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カンボジアを生きる わたしたち ~カンボジアで出逢ったステキな女たち、男たち、そしてわたし~ 43.直談判

 とにかく、私は行き場がなくなった。
 ソティア先生には「大使館はなぜ助けてくれないのか」といわれ、私は返事に困った。コネがないと難しいのかも。どうやら自分で解決するしかないみたい、と伝えた。そして私は考えた。私は悪いことをしに来たのではない。カンボジアで、カンボジアの言葉を、カンボジアの文化やいろいろなことを学びたいと思っているだけ。それを伝えれば、大学に入れてくれるでしょ。って。

 そこで、先生と考えたうえ、直談判をしてみようと、首相宛に手紙を書くことにした。
 最初から首相なんて思っていなかった。でも先生と話すうちに、誰宛に書くの?ということになり、教育大臣もいいけど、首相あてでCCで大臣を入れればいいと先生。そして、どの首相に?ということになり、そりゃぁ、順番からいって単純に第1首相でしょう。ということに。

 1993年のUNTACが主導した総選挙で、王族系のフンシンペック党が勝利を収めたものの、その後のカンボジアの安定と和平の担保のためには第2党である人民党にもポジションを作ることが得策と、新生カンボジア政府はフンシンペック等と人民党から「第1首相」「第2首相」が出され、内務省、法務省、国防省といった主要な省の大臣は「共同大臣」として両政党からの大臣が置かれた。とっても不思議な時代だったのだ。

 どんな文章だったか忘れてしまったが、とにかく私は、大臣より首相、第2より第1ということで、当時の第1首相だったラナリット首相宛の手紙を書く事になった。

 「私は日本から来た女の子です。カンボジアのことが好きで、協力隊で赴任していましたが病気になり帰国。でも戻ってきました。カンボジアのことをもっと知りたい、言葉を学びたいそう思っている人間です。悪いことをしに来たのではありません。もし、今制度がなくて私が入学できないのであれば、制度を作ってください。どこの国にでも私費留学制度はあります。それによって大学の収入を得ることも将来的に可能ではないでしょうか。カンボジアに私費留学制度が出来るまで、私は何年でも待ちます。だからどうか、制度を作ってください」。

 ソティァ先生と一緒に文章を考えて、先生に王族用語を用いて整えてもらい、知り合いを通じてクメール語のタイピングをしてもらい、「嘆願書」を書き上げた。

 教育省のおじさんに「私はこの手紙を首相に出したいと思います。もう一度省内で検討していただけませんか」と伝えた。するとおじさんは慌てて「ちょっと待ってくれ。この内容を大臣に伝えるから」と言った。

 その後、教育省から「あなたの最終学歴の証明書を提出してください。9月からの新学期に間に合わせるように、手続きをしましょう」との連絡が来た。

 ソティア先生は「これで大丈夫よ。さあ、書類をそろえてきなさい」と喜んでくれた。

 そして私は日本に戻った。1996年8月のことだった。

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