カンボジアを生きる わたしたち ~カンボジアで出逢ったステキな女たち、男たち、そしてわたし~ 64.ボンユキの孤立
プノンペンに戻ると、大家さんやまっちゃんはいつもの通り生活していた。街のあちこちに戦闘の傷跡があったものの、普通の様子だった。
まっちゃんが、「ユキが日本に帰ってからすぐ、戦闘が起きた。家族は皆田舎に避難したが、オレは家を守らなきゃならなかったから、ここにいたんだ」と教えてくれた。
良かった。皆何の被害もなく、焼き討ちにも、襲撃にも遭わず、無事だった。下町だったから、かえってよかったのかもしれない。
それからまた、普通の生活が始まった。
戦闘後の混乱で、さすがに大学がなかなか始まらなかった。始まったのは11月。11月は祭りが多く、それでさえも授業にならないのに、大学が始まってから私はイライラすることが多かった。
先生が大学に来ない。事情を聞くと、青年海外協力隊の語学現地訓練の講師をしていて忙しいとか、どこかの国に行っていて来ないとか。大学生をほっぽりだして、自分の副収入のために走っているのだ。
そんな大学の雰囲気の中で、学生達もとてもだらけていた。授業が休校になり、次の授業があるというのにみんな家に帰ってしまい、私とサビーと、そして学級委員長のレスマイという女の子だけが、2限目の授業に出ようと教室に残る。2限目の先生は「生徒がいないから休校にしましょう」といって去っていく日々が続いた。
政治的な混乱と、人々の将来に対する不安。目先のことで精一杯。そんな時代だったのだろう。
「こんなことで、どうするのよ。」
と、私は怒った。サビーやレスマイに、いま勉強する時期の学生が、こんな状態でカンボジアの将来はどうなるの?と食って掛かった。彼女達は、私の言うことはわかるけど、かといってどうにもならないと言って黙った。ふざけた雰囲気のクラスの中で、私はとてもイライラしていた。そして孤立していった。
ある日ソティア先生が私に注意してくれた。
「ユキエ、あなたの言っていることは正しいわ。でもこのままではみんなから孤立して、危害を加えられるかもしれない。気をつけなさい」と。
これは、クラスの中で私がみんなを批判しているのを聞いた学級委員の男の子が、「(私のことが)目障りだ」ということを言っていたと、ソティア先生がクラスの別の男の子から聞いたのだという。
私はその学級委員の男の子と話をした。私の言い方がすごく悪かったのは謝る。そしてみんながどうしようもないということもよく理解している。だからもう何も言わない。けど、この国を作っていくのはみんななんだよね。と。
その男の子はこういった。
「僕達も、このままでいいとは思っていない。でも、大学を卒業しても就職先もなく、教師になっても給料は20ドル。先が見えないんだよ。ボンユキはきっと、僕達のことを理解してくれると信じているよ」。
それから私は、クラスでボンユキと呼ばれるようになった。
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