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元日の夜をひっくり返した三人の酔客

外食をしているとき、見ず知らずのおじさんが話しかけてきたら、みなさんどう思うでしょうか? それも飲み屋の席で、酒気を帯びたおじさんが割って入ってきたとしたら、どう対応するでしょうか。

あんまりいい気分にはならないでしょうね……
とくに、友人や家族で楽しく話していたとしたら、なおさらです。

「なんで、割って入ってくるんだろ」
「俺らの話、今まで聞いてたんだ……」
と薄気味悪く感じるに違いありません。

しかし、2022年元日に遭遇したおじさんは違いました。むしろ居合わせた人々に、人間の大きさを感じさせる振る舞いをし、我々のものの見方を一変させてくれた「紙一重の行動」を取ったのです。

*    *    *

その日、わたしたち夫婦は、初詣の帰りに門前の蕎麦屋に立ち寄り、日本酒三昧を決め込んでいました。隣のテーブルには先客として若い女性が二人。席に通される前から、甲高い声が入口近くまで響いてくるほどの大声で話しており、静かに飲みたいと思っていたわたしにとって、まァ不本意な席に通されたわけです……

彼女たちの会話の中心は、大きく二つ。
一つは、推しとの別れ。一つは、飼い犬との別れ、です。
二つの大きな別れが年末年始に立て続けに起こり、その気持を受け入れることができないでいる女性(仮にAさんとしましょう)、Aさんがほぼ一人で話し続け、もう一方のBさんが聞き役に徹するという構図で、会話が展開されていくのでした。

わたしら夫婦は、別に彼女たちの話を聞きたかったわけではありません。天ぷらやジビエ料理に舌鼓を打ちながら、ほとんど無意識のうちに、彼女らの会話とフュージョンしないよう、あえて意図的ともいえるような集中の仕方で、それぞれの酒や肴を味わい、評価を口にしていたのです。普段以上に声量を上げ、一生懸命、評価を下していたかもしれません。

それぐらい頑張らないと、自分たちだけの時間をその場で作り出すのは困難だったのです。

とくに、語り手であるAさんは、二つの大きな悲しみを経験したあとで、自分の感情を持て余しているようでした。カラ元気を出そうと努めているのが、上ずった声から感じられました。矢継ぎ早に語られる推しとのかつての関係と飼い犬との関係が混ざり合い、どちらについて語っているのかわからなくなるときがありました。ふさぎ込むような仕草を見せたかと思うと、笑顔をつくって回想してみせるなど、悲しいのか楽しいのかわからなくなるときもありました。

おそらくAさんも頑張って話してたんだと思います。
一方のBさんも、おそらく頑張って聞いてたんだと思います。
その二人の頑張りが、酒が進むにつれて大きくなり、ますます上ずった大きな声となって狭い店内を席巻することになったのでした……

わたしは途中で頑張るのをやめて、彼女たちの話を聞くようになりました。
妻も、酒肴を評しながら、耳を傾けずにはいられなかったんだと思います。
店内の多くの人が、彼女たちの話を聞かざるを得ないような状況が、いつの間にか作られてしまったのです。Aさんはアニ声ともいうべき、幼いけれども甲高い特徴的な声の持ち主で、その声は店内によく響きます。まるで、ひとり舞台。女優の語りを、酔客全員が静かに聞いているという状況です。

こんな雰囲気は、お店にとっていいものではありません。
同情する人はいたかもしれませんが、どうしたって赤の他人です。
甲高い声でギャンギャン騒ぎ立て、新年の晴れやかな気分が台無しだ! うるさい、迷惑だ! と感じる人もいたに違いありません。こんなひとり舞台が長引くようなら、直に注意するお客さんが現れても不思議ではない状況でした。
わたし自身もそのうち、「早く帰ってくれないかな」と思うようになっていましたから……

幸い、Aさんは喋り疲れたのか、声量が衰えていくフェーズに入っていき、そのタイミングを見計らったBさんが「二軒め行く? それとも帰る?」と切り出しました。

私は内心ホッとし、やっとうるさい隣人から解放されることに安堵しました。

Aさんはまだ飲み足りないようでしたが、結論は出さずに、お手洗いに立ちました。すかさずBさんは店員さんを呼び、会計を済ませます。

そして、つかの間の静寂が訪れた後、異質な声が舞台に割り込んできました。
「彼女、大晦日に飼い犬が亡くなったんだってね」
すこしかすれた、初老ともいえそうな、男性の声です。

ああ、ついに注意する人が現れたか……でも、もう帰るからそっとしておいてあげて……内心ヒヤヒヤしたのを覚えています。

「あなた、ずっと話を聞いてあげてたよね。ほんとうに、えらいね」
とくに酩酊しているわけではない、静かで落ち着いた声でした。

わたしは思わず顔を上げて、その声の主を見ました。
黒いニット帽にマスク、黒いダウンジャケットをはおり、黒いリュックを肩にかけたおじさんが立っていました。新年だからといって洒落のめしているわけでもない、普段着でぶらっとひとり飲みにきた近所のおじさん、といったイメージです。

「新年早々、つらいことがあったんだね」
「君が聞いてあげたおかげで、彼女もだいぶ助けられたんじゃないかな」
「ほんと、えらいね」

そんなことをしずかに語った後、おじさんはふっと泣き出しました。
顔をクシャクシャにしているのが、マスクとニット帽越しにもわかります。
Bさんはどうしていいのかわからず、固まっていましたが、とにかくおじさんから目をそらしません。わたしらも目をそらすことができずに、見ていました。そのタイミングで、Aさんが戻ってくる気配がしました。

おじさんは片手で涙を拭うと、何も言わず立ち去ろうとしました。そのとき、やっと、はじめてBさんが声をかけました。

「話を聞いてくださってありがとうございました。良いお年を……」
「もう年は明けてますよ。それじゃあ」

店は静かになり、周囲の会話も耳に入らなくなりました。

*    *    *

舞台から役者が消えても、観客たちはその余韻から離れられません。すくなくとも真隣にいたわたしたちは。

  • もし、二人の会話がありふれた、日常的なものだったら、どうだったろうか? 果たしておじさんは話しかけただろうか? それとも、素通りしただろうか?

  • おじさんが涙を流さなかったら、どうなっただろう? その場合、どこが去り際になるのだろうか?

  • なぜ、Aさんが席を立ったタイミングでBさんに話しかけたのだろうか? そして、なぜAさんが戻ってくる前に立ち去ったのだろうか?

  • そもそも、おじさんはなぜ話しかけたのだろうか? 同情したからなのか、それともやんわり注意したかったのだろうか?

  • 同情したのなら、その気持に寄り添いながらひとり飲みをしており、最後にどうしても気持ちを伝えたかったのかもしれない……

  • やんわり注意したかったのなら、Bさんにだけそっと気持ちに寄り添うような言い方をするのは、なるほど効果的ではある……

すべて推測の域を出ませんし、ましてや我々が評価を下せるはずもありません。正解はなく、ただ上記のような出来事があっただけです。

登場人物の立ち回りだけを切り取れば、近くにいただけの酔っ払いが、若い女性の会話を盗み聞きし、あまつさえ気持ちに寄り添い割り込んでくる――表面をなぞれば、ただの迷惑行為になりかねない、見方によっては暴力とも取れる、そんな大胆な行動です。しかし、おじさんがあのタイミングでBさんにのみ話しかけ、涙を流したことで、状況が一変しました。

第一に、感極まった涙が「この人は悪い人ではない」という直感を一瞬にしてわたしたちに与えてくれたこと。そして第二に、これは結果としてですが、半ば強制的に観客にさせられてしまったわたしたちの、彼女たちを見る目をガラリと変えてしまった、ということです。

もし、おじさんが何もせず帰ってしまっていたら、わたしたちは彼女ら二人を永遠に「ただのうるさい、迷惑な客」としてしか見られなかったでしょう。終始いらいらし、その日を限りに忘れ去られてしまう存在になったはずです。

が、同情や共感、あるいは怒りや自己憐憫であっても、おじさんが話しかけたことで、わたしたちが彼女らを見る目も変わりました。Aさんは、元日にも関わらず友人を誘わずにはいられないほど辛かったのかもしれませんが、終始笑顔で話す前向きな人でした。Bさんは、そんな友人を気遣い、元日にも関わらず酒の付き合いまでして、終始聞き役に徹していた心の優しい人でした。

それまで、「うるさい客」として直線的にしか見られなかった彼女たちに輪郭が生まれ、一人ひとりの「人間」が立ち上がってきたのです。
同じように、おじさんが涙したことで、彼を見るわたしたちの目も変わりました。元日の夜、ひとり飲みをしている孤独な老人とか、勢いだけで若者に絡むうざい酔客といった印象を覆し、見ず知らずの人であっても共感し、正しい姿勢、正しい振る舞いで的確に気持ちを伝えることのできる、心優しいおじさんという印象に180度転換したのです。

赤の他人にこうして思いを馳せずにはいられないのも、あのおじさんの行動が紙一重だったと思えるからです。双方の態度や性格、瞬間瞬間の言動によっては、すべてが台無しになる可能性がありました。

つくづく、人生はやり直しのきかない選択の積み重ねだと思うと同時に、今を大切に生きようという気持も新たにできた門前町での出来事……

Aさん、Bさんにも彼女らなりの元日があったのでしょう。
おじさんにも彼なりの元日があったはずです。
そして、わたしたち傍観者にも、わたしたちなりの元日がありました。

2022年はこうして幕開け、忘れられない一日となりました。

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