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何が競争を無くそうとしているのか

本日もお読みいただきありがとうございます。

 トライアスロンといいますかランの練習を実は2か月以上出来ていなくてかなり焦っている今日この頃。股関節を痛めたので静養していたのですが2か月経っても2kmちょっとで股関節の痛みが再発するのでついに理学療法士がやっているという整体に行ってきました。

 筋膜リリースの施術を受けて股関節の痛みは軽減されたと思うのですが足首にもみ返しと思われる痛みが発生しました。そしてアホだからもみ返しの痛みがある状態でゴルフの打ちっぱなしにいって100球ほど練習を行ったらまあまあ重度の捻挫したみたいな痛みが発生しました。

 まだ湿布とサポーターをしながら若干の痛みを抱えながら生活しているのですが、6月30日の本番に向けて何も出来ていないのがかなり不安になってきました。

 さてさて、何でこの年になってこんな必死こいてトライアスロンに打ち込んでいるのかというともちろん前回の自分に勝つ。すなわち「フレー、フレー、自分!」という側面ももちろんありますがやはり大会に出て少しでも前にいたいという方が強いです。

 昔からお手て繋いでゴールだの順位付けをしないだの時々話題になってた印象がありますが個人的には「ついにここまで来たか」と思わずには入れません。まあ私は学校教育関係者でなければ保護者ですらないのでとんでもなくトンチンカンなことを言っているのかもしれませんが、そこは恐れずに書いていきましょう。

運動会と言わない

 今回のnoteについて書こうと思ったときに今の運動会ってどうなってるのだろうかと少し疑問に思い調べてみました。あと私の甥っ子と姪っ子が小学生なので私の母校が今どうなってるのかを聞いてみました。

情報量的にはこちらがだいぶまとまってて分かりやすかったと思います。

 複数のサイトで確認したのですがいまや運動会は体育学習発表会と名称を変えている学校が増えているらしいですね。名前からして浄化されているというか競争意識をより一層削ぐようになっているように私は感じます。なんか学習指導要領に載ってそうな名称ですよね。

 直接的にダメと言われているわけではないにせよ、個体の優劣を認識させないようにするのって私は問題あると思うんですよ。そして団体競技での優劣もですね。

 運動会で個人種目と言えば徒競走ぐらいしか思いつかないんですけどこの認識で合っているのか不安になるレベルの記憶障害・・・中年の恐怖。中高の体育祭になってくると陸上のように個人種目や球技などが入ってくると思いますが小学生個人で言えば足が速いかどうかだけですよね。ということは種目のほとんどは協力競技だと思います。

 二人三脚、大玉転がし、ムカデリレー、デカパンリレー、玉入れ、綱引き・・・だいたいこんなところでしょうか。私が子供の時は二人三脚は怪我が頻発するため禁止になり台風の目とデカパンリレーとムカデリレーだったかな。

 とにかく小集団もしくはクラス全員で勝利を掴みに行くという感じでしたね。うーん随分懐かしいですね、足の速い奴だけで組むとか全体平均化とか勝つために色々考えていた記憶があります。大縄跳びとかめっちゃ練習してましたね。大縄跳びは全員だったか八の字だったかは記憶にないのが困りどころ。

 これ言っちゃうと私の地元が恐らく特定されるんですけど、運動会の組み分けって紅白の組じゃなくて3ないし4つの団で構成されていたんですよね。だから得点別のスコアボードが複数並んでいるので総合優勝という概念があるのでかなり力が入るんですよね。

 私は高学年の時に団長を務めていたので勝つための工夫と努力、出来る人間だけで突っ走るのではなくて底上げを図る。こんなことを子どもながらに学ばせてもらったと思います。

 最近の運動会といえば半日開催が主流になったそうで、上記の競技はなくなり、徒競走ダンスリレーの構成を半日で回すのが主流だそうな。いやはや午後の部が無いのは親御さんや先生にとってはありがたいだろうけど当時を知る人間としては残念な感じがしてしまいますね。

 ここまでは私が知ってる20年前の運動会と現在の運動会(体育学習発表会)の比較をざっくりと書いてみましたが、ここからは一人の大人として今の運動会というか教育方針の在り方に対する疑問を書いていきたいと思います。

競争は悪い事?優劣はよくない?


 この手の議論の時によく出てくるのが「勝ったら偉い負けたらダメ」という価値観を幼いこどもに植え付けてしまう。というようなものがありますね。創作にもよく出てきますがエリート一家に生まれた子供が親に振り向いてもらうために頑張って優秀なのに歪んだ価値観・人格になってしまうというものですね。

 勝たなければ意味がない、無価値というのは確かに幼い子供が内在していていいものではないと思います。しかし何故そうなったのかというと親からの承認が無かったからだと思います。

 であれば競争意識を持たせる環境を整えつつ、結果のみにフォーカスするのではなく頑張った姿勢を評価しつつ本人の興味関心に合わせたフィードバックをするのが適切ではないかと思います。

 勉強やテストなんてのはそれこそ目に見える形で結果も順位も出して競争をあおってるのに運動会にだけは勝ち負けや競争の排除が適応されるの不思議ですよね。

 繰り返しになりますが勝ち負けや優劣をつけることは悪いことではないです。未成熟な子どもを争いのある環境に置くと思いやりや相手を尊重する気持ちが損なわれるという懸念も分からないでもないですが、そこを守るのが保護者や指導者なのではないかと思います。

 我々汚い大人は身をもって分かっている筈です。世の中にはどうしたって優劣があって、順番を付けられて、良くなろうと思ったら頑張るしかない。出来ない自分や製品が評価されることは無い。

 そうして成り立っている社会にどうして競争を知らない子どもたちを送り出せましょうか?そんなに残酷なことは無いと思います。競い合うのは当たり前で向上心を持たなくちゃいけないし、何か胸を張って言えるモノを持たなければいけません。優しくしたり障害物を排除するだけでは強くなれないのです。

終わりに

 
 さて、随分と好き勝手言いましたが教育に携わる方々も馬鹿じゃないので恐らく現場や学識のある方々にはそうせざるを得なかった理由があるのだと思います。この分野に興味があるわけじゃないので何がどうなって誰が決めてきたのかは知りませんけど。

 しかし競争無くしてリスペクトは生まれないと私は思います。上に行きたい、勝ちたい、いい成績を納めたい、モテたい、褒められたい。こういった意欲を持つからこそ人は頑張れます。そして頑張った人にしか他人の頑張りは評価(≒理解)できません。

 よく「同じ○○としてXXさんのことはリスペクトしている」って言うじゃないですか。私はこれこそがリスペクトの本質であって、よく多様性の場で使われる他者との違いをリスペクトする、というのは言葉や表現として間違っている・・・とまでは言いませんが違和感があります。せいぜいが良くて黙認や放置でしょう。多文化や多様性のコンテクストにおいて使われるリスペクトは尊重というよりはトラブルを避けるための言い回しに過ぎません。

 いちいち違っていることを揶揄しなければ無用なトラブルは起こりません。だから牽制として「相手をリスペクトするのが大事」などという変な言葉が出てくるのだと思います。まあ揶揄する、もしくはトラブルに発生しうるのはどちらかが未熟なことも含め譲れない領域に入ってくるからであり、そこを牽制するための言葉だと私は考えています。

長くなってまたとっ散らかり始めたので本日はここまで。

あーゴルフ上手くならないし楽しくないし困った。どうしよう。

また今度

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