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承認欲求が戦いを生み出す

なんの構成もなく思いついたことを書く。自分は文章を書くことに慣れるために、ただ書いている。だから読む人(がいたらの話だが)に有益な話はない。だが自分にとっては新しい気づきがあるかもしれない。

と、いうわけで「承認欲求」についてふと考えてみた。
こんな記事を書いていていて、言うのもすでに大きな矛盾なのだが、自分は承認欲求が強いと認識している。
というよりも強弱の差はあるにせよ、人間は必ず承認欲求があるはずである。
なぜなら人間は社会的動物で、それは他者から認知されて自分の存在を理解するからだ。そこには認知されている安心があり、安全があり、同時に見られていることで、その期待を裏切らないように振る舞う責任がある。
だから他者からの認知は自分の存在を立証するために必要で、それゆえ認知への欲求、承認欲求は当然誰にでもあるのだ。

そこまではいい。当たり前の話である。
問題は現代社会の承認欲求は、かなりの飽和状態になってきているということだ。
前述の通り、承認欲求は人間を人間たらしめる最低限の単位だった。
それが今、膨張し、ともすれば鋭い凶器になり得る戦いのツールになっているように思う。

SNSの登場で、世界は巨大な言論空間が生まれた。
皆が自由に発言し、ときに言い合い、ときにつながる。
だが、最近のSNSを見ていると、個人の表現が突出し、大きくなっている。もっと承認されたい。自分を認めて欲しい。表現が承認されていく人はやがて、発信力の強さを持つようになる。それは権力的側面を持つ。
こうして発信力を持つ者と持たない者に格差ができて、認知第一主義、認知階級社会ともいうような状況になりつつある。

ツイートでもフォトでも動画でもなんでもいいのだが、自己表現の膨張は、格差を生み、利益を生み、権力を生む。これはSNSに限ったことではなく社会とはもともと一部の上位階級に富も権力も集中するようになっている。いわゆるインフルエンサーというやつかもしれない。

しかし、現代人はまだSNS空間において、過大な承認欲求を武器にインフルエンサーを目指している。それを批判する気はない。社会的動物である人間にとって承認欲求は、生きていく上での大前提として持っている本能だからである。

とはいえ、この果てのない戦いにずっと参加するのも、精神的にしんどいというのが本音でもある。
実はみんなも同じ精神状態ではないだろうか。
確かに承認欲求は人間の本能だ。だからそれを突き詰めると、必ず争いが起きる。でも現実問題、世界中の全ての人々から認知されるのは無理だ。

そこで自分は考える。認知は、現実世界で家族と友人、床屋のマスター、焼き鳥屋の主人、かかりつけ医、それくらいで十分だと思おうと。

承認欲求を消すのは無理だ。
でも自分を極力客観視することで、ある程度コントロールはできるはずだ。少なくとも自分が破滅しない程度に。

ちなみにこのnote。
ここは最初に書いた通り、思いついたことをただのノリで書いている。落書きみたいなものである。基本人に読まれると思っていないので、自由にストレスなく書いている(現実は全く誰も読まないということはありえないのだが)。
noteで承認欲求を満たしたいなら、もうちょっと読む人の視点を考えた文章を書く。でもここでは当分ないな。
あくまでも自分のために、自分の記録用に書いているので。
ただ書き殴る。

あースッキリした。

本日はこれまで。

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