見出し画像

カンボジアを生きる わたしたち ~カンボジアで出逢ったステキな女たち、男たち、そしてわたし~ 71.ポル・ポトの死から始まったビジネス

 1998年4月。センセーショナルな事件が起きた。1975年~79年にカンボジアを虐殺の時代へと陥れたポル・ポトが亡くなったのだ。その前から、住民裁判が行われるなど、ポル・ポトやポル・ポト派残党の動きが報道されるようになっていたその矢先だった。

 あまりにも歴史的なその出来事に感化されて、私はもっとカンボジアの「時事」を知りたいと思い、以来毎日新聞を読むようになった。

 そんなある日、友達が「ある商社の人がバイトができる人を探しているんだけど、幸恵ちゃんやらない?」と連絡してきてくれた。

 日本から100万円を握りしめてきた私は、時々ガイドのバイトをさせてもらいながら、少しずつ生活費を稼いでいた。100万円は2年間でなくなってしまう計算だったので、収入が必要だった。このバイトの話もありがたく受けさせていただいた。

 三菱商事のプノンペン駐在員事務所で、グリーティングカードのあて名書きをするバイトだった。毎日、午前中の大学の授業が終わったらすぐに、自転車で同事務所に通った。ランチを所長さんとご一緒し(おごってもらえた!)、午後から仕事をするというパターン。ある日、ランチを食べているときにその所長さんが、私が持っている新聞を見ながらこう聞いてきた。

 「山崎さん、その新聞、クメール語の地元紙だよね?なんて書いてあるか読めるの?」

 ポル・ポトの死以来、新聞を読むようにしているんです。毎日頑張って読む練習をしているところなんです。そう答えると、所長さんはこう言った。「もうすぐ総選挙で、我々もカンボジアの時事情報収集に力を入れていて、東京にも報告をしなければならないんだけどね、英字新聞は情報が偏っているし、地元新聞は読めないし、もし山崎さんがそれを要訳して定期的に、たとえば週に1回、いや2回くらいのペースで送ってくれたら助かるんだけど。お金を払うからやってみない?」

 できるだろうか?わからなかったけど、ぜひやらせていただきたい。それから月100ドルの契約で、現地新聞を日本語に要訳して週に2回お渡しする作業が始まった。

 しばらくして所長さんは「これはとっても面白いと思うよ。おそらく他の商工会の人とかメディアとかもこの情報は重宝すると思う。商工会の他の会社に山崎さんを紹介してあげるから、これを売ってみてごらん。きっとみんな買うと思うよ」、そう言ってくださった。

 それから私の「営業」が始まった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?