すずめの戸締り

新海監督は前二作でも災害、気候変動などの人智の及ばぬ領域を描いてきた。そのマクロで神秘性すら感じる超自然的な現象と2人の生命の関係のコントラストは「セカイ系」とも呼ばれてきた。
『君の名は。』では周期性のある災害とボーイミーツガールを掛け合わせ、最終的には彼らを再開させることで非常に明るく前向きな、運命的なストーリーであった。
『天気の子』は昨今の課題である気候変動を描きながら、世界と愛する誰かを天秤にかけ、世界を壊してしまうティーンと変わりゆく東京をスピード感のある作劇で描いた。
前置きが長くなったが、この2作に続いて作られた本作は紛れもない大傑作に仕上がっている。

今作は“喪失”と“記憶”の物語である。「いずれ消えゆくもの、突然失われる何か」との向き合い方が本作のテーマであったように思う。

日本は災害大国だ。四つのプレートがぶつかるその上に形成された日本列島では地震が頻発し、津波の危険もある。雄大な富士山も活火山だし、桜島は噴火してる。南からやってくる台風は豪雨被害をもたらす。

特に大きかったのは3.11だろう。
被災者は、家が流され、家族は行方知れずになり、先刻まで一緒にいた友人を失った。人々の温もりが息づく町は忽然とその暖かい姿を消す。昨日までの日常は瞬く間に奪われた。
それは日本という国にとって耐え難い喪失であり、あの日の前と後でこの国は大きく変化したように思う。
新海作品の世界観ではこれらは繰り返すものであり、どの時代にも同じような大災害が起きてきたというものがある。その大いなる歴史のほんの一部が我々であり、災害にある種の神秘性を持たせる描き方はあらゆるものに神性を見出す神道の教えの根付く日本ならではである。

この作品には喪失への反抗と受容がある。
すずめが草太の要石化を阻止するのは失うことへの恐怖から来る反抗だ。震災で家族の喪失を経験したすずめにとって、愛するものを再び失うことは死よりもずっとリアルで鮮明で耐え難い恐怖なのだ。だから、それが自然の摂理であろうが受け入れることはしない。『天気の子』にも同じ関係性が存在する。今をひた走る若者の身勝手は、大いなる自然なんかでは止められない。

一方で、失った何かを受け入れて前に進む映画でもある。いつの間にか行かなくなった場所や消えゆく文化、コロナ禍で多くの風化が加速した。変わりゆく景色と移ろう風景、確かに今のままではなくなってしまう。そういう物悲しさも含めて、一人一人が真摯に向き合うことはとても美しいことだと思う。戸締りをするのは、その消えゆくものに自分なりに折り合いをつけることだ。

『君の名は。』では“思い出せないあの人の名前”という忘却に抗い、一組の男女が再会を果たした。
新海作品は忘れたくないものや失いたくないものの喪失に全力で抗うことを肯定してくれる。
都市も風景も文化も友人も恋人も家族も国も、今のままではいられないならみんなで覚えておこう。そういう新海監督の願いが伝わってくる。

写真や動画、記録媒体全盛の時代にローカルな個人の記憶をあえて主題に据えたのは、不確実で不安定で脆く儚いからこそ美しいという日本古来よりの感性を愛する新海監督らしさであり、事実そうやって歴史が積み重ねられてることを感じさせる。
それと同時に、この映画がとても個人的なメッセージを持っていることにも繋がる。社会全体で覚えておくことへの願いとともに、一人ひとりの記憶と忘却に関する問題提起の側面もあると思う。忙しない社会で昔のことなど忘れてしまった人々に対して、過去を振り返ってみてはどうかという提案でもあった。

疑問に思う点もある。ダイジンは結果的に犠牲になった。無垢さと邪悪さを併せ持ち、すずめを導く神であるかのように思える存在であった。
ダイジンの犠牲は『天気の子』の「犠牲の上に成り立つ秩序なんかなくたっていい」という帆高の答えと相反する。社会において避けては通れる犠牲を新海監督は受け入れたのだろうか。
僕は人間の人間らしさは傲慢さにあると思う。生きていたい、愛する人を失いたくない、失ったものを取り戻したい…今まで描かれたそれらは美しく色を塗られていながらも皮を剥ぐとそういう醜さとも呼べる本能的な欲求が原動力だ。「誰も犠牲にしたくない」のが本能であるなら「誰かが知らないところで犠牲になって秩序を保って欲しい」というのもまた、抗うことの難しい生来の欲望である。
新海監督はそういう人の矛盾を孕んだ傲慢さを丸ごと受け入れ、愛することに決めたのではないだろうか。正直言って都合が良いと思う。そういうものを全て人間らしさというのはずるい気もする。だが、人の傲慢さという意味で一貫しているようにも思う。理想と綺麗事なんて案外そう簡単に切り捨てられてしまうものなのだろう。
納得はせずとも一定の理解は出来た。

パーソナルな記憶と悠久の歴史の神秘性、暗雲立ち込める日本への憂いと駆け抜ける若者への希望。この国への複雑な感情渦巻く本作を観て、人々は何を想うのだろう。“ただいま”と“おかえり”がいつまでも谺することを切に願う。

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