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カンボジアを生きる わたしたち ~カンボジアで出逢ったステキな女たち、男たち、そしてわたし~ 19.欧米ではなくアジアへ

 将来の夢。いつか海外で困っている人を助けたい。音楽の世界で生きていきたい。それが、秘書になって外資系企業に入って海外で仕事をする、キャリアウーマンになりたい。小学校から短大へと成長する中で、こんなふうに描く夢が変わっていく。私の成長の過程の中でごく自然に、移り変わっていったこの夢。でもそれを実現させる、させないは、本人の気持ちに加え、周りの環境という要因によっても左右されるのだ。

 母が再婚し、私はある意味「身軽」になった。もちろんいつかは母に、義父にお返しをすることは前提だが、とにかく短大を卒業して急いで家にお金を入れる必要はなくなった。

 短大は1年生の終わりごろから就職活動を意識する。早い子はもっと早くから活動を開始していた。私はちょっと気が楽になったこともあり、ちょっともう少し大学生活を謳歌したいなと、学部編入なども含め、もっと勉強できる進路を考え始めていた。

 留学もしてみたい。単純に、高校生の時に憧れていた、FM横浜でよく流れていた「カリフォルニア大学サンディエゴ校(多分横浜と姉妹都市か何かだったのか、よく宣伝で同校への留学の呼びかけが流れていたのだ)」。別の大学でもいいけど、とにかく留学という道も考えてみたい。そう思った。

 そんなこともあって、短大1年が終わった春休みに、神奈川大学がアメリカのカンザス大学と姉妹校ということで1ヶ月半の短期語学研修を開催していることを知り、母に願い出てお金を工面してもらい、そのプログラムに参加した。

 2月から3月にかけての1ヶ月半。とっても刺激的なアメリカ生活だった。大学のドミトリーにアメリカ人のルームメイトと一緒に暮らす。しかし、私のルームメイトはバスケットボール選手の彼氏がいるらしく、毎晩彼のところに入り浸って、部屋に戻ってくることはまれだった。確か、1ヶ月半の滞在で、初日と途中数日くらいしか顔を合わさなかったような気がする。カンザス大学といえばバスケットボールが有名で、その花形選手と付き合っている彼女は、彼の気を引くのに必死だったのだろう。顔を合わせた数回の中で、数少ない交わした会話の中で、「コンドーム持ってる?」と聞かれた。その言葉だけしか彼女との会話は覚えていない。なんとも不思議なルームメイトだった。

 そのドミトリー生活で、友達になったのが向かいの部屋に住んでいたタイ人の留学生の女の子、パーラだった。おそらくタイのお金持ちのお嬢さんなのだろう。品がよくて、笑顔が素敵で、長い黒髪とその人懐っこさに、安心した。ちょっとばかりホームシックになった時にも、「ユキエ、こっちにいらっしゃい」と、アジアンポップスのカセットを貸してくれた。パーラの彼氏はアメリカ人だったが、日本語を勉強していたので私とよくおしゃべりをしてくれた。彼も日本語を話す相手ができて嬉しかったようだ。そうして、私は週末になると彼女たちの仲間とパーティーをしたり、遊ぶようになった。その仲間たちは、インド人、タイ人などアジア系の留学生たち。ああ、なんだかアジアが落ち着くなぁ。単純だけど、私の興味は一気に欧米からアジアへと飛んだ。

 もちろん、アメリカ人から何も学ばなかったわけではない。キャンティーンで出会ったアメリカ人の女の子に、将来何になりたいの?という話を聞くと、私は将来科学者になりたい。だからこの学校のこの学部で学んでいるの。と、きっぱり自分の進路を見据えて大学で学んでいるのだということを言われた。なんとなくで大学へ行くことが多い日本人と違い、問題意識、将来計画があって進路を考えている。今やっていることが、将来どう結びついているのか、将来どうしたいから今があるのか。そういう考え方は合理的ということではなく、現実的だ。

 もう一つ、この1ヶ月間でとてもお世話になったキティー先生。ネイティブアメリカンの夫がいて、授業で旦那さんがネイティブアメリカンの文化紹介をしてくれた。アメリカという国が多民族国家で、ある意味自由の国、ある意味いろいろな問題を持っている事、そんなことも学んだ。1ヶ月半の語学研修。私はスタートが英語全くダメダメレベルだったので、クラスで一番「伸び率が高い」学生として評価された。中学校の頃から英語が苦手だった私は、本当に嬉しかった。語学というのは、やはりその場に行って学ぶのが一番なのだ。それを体感した。

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