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パートナーがすきなコブクロの話

わたしのパートナーはコブクロがすきで、
たぶん、“すき”ってことばを気軽につかえないくらいにすきなんだとおもう。

パートナーに出会うまで、
わたしはコブクロの本当のところに触れずに曲を聴いてたんだなとおもった。

初めて連れて行ってもらった前回のツアーは、もうほんとうにすごかった。わたしはどちらかというと激しいライブにばかり行っていて、もうこれまで数え切れないくらいライブに行ったし、ライブがあるからまた立ち上がれる気もしているくらいにはライブがすきで、忘れられないライブはいくつもある。

だけどコブクロのライブでなにがすごかったって、
小渕くんと黒田くんの歌声を聴いているうちに、
自分が、自分でおもっていたよりも傷ついていたんだって、気づかされたことだった。

そんなことがライブであるとはおもってなくて、風をみつめてでとうとう涙が止まらなくなった。
小渕くんのやさしいすこしかすれた声が、いつの間にか消えなくなっていた傷口に繊細に触れたかとおもったら、黒田くんのあったかい声が底からわきあがって結果なにもかも包んでくれる。

ああ、そんなにやさしく包んでくれるんだ…とおもったときにはもう涙が止まらなかった。

やさしい、というのはいろんな種類があるけど、
わたしにとってふたりのやさしさは、
つらかった、助けてほしかった、なんて言える選択肢もなかった過去にもそっとはなしかけてくれるような、
手厚すぎるやさしさだったんだよね。

どんなに立ち止まっても、うずくまってても、そこにいていいよと、言ってくれるような。

それは、パートナーがわたしにかけてくれるやさしさとおんなじだなあとおもった。


黒田くんが歌う「陽の当たる場所」は、パートナーのそばだったんだなとおもった。

パートナーが話してくれるコブクロは本当に素敵で、パートナーのことばを通して知れるふたりの関係は、いつの間にかわたしがパートナーとこういう関係でありたいと憧れるものになっていた。

だから、パートナーと相対する自分の未熟さにどうしようもなくなるときには、コブクロのふたりのことを思い浮かべる。それはだいたい、自分が自分の傷に気づけてないことが原因なんだけど。

わたしは、パートナーと出会う前、自分がたぶん物心ついたころから大事にしてきたものを手放さないと一緒にいられないひとと長く一緒にいてしまった。

パートナーと一緒にいると、そしてふたりの歌声を聴いていると、もう一度その大事なものを掴み直せるような気がしてくる。

春はすこし、ざわざわする

今まで見ないようにしてきたものが
明るみにでるような気がして

なにかが離れていきそうで
必死につかんでいようとおもう

コブクロの歌を聴くと涙が出そうになるのは、
春の季節に感じるざわめきとすこし似ている。

ざわざわするけどいやなわけじゃない。
消えていかないように大事に抱きしめたくなる。

今日も、明日も、あさってもその先も、
自分にのみこまれてパートナーが見えなくならないように

何年先も一緒にコブクロを聴いて泣いたり、
昔のはなしをしたり、これからのはなしをしたりしながら、ライブのあとのさいこうの夜道を一緒に歩いたりしていたい。

予期せぬプロポーズみたいになってしまった。

おわり。

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