜持があったからこそだと思う。
やはりスパイダーマン以外も目まぐるしく動くMCUにおいて、一作でオリジンを描き切ろうというのは難しいだろうし、何より今後ユニバースを背負って立つかもしれない大人気キャラクターのオリジンには深みを持たせる必要がある。結果、オリジンを三部作にする計画(あったかどうか不明だが)は大成功だろう。素晴らしいスパイダーマン誕生譚が完成したと思う。

混沌

前作の衝撃的なラストの直後から始まる今作の前半、ピーターは常に多くのカメラに追われる。恐ろしいのはそれが市井の人々であるということだ。スパイダーマン2の電車の人々やアメイジング・スパイダーマンのクレーン車を動かしてくれた方々の面影は見られず、冷徹さすら感じるスマホのレンズで一斉に一人を追い詰める現代社会にどこか親和性すら感じるJJJが煽るのは近年様々な局面で発生する「分断」。暖かかったはずの市井の人々はいまや出所もわからない情報を信じて疑わず、お互いのポリシーの不和はやがて分断へと変わる。紛うことなきカオスであり、悲しいことにとてもリアルだ。過去のスパイダーマンシリーズにおいて、市民が一丸となってスパイダーマンを助けてきたNYは見る影もない。
いつから社会はこのような混沌に陥ってしまったのだろう。ネットメディアの普及はこのカオスの一端を担っていると思う。誰もが簡単に真偽不明の情報にアクセスし、それを信じ切ってしまう。事実無根の情報であっても、その架空の「信用」の持つ力は恐ろしく、社会を分断するのみならず長年培ってきたリアルな友好関係すら無に帰すこともある。
現代社会の脅威はヴィランだけではなく、善良なはずの市民でもあるのだ。

変わる人々

インターネット社会がもたらした利便性は絶大だが、副次的に引き出された人間の暗部はスパイダーマンシリーズで描かれた市民の性善説をも否定してしまうのかもしれないと感じさせられる。
だが、これは覆されているように思う。
ピーターはヴィランたちの救済案をまず考える。これはヴィランだからといって根っからの悪人であるとは限らないという、性善説の肯定と受け取れる。つまりヴィランも市民も後天的に悪が表面化しているだけで、生まれながらにして悪人なのではないのだ。これは間違いのない事実ではないが、変わり果てたNYに大きな希望を与えるだろう。
僕自身、社会の一部であり、インターネットの益を享受している自覚がある。だからインターネットが悪だなんて言うつもりはないし、インターネットの無かった時代を回顧して「それに比べて今は…」などと相対化することが如何に無意味か理解しているつもりだ。我々がすべきことはインターネットを厭悪し忌み嫌うことではなく、どうインターネットと向き合うかであり、それは人と向き合うことでもある。現代には現代の魅力があるし、インターネットの進歩がもたらしたのは争いや分断だけではないことは明白だ。例えば、手軽にコミュニケーションを取れるようになった。それによって簡単に争いが起こることもあるが、本来手の届かなかった人に手を差し伸べることもできるようにもなった。「俺の持つ力は『もっとやれる』と信じることだけだ」と言ったのは同じMCUのキャプテン・アメリカだが、今我々がするべきなのはそういった信念のもとに手を取り合い、道を模索し続けることなのだと思う。社会にも人々にも一長一短あるものだ。お互いにそれを補完しあうことは容易くはないかもしれないが、かといって不可能だとは微塵も思わない。ヴィランとヒーローでさえ出来たのだから。

ピーターにも与えられるチャンス

セカンドチャンスを与えられるのはヴィランだけではない。ピーターはミスをしがちだが、それはピーターに限ったことではなく、ティーンにありがちなことだと思う。なんなら大人でもミスはする。重要なのはそのミスとの向き合い方だ。ピーターはミスを「直そう」とストレンジの元へ向かうが、彼が全てを解決してくれるわけではない。チャンスを与えてくれるだけだ。ミスを無かったことになんか出来ないが、それを糧に前に進むことはできる。それをピーターは自分自身、それも他のユニバースの自分とも対話することで少しづつ前進していく。MJを救うアンドリュースパイダーマンは、メタ的にもセカンドチャンスをものにしているし、この作品の終わり方もピーターの二度目の人生という意味で大きなチャンスでもある。
ピーターにチャンスが与えられるのだとしたら、彼の犯したミスとはなんだろう。細々したミスは多くあるが、シリーズ序盤からトラブルの火種となっているジレンマが一つある。それは「宇宙を救うヒーローでありながら、普通のティーンエイジャーとしての人生を捨てきれなかったこと」ではないだろうか。ヒーローでもありたいし親友や彼女、愛するおばさんとも幸せに暮らしたくて、大学にも行きたい…ごく一般的な幸せを願っているのはわかるが、ヒーローとはそう上手くはいかないものだ。何かを得るには何かを失う必要があり、ヒーローは往々にしてその犠牲として自己を捧げる。彼に与えられた二度目の人生は、真に彼がヒーローと成り得た証左でもあるわけだ。

ピーターがスパイダーマンになるまでの物語

今作でピーターを打ちのめすメイおばさんの死はあまりに残酷だ。彼女が如何にかけがえのない人であるかはシリーズを追ってきた人なら分かると思う。優しくユーモラスで温かく、勇敢で気高くて誰にでも手を差し伸べる、ピーターの母親でも友人でもあり、ピーターの良きメンターだった。そんなピーターは彼女の存在もあって、シビルウォーの時から、困ってる人を見過ごせない少年だ。ヴァルチャーという脅威に立ち向かい、インフィニティウォーでは宇宙にまでついて行ってアベンジャーズ入りを果たし、エンドゲームでは立派なアベンジャーとして世界を救った。常に誰かの平和のために戦い、トニーから受け取った大きな力に葛藤しながらもついにその責任を負う覚悟を決めた。全ては「他の人にはない力を持っているのに何もしないのは嫌だ」という「大いなる力には大いなる責任が伴う」論から生じる行動だ。それが今作では揺らぐ。自らがヴィランの様に扱われ、自分のせいで大切な人たちをも巻き込むトラブルが起こり、愛するメイおばさんを失ってしまう。自分さえいなければと何度思ったことだろう。
そんな彼に、それでも自分の力を正しく使うこと、逃げないことを諭すのは他でもないスパイダーマンだ。今作の最も大きなサプライズである、別次元のスパイダーマンの登場は単なるサプライズに終始しない。自らも愛する人を失った彼らは、それでも前に進むことがいかに重要かを語る。
個人的にアンドリュースパイダーマンの口から出た「彼女の死に打ちのめされても、グウェンが望んだことだから、前に進んだ」という言葉で涙腺が壊れそうになった。『アメイジング・スパイダーマン2』の打ちのめされたピーターがそれでもスーツを着て少年を助けるラストはあまりにも気高くて美しいし、彼にそうさせるのは亡きグウェンの願いであり意志であるという事実に改めて気付かされた。良すぎる。
誰かを再び危険に晒してしまうかもしれない、巻き込んでしまうかもしれない恐怖は並大抵のものではないし、自分が何もしないことでどこかで救えるはずのものが失われていく苦しみもまた途轍もなく大きいはずだ。前者のトラウマと後者の葛藤で板挟みになるスパイダーマンというヒーローはなんて過酷なのだろう。それでも彼らを突き動かすのは、「巻き込んでしまった大切な人」なのだ。だから彼らは前に進める。何かを再び失うことが恐ろしくても、スーツを着られるのは、それが大義であり、力を持つものの責任であり、贖罪でもあるからだ。だから彼らの姿はかっこいいし、マスクを取った素顔はどこか悲哀に満ちている。
スパイダーマンの葛藤と苦難と涙、そして勇気によって培われたヒロイズムを受け継いでピーターはもう一度立ち上がるのだ。力を持つものとしての責任だけではなく、失った愛する人の願いを背負って立つ彼の敢然たる姿はもう「クイーンズの坊や」ではない。紛うことなきスパイダーマンだ。

必要以上にのしかかる責任

ピーターの今作ラストでの決断は立派だし、前述した通り自己犠牲精神に満ちていると思う。だが、これらの責任ははっきり言ってピーターには重すぎる。まだ10代の少年にここまで背負わせるのはあまりに酷だ。そもそも彼のこれまでの行いは、彼一人の責任ではない。E.D.I.T.H.から始まったこのドローン騒動もピーターだけの意思で全てやってきたわけじゃない。今作での出来事だって、ストレンジのミスでもある。それら大人の失態全てをティーンエイジャーの「自己犠牲」でめでたしとしてしまっていいだろうか。
これは他人事ではなく、ピーターを散々叩いてた社会にだって大きな責任があるし、それは我々の社会とも地続きだ。全員が忘れたから万事解決だろうか。一人の学生が友人も夢も恋も大切な人も普通の青春も投げ打ったら何もかも帳消しだろうか。インターネットとの上手い付き合い方を模索するべきと述べたが、使い方次第で一人の人生を破滅させる事だってできてしまう危険性を孕んでいるからだ。大人や社会の無責任な行動の責任を彼一人が全て背負うラストを「かっこいい」で済ませてしまっていいものだろうか。
ピーターは心優しいヒーローである。だからこそ彼に全てを背負わせて尚彼が「親愛なる隣人」でいられるだろうかと不安に思う。『ファルコン&ウィンターソルジャー』で示したように、時には社会の協力も仰ぐような人々と支え合うヒーローも現代のヒーローの形であると思うので、スパイダーマンこそ社会全体で支えてあげるべきヒーローなのではないかと思う。

ピーターがスパイダーマンになるまでの物語②

前シリーズといえば忘れてはいけないのがベンおじさんだ。ピーターがスパイダーマンになるまでの、大切な人の死を以って「大いなる力には大いなる責任が伴う」ことを知るというシナリオは前2シリーズにも存在しており、伝統のよう受け継がれていたが、今シリーズではそれがトニーとメイおばさんの二人によって為されている。トニーは常にピーターの師であり父のように振る舞ってきたし、彼はピーターを大いなる力を持つヒーローとして育ててきた。無鉄砲でトラブルメイカーなティーンにヒーローであることの責任や、彼のヒロイズムを教授していた。彼の死後もE.D.I.T.H.によって力とそれに伴う責任を痛感している。トニーは、ベンおじさん的役割を果たしていたといえる。
前2シリーズのベンおじさんがピーターに見せるのは「善良さ」であり「勇敢さ」だが、それが男性のみによって語られる必要もない。メイおばさんはピーターをヒーローにするだけのそれらの素質を身をもって体現している。トニーにはなかなか見られない(もちろんトニーにももっとスケールの大きな大義があったが)、身近な市井の人々に直接手を差し伸べる姿はピーターにも大きく影響を与えているだろう。彼女の願いは今後のピーターの行動原理として大きく存在し続けるだろう。
トニーとメイ、どちらかが欠けていたらきっと我々の知るスパイダーマンにはなり得なかったと思う。二つの要素が混ざり合ってMCU版スパイダーマンは真にスパイダーマンとなったのだ。

最高傑作である理由

ここまで読んでくれた方なら今作への僕の熱量を感じていると思うが、今作はスパイダーマン映画史上に残る大傑作だと感じている。正直あんまり面白くなかった『スパイダーマン:ホームカミング』と想像を上回る面白さとメタ的なヴィランで完成度の高さを見せつけた『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』と続き、3部作を占める今作には大きな期待が寄せられていたが、ここまで上手くスパイダーマンシリーズをまとめ上げてMCUへの期待を増幅させるとは…誰が想像しただろう。
過去作ピーターたちの登場によって映画版のスパイダーマン全7作をも総括する圧倒的なオリジンストーリーに涙を流さないファンがいるだろうか。もう既に優れたシリーズが2作も存在しているコンテンツでここまでフレッシュなトリロジーを作り、ファンを魅了できるマーベルスタジオの技量には毎度のことながら驚嘆させられる。
この3部作がトムのピーターによってのみ描かれていたら、前シリーズファンはおそらくモヤモヤを抱えたままだったと思う。
「前シリーズの巧みな使い方」と「圧倒的なオリジンとしての完成度」の二つが最高傑作である理由だ。過去シリーズを使って原点を描き、三作の壮大な物語から生まれる誕生譚は見事な構造だ。マジでヒーロー映画史上でも類を見ないほどの傑作だと思う。

MCUとの絡み方を考えると胸の高鳴りが止まらないほど素晴らしい終わり方だった。スパイダーマンの今後に目が離せない一作となった。文句なしの大傑作だ。

追記:二回目を鑑賞してきたのですが、疑問点が2つほどあるので以下に書いてみようとおもいます。

ピーターが殺そうとしちゃうのはなぜ

これに関しては疑問点と言いつつほぼ解決しているのですが、観てる時は「おかしくね?」と思ってました。ピーター1が最終決戦のラストでゴブリンをボコボコにしてグライダーで殺そうとするシーンです。そのちょっと前に「愛する人を殺されても復讐に囚われるのは愚かだし、実際復讐なんて空虚なものだ」という教えを授かったにもかかわらず殺そうとしちゃうんかい…と思いました。だったら先輩二人との対話シーンはその後に持ってくるべきですし、ピーター1が何も学んでいないことを示しているのではと思いました。
ですが、ボコボコにしている段階、もっといえばラボの段階からピーター2,3は「ピーター1が復讐心を捨てきれていないこと」くらいはわかってたと思うんですよね。そりゃそんな簡単に捨てれるものではないです。なぜ殺す寸前までそれを止めようとしなかったのか、それはそのタイミング以外で何を言っても響かないと経験的に知っていたからではないでしょうか。ボコボコにしたところで心は晴れないし、このまま殺したところでそれは同じであるというのも敢えて経験させた。自分も同じ経験をしたから。
という風に考えました。どうでしょうか。

治療という考え方

これに関しては依然としてモヤモヤしてます。作中ピーターは「ヴィランに対して治療を施す」という目的で行動してます。治療をすることで普通の人、悪人ではない人に戻そうと考えたからだと思います。いくつか前の段落で「ヴィランも後天的な理由で悪が表面化しているだけで、実際は悪人ではないかもしれない」と書いたのですが、これって「ヴィランが悪人でなくなるためには能力を取り除くことが必須」なことを意味しているのでしょうか。確かに能力は人間性を大きく変えてしまう恐れがありますが、だからといって「能力さえ無くなれば、なんの力もなかった頃と同じ普通の人に戻れる」かと言われると同意しかねます。
さらに、「能力をうまく活用して人を助けたり何かを守るために戦っている」ヒーローが、ヴィランは力を持っていることで悪事を働いてしまうから取り除いてあげよう、というのは傲慢じゃないでしょうか。
個人的に、コンドミニアムに集まった時にエレクトロ以外は治療に肯定的だった印象があるので、自己決定権までは脅かしていないのかなと感じています。
このヴィランと力の関係の描写がとても雑に感じられます。彼らのアイデンティティや個性を奪うことでしか解決できないのは多様性の否定でもあって、長く時間がかかることになっても対話によって解決策を見出すのがスパイダーマンというヒーローの真髄ではないかと思いました。これは映画の前半でピーター自身がしていたことでもあります。世論の分断や社会からの弾圧の中でもMJやネッドなどの身近な人や大学の事務局、とらえたヴィランなど多くの人と対話していた彼が、最終的に力を奪うことで解決するのは如何なものでしょうか。
「対話による解決」は綺麗事のように聞こえますが、それを一蹴してしまってはそもそもヒーローとは何なのかという話になります。少なくとも、不殺を掲げるスパイダーマンには、不可能なように見えてもヴィランと向き合って解決の糸口を見つけてほしかったです。これが今作の最大の不満点と言えます。

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