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生きづらいから生き延びねば

ー本文ー

世の中には度を越して生きづらい人がいる

この生きづらさの程度も内容も人によって違いすぎて把握はできない

ただ、生きづらいというなら、それぞれに苦しみや困難に打ちひしがれ、のたうち回った経験が多々あるのではないかと思う

不幸自慢大会をしたいわけではないので、生きづらさの定義は決めないし、決められない

さて、自分が思う、生きることが困難なときの基本軸はどう生き残るか、だ

人生はドラマではなく現実だ

ドラマティックである必要もない

現実的に何に困っているか解決すること、ときには欲望を我慢して、捨てたくないものも取捨選択をして、普通の人生というのも捨てた方がよいときもある

というよりも、普通の人間、普通の人生、普通の愛や夢や欲望の「普通」は「理想」と同義で、存在しない

もし生きやすい普通の人たちがいるのなら、例えばそれは完全に足るを知る人たちだろう

波風立てず、それなりの生き方をして完全に満足できる、という

どうにせよ、幻想的な普通の人生は存在しない。平均的な普通に近い人生の方が多数派だけってことなのかと思う

理想的な愛情関係や思った通りの夢の実現が、たゆまぬ努力の先にあるように教わり、あるような気になるが、あるわけがない。これは距離と程度の問題で、求めるものに近づくために適切な努力をした結果、どんどん近づき続けたり、その過程で達成したり得るものだ

もし命とは別に人生のゴールがあったら、ゴールしたあとどう生きるというのか?

これは、取り違えると本当に死ぬまで渇望で苦しむ人生となってしまう。代償として、"本当に"幸福なり健康なり財産なりを失ってしまうかもしれない。

生きづらいのであれば、もっと目の前にあるのは「まずどうすれば今、生き残れるか」だ。

そこで最低限、今、享受できることも人によって本当に様々だと思う。享受できなくても受け入れるしかないこともあるかと思う。現実だから。でも気持ちまで腐る必要は実はない。

人生観といえば、向上心の高い人は、もっと高いものをどうしても求めてしまう。おそらくそこで葛藤や苦悩も起きるだろう。向上心さえ、良いものと言い切れないのだ

高い能力
栄えある成果
尊敬される功績
宝物のような友情
運命的な恋愛
安心できる財産
完璧な健康
当たり前の幸せ
普通の人生

程度はあれど、そういうものを欲しいと思うこと自体は自然だと思う。適切な方法なら、それが美徳とされることもあるだろう

でも度合いによっては、これは欲望のままに理想を求め続ける怪物の思考だ。だから盲信するのではなくバランスをとる必要がある。ときには努力しないことや妥協することや諦めることやらが、良い選択のときもある

変わらないことも美徳だし、変われることも美徳。重要なのはバランス、適切さ、したたかさ

ちょっと飛びすぎたが、とにかく今苦しい人にとってやることは目の前の一歩で十分なのだ。それ以上は頑張りすぎているし、それ以上をできるのはすごすぎることだ。無理をして壊れてほしくはないと思う

価値観や道徳、「当たり前」「普通」と教わったことを鵜呑みにしてしまえば、まともな人だからこそきっと病むと思う

普通のことや当たり前のことはあくまで理想であり、間違えから学んだり、違う方法を見つけたり、違うことを大事にしたほうがいいと判断できたり、それが成長ということ。というより、多くの人は建前としては持って、自分なりにカスタマイズして暮らしている

「当たり前」「普通」は当然、達成して当たり前だという人が生きづらいのは自然なことだ。不全感に苛まれるに違いない

生きづらい人はまた、いつかどこかで、(価値観としては美徳だとしても)明らかにおかしいことを要求されていたりする。さらに、それに応えられないことを罪のように思ったりする。

幼少期、初めて来る場所、優しさからの発言、あなたのためにあえて言う、そんなときは、明らかにおかしいことを要求されたことに最初は気付けるわけがない。どこかの段階で気付けばいいが、気付くことが難しいこともある

その冤罪としての罪の意識が深く沁みついているほど、今さら、実感として罪悪感が瞬時に消えることもないだろう。けれど、そんな"良いこと"で悩み苦しんでいる最中の人は決して罪深いことはない

また、自分の人生のコントローラーを他人に握らせてはいけない。他人の人生のコントローラーを握ってはいけない。それは支配だからだ。もし助けたいなら別の方法がたくさんある。

そして、罪悪感の基準はそれぞれの人の心の中にしかない。逆を言えば、罪悪感の基準は自分が作っているとわかれば、ましになったり、少しずつ変えていくこともできる

身動きすら取れず、うちひしがれ、苦しいことばかりになってしまうと、さらに「自分は弱いのでは?」とも思うしかないかもしれない。

過去の行動の結果として「現時点で弱い」ということはあると思う。この「弱い」は人のことではなく状態のことだ

また、強くあろうとする人ほど「強い」がゆえ戦い続けボロボロになることもある。それも「弱い」ではないはずだ

「弱い」が曖昧なら当然「強い」も実はよくわからないものだ

何が起きても気にせず元気な人がいて、あまり感情もないし、悩むことも特になく、適当に過ごし続けていたら、それが、「安定した強さ」ってことでよいのか?

「弱い」の状態でいるとき、それを受け入れ回復していくという究極の恐怖を乗り越えていかなければならないときがある

自分が「弱っている」「医学的に病んでいる」「普通とは違う」等のことを受け入れるということは、とてつもない勇気と覚悟が必要だ。それが出来ず問題から逃げ続ける人もいるのに、とてつもない勇気と覚悟を持って「回復する」「生き残る」「生き方を選ぶ」等の決断ができる人が弱いはずはない

自然界のサバイバルというのは残酷だ。動物なら即生死に直結する

現在の社会では、ある程度の保障は守られやすいし、サポートを望めば受けられる可能性も高い。気休めだが、自然界の動物ほどではないはずだ

邪魔になるのは恥やプライドの問題だ

弱っていて、欲深くて、承認欲求が強く、能力もとびぬけているわけではない、凡庸、もしくは少し下かも…

そんな自分を認めて受け入れるのは、のたうち回るほどの苦しみや恐怖を伴うし、誰でもできることではないし、完璧にできることもない

同時に、他者に受け入れられるはずがないという袋小路にも入ってしまいかねない

見ない、認めない、という選択を否定もしきれない。それで生きていけるなら構わないのかもしれない。どこかでバランスが取れて、生きれさえすればいいというのはある

ただ苦しみながらも乗り越えて生きる人は圧倒的に魅力的で、自分の人生のコントローラーを握れる可能性を持っている

自分の人生の地図を持っている人と、ただ逃げ続けるだけの人とが、何か違うと感じるのは当然だ

また、実は、弱くて能力が低いものを人はかわいいと思う。「私は弱くない」と主張したり、強くて能力が高いものをかわいいと思うことはなかなか無い。「弱い」ということは長所にも武器にもなる。
これは状態としての「弱い」でいい

弱いことを隠してもいいし、
弱さゆえに愛され助けられてもいいし
共存しながら上手い生き方をみつけてもいい

その上手い生き方は、ちょくちょく
「変わった人だね」
「私達には理解できない」
と言われるような戦法であったりもする

それで生きていけるなら、別に問題ない。むしろ素晴らしい。生きることより見栄やプライドを優先するのはやはり行き過ぎだと思う

Z世代とか若者かとか、後期高齢者かとか、どこの国の人かとか、全部関係ない

皆より良く生きようとする
当たり前だ

なんらかのまとまりで括られた上で、この世代は〇〇なんだと評されることは大体なんかおかしい。それこそ自分はただの自分だ

とりあえず、あらゆる窮屈さを感じるものに対して疑うことも大事だし、いきなり行動を変えるのもやりすぎなので、どうやったら自分を大切に守っていけるか考えていく。そして、それはわざわざ他人にわかるように言動に出す必要はない。(他人のためにやってるわけではない!)

思いつくパターンを出していったが、結局、生きていて、そのうえで何かを上積みできることはとてつもなくすごいことだ

生きづらさを恥じることはない。果てしなく寂しいかもしれないし、恐ろしく苦しいかもしれないが、常識を超えて曲乗りのように人生を楽しめる可能性を持っている

辿り着く場所が見えなくても、方向さえわかっていれば、たとえ一歩ずつでも進んで行ける

いくつかコツがあったり、罠があったりもする。それには、くれぐれも気をつけてほしい

ー要約ー

理想的な普通の生き方は存在しない

おかしいところがあったり、良いところもあったり、普通じゃない生き方も現実だと知って、幻想だったものは捨てなければならない

どうしたら今、生き残れるか
使えるものはなんでも使って
まずはそれだけを考えていこう

ー補足ー

多種多様なケースの、すべての辛さを拾うことはできない。こんな文章を書いても、たくさんのことをとりこぼしてしまうことはわかっているが、誰かにとってはヒントになるかもしれない

好きなように持ち帰ったり捨てたりしてほしい