「自分の言葉で話しなさい」って難しいよね

僕が小学校のころ「自分の言葉で話しなさい」って怒られた記憶がある。でも、哲学をやって考えたら、難しいというより、そんなのできないことに気付いてしまった。たちが悪いね。でも、「自分の言葉で話しなさい」は何が問題なのでしょうか。少し考えたので、暇だったら読んでください。

「自分の言葉で話す」とは

よく言われる言葉だと思うし、よく言っている人もいると思います。僕が難しいとかできないとか言う前に、「自分の言葉で話す」について考えないといけないと思います。

どういうときに「自分の言葉で話す」を使うのか、から考えていきましょう。試しに「自分の言葉で話す」でGoogle検索したら、就活での面接とかを見つけました。僕が小学校のときに言われたのは、確かなんかの感想文とか、いい子ぶった言葉遣いとかをしていたときだった気がします。これは、自分で何かを表現するときに言われる気がします。面接では自分自身を、感想文では何かの対象をといった形でしょう。

自分が感じたことや自分しか知らないことは自分自身のものであるので、「自分の言葉で話す」ことを求められるのは当然には思えるでしょう。でも、これって実は奇妙なことなのではないでしょうか。

言葉に潜む側面

何で僕は奇妙なことと言ったのでしょうか。そこには言葉のある側面があるからです。その側面とは、言葉の平均化の作用です。少し例を挙げて考えていきたいと思います。

例 最近近くの遊園地に新しいジェットコースターができたそうです。僕はすごく気になっていて、ネットのレビューを見てみました。そこには「ものすごく怖かった」と書いてありました。そこで、少しビクビクしながら行ってみたのですが、そのレビューとは裏腹に満足しました。

この時に言葉の平均化の作用が働いています。レビューの怖かったという言葉では、その人がどこが怖かったか、どのように怖かったか、どのくらい怖かったか、が分かりません。なので、そのレビューの人はどういう怖さを感じていたかを「怖かった」という言葉では表現できないのです。

また、僕は「怖い」という言葉により、ジェットコースターが「怖い」の対象であることが分かるのです。その「怖い」はどういった感情なのかは分かります。それは、ある感情を感じたとき、それが「怖い」という感情に似ているので、その感情は「怖い」という感情であると判断してからです。でも、これは感情を一対一対応させているのではなく、近い感情を「怖い」という言葉で表すことができる言葉にカテゴライズしているのです。

つまり、ある言葉では表現できないものがあります。それは感情や考えである場合が多いと思います。しかし、言葉によってその言葉で表せる対象に近い概念にカテゴライズされてしまいます。これが言葉の平均化の作用です。

「自分の言葉」とは

いろいろ確認したところで、「自分の言葉で話す」の前半部分について考えてみます。「自分の言葉」というところです。果たして、「自分の言葉」とはどういったことでしょうか。

「自分の言葉」ということは自分固有の言葉ということでしょう。しかし、自分の言葉なんてものを持っている人はものすごく稀なことです。僕たちが今ここで使っているのは日本語です。アメリカでは英語だし、ドイツではドイツ語です。これは僕固有の言葉ではなく、日本人の言葉です。つまり、日本語は僕の言葉とは言えません。

ここで、僕の感情について考えてみます。これは僕しか知りえません。
例えば、明日運動会のとき、楽しみとうれしいが織り交ざった感情だとします。ここで、僕自身の感情を「たうしい」という感情であるとします。ここで、友達に「明日たうしいね」と言ったときどう思われるでしょうか。意味が分からないと思います。しかし、僕は僕固有の言葉で話しています。ここでは「たうしい」が「自分の言葉」です。

つまり、日本語を使っている間は「自分の言葉」で自分の感情を表現することはできないのです。ここに言葉の平均化の作用があります。自分の感情のグラデーションなどから成る表現しきれない感情を、日本語で表現していると思い込んでいるだけです。

「話す」とは

ここでは「自分の言葉で話す」の後半の「話す」について少し考えます。「話す」には誰かとということが暗に含まれています。(ひとりごとの場合自分と話すということにしてください)この時、他人に何かを伝えるには、他人と自分で共通な尺度がないと伝わりません。その尺度で他人と共通な何かを思い浮かべることができるのです。それが平均化された言葉です。

言葉によってとりあえずの尺度があります。その尺度は昔から使われていたもので、とても有用なものであるので、「話す」ときに使うべきものです。

「自分の言葉で話す」とは

これまでを通して、「自分の言葉で話す」が見えて来ると思います。今までの僕の話をまとめると、「自分の言葉で話す」とは、「自分のみが分かる自分の言葉を使って、他人と共通のものを思い浮かべる」ということです。これは絶対にできないことだと思います。人間がテレパシーを使えない限りでは。

なので、僕は難しいしできないと考えるのです。

おまけ 自分の言葉ではないけれども

おそらく就活とかで「自分の言葉で話す」と言っている人の暗の表示として、「(私たち日本人一般が使っている言葉のうちで)自分の言葉で(私たち個人に分かるように)話す」ということがあると思います。つまり、一般的な「自分の言葉で話す」は日本語で自分自身で言葉を選んで表現しようということだと思います。

これが最もうまい人は小説家です。小説家は表現するときに日本語を使いながら、自分が表現したいことを比喩や日本語の組み合わせで表現します。それでいて、他人に分かるように表現します。すごいです。つまり、一般的な「自分の言葉で話す」は小説家になれということなのかもしれません。

でも、だからと言って何でも感情などの自分固有のものを言葉で無理に表現する必要はありません。それで、自分だけの感情を無くすことはもっとよくないことだと思います。

補足

こういう風に考える素材として、amazarashiの曲がありました。
まず、amazarashiの『独白』という曲です。こちら最新のアルバムにも入っているので、是非聴いて見てください。この曲の冒頭の歌詞がすべてを表していると思います。

私が私を語るほどに私から遠く離れてしまうのは何故でしょうか?

そして、『とどめを刺して』という曲です。何かに規定されている自分にとどめを刺す、そして自分を見直すこと。
この2番の冒頭の歌詞に注目です。