第一話 「飛猿さん」
父のことを、少し。
どちらかといえば穏やかな性格で、酒は一滴も飲まず、争いごとを嫌い、叱られたことはあっても、殴られた記憶は一度もなく、口数は極端に少なく、舌がどうにかなってしまっているのではないかと疑うほどの味音痴で、そして、毎朝、5時には必ず目を覚ますと、庭先で、見たこともない、不思議な体操をしてから、朝飯を食べる。
朝飯はいつもトーストで、そこに、父がどこからか仕入れてくる、ラベルのない瓶の蜂蜜をたっぷりとかけ、そして、ほんの少しの野菜や果物と一緒に食べる。父の毎朝の習慣を知ったのは、実はここ最近で、私は高校を卒業してからは、父と一緒には住んでいなかった。東京まで電車で一時間もあればついてしまう近郊の住宅街の、この家で、私は生まれ育ったが、大学入学をきっかけに、家を出た。しばらくは、都心のど真ん中で、高い家賃の狭いアパートを借りて生活をしていたのだが、そのまま就職したカーペットの輸入会社で、2,3年働くうちに、心を病んでしまったのだ。朝、通勤の電車に乗れず、過呼吸になり、病的なほどの汗をかき、酷い耳鳴りがして、働こうにも働けない体になってしまった。私はほどなくして、会社を辞めた。その時は、相談に乗ってくれるような友人や恋人もおらず、アパートに一人でいると、本当に何かしでかしそうで、恐怖を感じた私は、仕方なく、父の住む実家へ帰ることを決意した。
なので、今、私は父と二人で暮らしている。
あと、母のことも少し。
実は、私は母のことをよく知らない。物心ついた時には、母は他界していたため、残っている古い写真で父と一緒に写る母だけが、私が知っている母だ。写真の母は、ずいぶんと彫の深い顔をしており、スラっとしているのだが、不思議と毛深く、まるでどこかの民族のようにも見えたし、見ようによっては、海外のスーパーモデルのような顔をしていた。
父は母のことを、あまり話したがらないし、私も母のことを根ほり葉ほり聞くのは、父を困らせるだけと思って、昔から聞こうとはしなかった。ただ、あの、数年前の、珍しく釣りなどに二人で行った際には、その開放感も手伝ってか、父の口から、意外な真実が語られ、私の心をかき乱した。父は、実は若いころに、一度、結婚に失敗しており、二度目の結婚で今の母と出会ったらしい。私は三十になるまで、それを知らなかった。まあ、子供に話すようなことでもなかったのかもしれない。そうなのだ。いつだって父は、自分のことをちゃんと話さない。口数が少ないという話ではない。そういう人なのだ。
そんな父と住み始めてから、しばらくは一緒に飯なども食べていたのだが、もともと夜型で、朝の弱い私は、毎朝5時には起きる父との生活を同じリズムで共にするのとても無理だった。実家に戻ってきた安堵感もあったのか、私の実家で生活はひどいもので、昼夜は逆転し、父が布団に入る頃に、ちょうど私が活発になり、そして父が起きる少し前に、ようやく眠くなるような、そんな自堕落な生活を続けていたのだ。そして、今日もまた、昼の14時過ぎにようやく目を覚ますと、二階にある自分の部屋から階段をノソノソと降りていき、すでに夕方を迎えようとしている父に、「おはよう」と声をかけようとしたが、今日は、父の姿が見当たらなかった。どこかへ散歩にでも出かけたのかもしれない。私はそのまま用を済ませると、朝飯を一人で用意して、ダイニングではなく、わざわざテレビのある、居間まで運んだ。
居間は、奥の客間と襖ごしにつながっている。主に私の居場所はこの居間で、一日中、外へ出かけず、テレビだけ見て過ごしている日もある。朝飯を食べ終えた私は、テーブルの掘り炬燵に足を突っ込んだ。そして、そのまま上半身を後ろに倒すと、横になった。見上げた天井に大きなシミがあるのを見つけた。気が付けば、我が家は、すっかり汚れてしまっている。子供の頃は、もう少し綺麗だったような気がするが、男一人で、この広い家を掃除するのも億劫なのだったのだろう。よく見れば、壁という壁が茶色く汚れてきたような気もする。私は、誰もいない部屋で一人、天井を見あげながら考えていた。時が経つのはあっという間だ。果たして、このまま自分はどうなってしまうのだろう。一体、どうやって生きていけばよいのか。考えているうちに、なんだか眠たくなってきた。ウトウトしはじめると、そこへ、外出していた父が帰ってくる音が聞こえた。私は、せめてと上半身だけ起き上がる。何やら話声が聞こえる。帰ってきたのは、父だけではないらしい。聞けば、父の友人の、飛猿さんの声だった。
待っていると、廊下から飛猿さんが、ひょっこりと襖をあけ、顔を出した。
「なおちゃん、なんだ、おはようか」
苦笑しながら、私は頭を小さく下げた。
「どうも」
飛猿さんが、その手に大きな新聞紙の包みを抱えている。
「白菜、でかくなりすぎちゃってさ、お父さんと食べてね」
「ありがとうございます」
自分の声が、思ったよりも小さくて、驚いた。
飛猿さんは、たびたび我が家にやってきては、自分の庭で育てた、無農薬の野菜を新聞紙でくるみ、山のように持ってくる。どうやら、一人では食べきれないらしい。それから決まって二人は、客間の縁側で将棋を指すのだ。父が昔、天童で買ったという、異様なほど分厚い将棋盤を引っ張り出し、これまた達筆な文字で書かれた高級な駒をバラっと広げて、二人は、駒を並べていく。
「どれ」
「うん」
またいつもの始まりの合図があって、対局が始まった。なんとなく、居間を独占していた私は、気持ちテレビの音量を下げた。客間から、パチパチと駒音がする。ふすま越しに、二人の唸り声やら、笑い声やらが、うっすらと聞こえてくる。飛猿さんの声はいたって明るい。父と違って、おしゃべりだ。ああでもないこうでもないと、独り言を繰り返しては、父に打つ手を急かされている。父はほとんど笑うことはないが、それでも駒音は明るく、いつもよりやや楽し気だ。私は、その二人の駒音を、まるで音楽のように聞きながら、また一人、ウトウトとし始めた、そのときだった。
「あ、また来やがった」
襖の向こうから、父の声がした。
どうやら、庭の一角に、何か生き物がやってきたらしい。
「ほんとだ、あんな堂々と」
飛猿さんが、何やら関心している。
「最近よく来るんだ、追い払ってんだけど・・・ちょっと待ってろ」
父がつっかけを履き、庭へ出る音がする。
すると、襖の向こうから、飛猿さんの声がした。
「なおちゃん?」
「え、あ、はい、はい?」
「今、ちょっといい?」
「え?」
襖を開けると、客間から、飛猿さんが、ひょこりと顔を出す。そのわずかな隙間から、私に話かけてきた。
「なおちゃん、ちょっと」
「え?」
飛猿さんが、ハイハイするように、私のもとへやってくると、何やら、二つ折りにしたメモ書きを差し出す。何事かと受け取った私は、それを開いた。マジックの文字で、電話番号が書いてある。
「これ、俺の番号ね」
「え?」
「明日、時間あるときでいいから、ちょっと電話してもらっていい?」
「え、なんでですか?」
「いや、ちょっと、話があってね」
「・・・今じゃダメなんですか?」
「ちょっと長くなりそうだから」
「え?」
「お父さんのことでね、いや、ちゃんと、時間あるとき話したいんだ」
「・・・」
私には、なんのことだか、さっぱりわからなかった。
「いいの、いいの。とにかく、この事は、お父さんに内緒ね」
飛猿さんがそう言って、子供のように笑う。
私は、起き上がり、客間へ戻ろうとする飛猿さんを追いかけ、隙間から客間を覗いた。そして、遠目から、庭先にいる父を見た。父が、何やら長い棒で、大きな黒い塊を追い払おうとしている。それは、大きなカラスだった。カラスは大きな声を出して鳴き、父を威嚇する。父も負けじと、カラスを追い払おうとするのだが、その腰の引けているのが、ちょっとおかしい。
「まあ、とにかく、明日、電話してよ」
「はあ」
やがて、根負けしたカラスが、どこかへ飛び去っていく。息を切らせた父が戻ってくると、私は、なんとなく、居間へ引っ込んだ。飛猿さんが、私を一瞥して、襖を閉めた。私は、一人、コソコソと、電話番号のメモを、なんとなくズボンのポケットにしまった。
そして、客間からは、何事もなかったかのように、再び駒音が聞こえ始めた。私はなんだか、もうすっかり目が覚めてしまった。父のことで、何か話があるなら、今、その場で言えばいいのではないか、本人を前にして、言えない理由が何かあるのか、そして、なぜ、それを、今、私に言うのか。何かがおかしい。そのまま将棋の駒音と共に、時間だけが過ぎていき、やがて、夕方になると、飛猿さんが、何事もなかったように帰っていった。途中、玄関まで見送りに来た私に、靴を履いた父が言った。
「ちょっと、送りがてら、散歩いってくるわ」
「ああ、うん」
「夕飯前には帰るから」
「いいよ、全然、気にしないで」
飛猿さんが、手を小さく振った。
「じゃあ、なおちゃん、お邪魔しました」
「いえ」
そうして、二人がいなくなると、私は台所へ向かい、水を一杯飲んだ。自律神経の乱れには、水を飲むのがいいらしい。それを聞いてからというもの、私はことあるごとに、水ばかり飲んでいる。ふと傍らに、飛猿さんが持ってきた、大きな白菜が置いてあった。それはまるで、私の不安の塊のようだった。これから私の身に何かが起きようとしていた。
翌日、昼の公園に私はいた。
飛猿さんの家の近くにある、団地の横の大きな公園である。十月に入って、急に外が寒くなってきた。銀杏の落ちた葉が、乾いた音をたてて、風に吹かれている。足元に来る葉を割るように踏みながら、待っている私のもとに、飛猿さんが、やってくるのが見えた。
「なおちゃん、悪かったね、呼び出して」
「いえ、まあ、何もないんで」
翌日、約束通り、飛猿さんの携帯に電話すると、この公園で落ち合うことになったのだ。直接会って話そうということになった。公園は、小さめのベンチが、何個か並んでいる。二人で座るには狭いので、私と飛猿さんは、並ぶベンチに各々離れて座った。まるで誰かに聞かれてはいけないように、横並びで座り、飛猿さんが私に話す。
「でね、お父さんのことなんだけどね」
「はい」
「昔、小さい頃、神戸に住んでたことあるって、話聞いたことない?」
「神戸?」
「そう、神戸」
「え、いや、そういう話はきいたことないですけど」
「ああそう・・・」
飛猿さんが首をかしげる。
「父はその、あまり自分のことを、話たがらないと言いますか・・僕も、実は、よく知らないことも多くて」
「うん」
それから、飛猿さんは、ポケットから煙草を取り出すと、火をつけた。
「うちの息子、いるでしょ、雄太」
「あ、え?、はい」
「今、神戸にいるのよ」
「そうなんですか?・・あれ、東京の大きい会社かなんかに、就職したって、聞いた気が・・・」
「やめたのよ、その会社」
「あ、そうなんですね」
飛猿雄太。私の小学校の同級生であり、私がよくイジメていた人物でもある。
「ちょっと、職場でいろいろあったらしくて、まあ、多いよな、そんなの」「・・・」
「まあ、それで、何年か前に、やっとことさ、再就職できたんだけどね、その会社が神戸にあってね」
「そうなんですね、わざわざ神戸に?」
「うん、なんか、お世話になっている人がいるらしくて」
「はあ」
「でね、週末になると、趣味で、なんか酒蔵をまわってるらしいんだけどね、あいつ、ほら、日本酒が好きで、なんか変な会とかにも入ってるらしくて」
「日本酒?」
「うん、でね、なおちゃんはさ、神戸にある、『神童』ってお酒知ってる?」
「いや、ちょっと、わかんないす」
「お酒は飲むんだっけ?」
「まあ、ちょっとくらいなら」
「まあ、俺もよくは知らないんだけど、なんか、お酒好きの間じゃ有名な、古い日本酒があるらしくてね、その蔵が、まだ神戸に小さく残ってるんだって、城戸酒造って言ったかな」
「はあ」
「でね、あいつが、こないだ、その蔵に見学に行ってきたらしいんだけどね」
と言って、飛猿さんが、二つ折りの携帯をポケットから取り出して、何やら私に、画像を見せた。
そこに写っていたのは、少年の銅像である。見るからに古いが、その表情にどこか見覚えがあるような気もする。
「これがさ、その城戸酒造の、中庭に立ってたらしんだけどね」
「銅像?」
「それでね、その蔵に、伝説みたいな話があってね、なんか、その『神童』って日本酒の開発に携わったのが、当時八歳の少年だったっていうんだよね」
「え?」
「この銅像の少年が、どうも、そうらしいんだけどさ」
「・・・」
「で、この銅像の少年の名前がね、沖田昌平っていうんだと」
「え?」
沖田昌平、私の父の名前である。
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