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カンボジアを生きる わたしたち ~カンボジアで出逢ったステキな女たち、男たち、そしてわたし~ 63.帰ってこれなくなった夏休み

 1997年7月、大学1年目の後期が終わり、テストが終わって私は3週間の予定で日本に里帰りすることになった。

 その時、まっちゃんが私に言った。

「もうすぐポル・ポトが攻めてくるよ」

 わたしは「何言っているの、そんなことあるわけないじゃない」と、笑って日本に帰っていった。

 その3日後、私が新宿で協力隊同期の既に帰国した仲間と飲んでいるとき、アルタの建物の大画面に「カンボジア内戦状態」というニュース速報が流れているのを目撃した。

 一緒にいた仲間は「幸恵ちゃん、カンボジア難民!?」などといって私をからかった。
 私はわけがわからず、何が起きているのか、把握できなかった。家に帰ってニュースで戦闘が起きたことを知った。

 まっちゃんが言っていた「ポル・ポト」が攻めてきたのだ。

 実際には、第1、第2首相を出していた2つの政党の順番が、その後ひっくり返ることにつながる政治的な大異変の前触れの「戦闘」だった。アニーや友人に国際電話をして様子を聞く。私がいつも頼っていた友人はトゥールコークに住んでいて、そのあたりは政府高官の家が多かったこともあり、軍隊があちこちに出て、時折大砲が撃ち放され、大きな地響きが起きたという。命からがらどうにか家を脱出し、在留邦人が集まるカンボジアーナホテルにいるということだった。

 この事件で、日本の建設会社に勤め、エンジニアとして国道の修復工事に携わっていた日本人の方が、砲弾の破片に当たるという悲惨な事故で亡くなった。日本でも連日ニュースになり、でもそのニュースに映し出される映像は毎日同じような場面ばかりで、いったい何が起きているのかわからなかった。

 私はといえば、3週間の予定だった日本里帰りは3カ月になり、私は仕方なく、カンボジアの協力隊員の先輩で、那覇のユースホステルの管理人?をやっていた方のところに身を寄せ、アルバイトをさせていただきながらカンボジアのことを心配する日々を送った。

 そして10月。ようやくタイ国際航空のバンコク-プノンペン便が運航し、それとともにプノンペンに戻った。

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