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【人物紹介】オスカー・シンドラーとはどんな人か

第二次世界大戦下、誰もが助けを求めていた最凶の時代に、一人の実業家が命がけで1,200人ものユダヤ人の命を救った。

ナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺が行われていた1940年代、多くのユダヤ人は凄惨な迫害から逃れることはできませんでした。しかし、そんな絶望的な状況下で、オスカー・シンドラーという実業家が起こした行動によって、多くのユダヤ人労働者の命が救われました。

生まれた環境も経歴も、シンドラーが人道主義者になるとはあまり考えられなかったように思います。しかし、ナチスの残虐さに身をもって触れ、自らの良心に従いユダヤ人を守り抜こうと決意したのではないかと思います。
実際彼は、自らの富と社会的地位さえ捨て去る覚悟を持っていました。

シンドラーは約1,200人ものユダヤ人労働者を強制収容所からの収容を免れさせ、最後まで彼らの命を守り通しました。戦後、世界中から称賛を浴びた彼の功績とは、一体どのようなものだったのか。
今回は、オスカー・シンドラーの生涯と、彼が見せた並外れた勇気と人道主義について詳しく述べていきます。

事業を通じたユダヤ人の雇用

1939年、ポーランド領プロシア地方の町クラクフに、シンドラーはエナメル製品工場を開設しました。当初は軍需品の製造を目的としていましたが、ユダヤ人労働者を大勢雇用するようになります。シンドラーは労働者たちに対する扱いが良く、彼らを虐待から守ろうとしていました。

当時のナチス政権下では、ユダヤ人に対する差別が激しく、生活の場も仕事の場も制限されていました。シンドラーの工場はユダヤ人にとって貴重な雇用の場となり、虐げられることのない「安息の地」のような場所でした。

シンドラーはユダヤ人労働者に公正な待遇を約束し、ナチスによる虐待から彼らを守ろうとしていました。工場では良い設備と環境が整えられ、食事や休憩も適切に与えられていました。

ユダヤ人差別が加速する中で、シンドラーの工場はユダヤ人が生き残れる数少ない場所となっていったのです。後に彼の行動は、ユダヤ人労働者の命綱となり、更なる人道的活動へと発展していきます。

命がけの救出活動

1944年、シンドラーはユダヤ人労働者約1,200人をリストに載せ、強制収容所への収容を逃れさせました。彼はナチス当局に賄賂を渡したり、あらゆるごまかしを用いてこの活動を隠蔽しました。シンドラーの工場は"命のよりどころ"と呼ばれ、収容所よりはるかに良い環境が与えられていました。

全財産を使い果たす決意

シンドラーはユダヤ人労働者を守り抜くため、自らの富と地位を犠牲にしていきます。工場の維持費や賄賂のために、彼は家具や貴重品までを手放しました。
そこまでやってなお、最期には「もっと多くのことができたのに」と後悔の言葉を残しています。

オスカー・シンドラーの勇気ある行動は、およそ1,200人のユダヤ人の命を救いました。ナチスの残虐な弾圧下で、一人の人間の確固たる覚悟がこれほど多くの命を救うことができたのです。戦後、シンドラーはイスラエル政府から「ラハダッシムの誉れ」と呼ばれる最高の栄誉を授かりました。彼の業績と勇気は世界中で称賛されています。

オスカー・シンドラーの生い立ち

オスカー・シンドラーは1908年4月28日、モラヴィア地方のズヴィットァウ(現在のチェコ共和国領)に生まれました。父親はカトリック教徒の実業家でした。若い頃からビジネスマンを志し、様々な事業に手を染めていきました。1936年にはスデーテン地方に暖炉製造工場を設立し、ナチ党にも加入しています。

第二次世界大戦とクラクフ時代

1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻すると、シンドラーはクラクフに工場を移転させます。ここでエナメル製品の生産を始め、次第にユダヤ人労働者の雇用を増やしていきました。彼の工場はユダヤ人にとって安全な場所となり、虐待から逃れられる"小さな島"のようでした。

シンドラーはナチス当局に多額の賄賂を送り、工場の存続を図りました。1944年にはユダヤ人労働者のリストを作成し、強制収容所への収容を免れさせました。彼の工場は最終的に人々を解放する場所となりました。

戦後の生活と死去

第二次世界大戦が終結した後、オスカー・シンドラーはドイツ国内を転々としました。1949年にはアルゼンチンに亡命し、そこで残りの人生を送ることになります。アルゼンチンでは畜産業に携わり、ビールの醸造所経営にも手を付けましたが、経済的に苦しい生活を送りました。

戦時中の貴重な功績にもかかわらず、シンドラーは長年にわたり経済的な支援を受けることができませんでした。1962年にようやく西ドイツ政府から人道的配慮による年金を受け取ることができるようになりました。

1974年10月9日、オスカー・シンドラーは66歳の生涯を閉じました。葬儀にはユダヤ人で命を救われた人々が多数参列し、シンドラーの遺体に最後の敬意を表しました。彼の墓碑には「誰かの命を救うために自分の命を賭した」と刻まれています。

世界が称えた英雄

オスカー・シンドラーの功績は戦後から次第に知られるようになり、1993年に映画『シンドラーのリスト』が製作されると、世界中で彼の名は広く知られるようになりました。この映画は複数の賞を受賞し、シンドラーを戦時下の人道主義者として際立たせました。

1963年にはイスラエル政府からユダヤ人救援者に与えられる最高位の「ラハダッシムの誉れ」を授与されています。戦時中の行動が高く評価され、不朽の名声を得たのです。

シンドラーは人種や思想の違いを超えて、人間性という普遍的な価値を守り抜きました。一人の人間が、勇気と思いやりの心を持ち続けることで、どれほど多くの命を救うことができるのかを示しました。まさに20世紀最大の人道主義者と言えるでしょう。

映画「シンドラーのリスト」は名作です。
この機会にぜひ観てみてください。Amazon PrimeVideoで視聴可能です。



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