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随流斎の記憶

なぜか、記録が少ない-。
そのうえ、残された道具も少ない。

謎多き表千家5代家元・・・
彼について、勉強したいと思い今のところわかる範囲のことをまとめてみたいと思います。
(誤ってる箇所や妄想の部分もあるので、ご笑読いただけると嬉しいです。そして、こっそり教えてくださるとなお嬉しいです!^^)

随流斎とは?

表千家5代家元
慶安3年(1650)~元禄4年(1691)
久田宗利と元伯宗旦の娘くれとの間に生まれ、4代江岑宗左の養子となって家元を継ぎました。表千家では代々「宗左」を称するが、随流斎は「宗佐」の字を用いています。(#「にんべんそうさ」と呼ばれていたそうです。)
なお、茶の湯の覚書『随流斎延紙ノ書』を残しています。

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どんな時代?

徐々に元禄文化へ向かう、茶の湯の遊芸化の時代といわれています。
茶の湯に限らず、様々な芸能が花ひらくような風潮があったかもしれません。井原西鶴は「好色一代男」「日本永代蔵」を書いたり、契沖は「万葉代匠記」という研究書を、松尾芭蕉は「奥の細道」をまとめました。利休居士百年忌もありました。

「随流斎延紙ノ書」って何?

随流斎宗佐自筆の茶書。
四代家元の江岑宗左自筆の『江岑夏書』とともに、千家初期の貴重な茶書。
表題はないが、七代の如心斎によって「随流斎延紙ノ書」と題されたようです。
(小形の杉原紙(延紙)に記された袋綴の体裁のため、こう名づけられたようです。)
内容は、おもに随流斎が聞いた茶の湯に関する話を書きとめたもの。
一つ書き形式で84箇条記されています。成立年代は不明確ですが、貞享4年(1687)から元禄元年(1688)頃にかけて書かれたものと推定されています。
随流斎の聞書覚書としては、このほかに『随流斎寛文八年本』、『随流斎寛文十年本』があり、『随流斎延紙ノ書』とともに『茶の湯研究 和比』第10号に全文の翻刻と解説、関連する論考がおさめられています。

少しだけ中身をご紹介します!
(以下、表千家HPより引用させていただきました。)

一、茶之湯安楽ニして楽事
不知、茶之湯持はやされて

「茶の湯は安楽なものであるのに、楽しむことを知らない。」

随流斎はおもに人から聞いた話を書きとめていますので、自分自身のことばはあまり記していないのですが、このことばは随流斎が茶の湯に対する思いを述べたものとして貴重です。「茶の湯は本来、楽しいものであるのに、楽しむことを知らない」といいます。そして、すぐ続けて「茶之湯持はやされて」と記しています。茶の湯を楽しむことを知らないのに、「茶の湯はもてはやされている」というのです。このことばは、随流斎がその時代の茶の湯をみて感じていたことでしょう。元禄3年(1690)、随流斎が41歳の年に初祖利休居士の百年忌を迎えました。この年には立花実山によって『南方録』が成立するなど、利休居士の茶の湯に立ちかえろうとする時代の風潮がありました。
この時代、茶の湯はたいへん流行して多くの人に受け入れられているものの、ややもすれば形式に流され、楽しむという茶の湯本来のあり方が失われつつあったことを随流斎は強く感じたのでしょう。 

一、信長公、アツチ御在城ノ時
住吉屋宗休(無)、ナヤノ宗休(久)、宗易
噂申上ル、信長被召出、罷出候時
宗易ニなる、信長へ両人就道同
召連出ル、其時、信長上意ニハ、
茶の湯ハ真伝ノ得申ヤと御
尋ありしニ、伝ハ紹鴎ニ得
申、道ハ珠光ニ得申と申上ル、紹鴎
伝の得申事、時節聞へたり、
珠光年数違、なけ頭巾の
茶入修復、圜悟墨跡表具
にて道ヲ得申と申上ル

利休は珠光をこよなく慕いました。たとえば利休が若き日におこなった茶の湯で「珠光茶碗」をよく用いています。これは高価な青磁ではなく、黄色がかった庶民的な青磁の茶碗と考えられています。また利休が円座肩衝の茶入を手に入れるかどうか考えあぐねていた時、それを投げ頭巾の茶入とともに何日か床に飾って眺めていたといいます。圜悟の墨跡は珠光が一休宗純から禅の印可証明(いんかしょうめい)として与えられたもので、利休もそれを尊重して自らの茶会でも用いました。利休は珠光の茶の道の伝統のうえに自らを位置づけていたといえるでしょう。
千家のわび茶の伝統は珠光にはじまり、紹鴎、利休へと伝えられてきたとする意識は、3代元伯宗旦のなかにも強く貫かれていました。「茶の湯の伝授は紹鴎から受け、道は珠光から得た」ということばは、利休の茶の教えとして、この話を書きとめた随流斎のことばであるようにも思えます。

随流斎ってどんな人だったんだろう?①

ここからは、想像の要素が強くなりますが・・
少し考えてみたいと思います。

「未不主」に込めた想い
先代や先輩のお茶人さんなどから聞いたことは記録するが、自分の言葉あまり残さないところや、落款に「未不主」(いまだ主ならず)と使っているところを見る限り、、、何か、「自分の不存在」を意識しているように思います。
本当に憶測でしかありませんが、兄である久田宗全へのしなやかな心くばりなのかな・・・とか妄想してしまいます。
(#けど、その後の後継が皆長男というのも少し気になりますが)
あと、個人的には花押が若干利休さんのケラ判に似ているところが気になりました。

友流斎とは?

こちらはあまりにも情報が少なく、あまりわかりません。
「江岑の庶子で三浦宗巴(友流斎)を後継としていたが夭折した」という記述が見受けられましたが、よくわかりません。。。

『随流斎延紙ノ書』をしたためた理由

いくつか理由はあると思いますが以下のようなものも可能性があるのかな、、と感じています。
・利休居士百年忌を前に「利休に帰れ」という機運が高まったこと
・友流斎の死と覚々斎が若すぎたこと
・自分自身の死期も感じていたのかも

随流斎ってどんな人だったんだろう?②

最後に、随流斎の残した道具からどんな性格の人だったのか、勝手に考察してみたいと思います。

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「歩々清風起」
力強くも繊細で、やや神経質な雰囲気も感じます。

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「尺八花入:旅枕」
「ただそこに、在る。」という雰囲気。なんの衒いもなく、どんな花でも受入そうだが、実際はかなり難しそうな(花を選ぶ)凄みを感じます。

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「萩茶碗:春風得意」
山里に春が訪れたような茶碗。感性の鋭さと優しさを感じました。

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「黒茶碗:綾織」「赤茶碗:夕照」
どちらも標準形。どこまでも、どこまでも優しい曲線が温かい。とても好きな茶碗です。

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「茶杓:淀川」
先ほどの茶碗とは一変。重厚にして力強い「しなり」みたいな蓄積されたエネルギーをその一見華奢な姿に感じます。死ぬまでに、本物を必ず見たい。

まとめ

随流斎という家元は、その複雑な人間関係の中においても、しなやかで営利な感性を秘めつつ、時に強く、強く、時に優しく、優しく、とてつもなく温かな人だろうと、勝手に想像してしまいます。とても好きな歴代のおひとりです。


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