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歩こう、時にはPodcastを聞きながら。時には頭を真っ白けにしながら。

2022年に日本語翻訳版が刊行された『運動脳』では、「脳は身体を移動させるために」発達した、また有酸素運動は脳のパフォーマンスを上げる、と説かれている。運動は最強ということだ。『筋トレが最強のソリューションである』と似て、単一の行為が、現代人の持っていがちな種々の悩みを解決してくれる、という論法だろう。

運動も筋トレも、どちらも適度な範囲においては心身に好影響を与えることは異論を待たない。…が、今はそれはどうでもいい。歩くことに関するそれっぽい導入をしてみたかっただけだ。しかし面倒になってきたので、打ち切る。はじめたことを悔やむよりは、歩こう。筋トレはなかなか続けられないから。

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歩くことから連想すると、ここ数年間の間に、Podcastを聞く習慣がついたことが思い浮かぶ。最寄駅から自宅への帰り道の十数分間。洗濯物を干す十数分間。自宅から保育園までの十数分間。台所で洗い物をする十数分間。昼飯を近所に食べに出る、その往路と復路の十数分間。乾いた服を取り込み畳む十数分間。歩いていないものも混じっているが、Podcastチャンスは毎日のように訪れるわけだ。何がきっかけかも覚えていないが『コテンラジオ』からはじまり、『ゆる言語学ラジオ』『ゆるコンピューター学ラジオ』『All Ears English』『超相対性理論』『GREEN BUSINESS』『TAKRAM RADIO』とラインナップは増えていった。

面白いのだ。しゃべりのみで生計を立てているわけではない人々のコンテンツであるが、ネタや構成が良く練られ、あるいは対話の中で教養や考える力が発揮され、時には単純に笑えて、また思ってもみなかった自分のアンテナが刺激され、それはそれは聞くに堪える。(All Ears Englishは、たまに英語に耳を触れさせたいだけなので別枠。)

一方で、次の目的地まで十数分間歩くな、となったら反射的にワイヤレスイヤホンを装着し、Podcastを再生している自分にも気づく。「ながらPodcast」は、タイパ観点では褒められた行為かもしれないが、これでいいんだっけ? 何か失われているものがあるような、との思いも去来する。失われているのは、頭の中でなんとなしに、考えがあっちやこっちに、ふらふらと千鳥足で彷徨い、あるいはジャンプし、時には居座り、また思ってもみなかったところに連れていかれる、そんな体験だ。

いわゆる、頭真っ白けの時ほどアイディアが浮かんだり、点と点が勝手につながったりする現象だ。ぽけーっとしているときや、単純作業に身を委ねているとき、それは発生しやすい。昔からそれが頻発していたわけではないけれど、その機会が減ってしまっているのは、感覚的には確からしい。ぼけーっと歩く機会が減っているのだ。

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「頭真っ白けオポチュニティ」を奪っているのは、Podcastだけでなく、スマホ全般かもしれない。エレベーターに乗るや否や、目的もなくスマホに手を伸ばす。せいぜい数十秒でできることなど、Twitterのポストをいくつか見るくらいだというのに。食事を終えると、視界に入ったスマホをいじりはじめる。どうせTwitterで知らない人の子ども関係のポストを見てクスッとしたり、マンガの広告アカウントで十数ぺージの試し読みをしてはピッコマかなんかに飛ばされるだけなのに。洗濯物を畳み終わってワイヤレスイヤホンを外すと、流れるようにポケットからスマホを取り出す。OSの機能で一日三十分までと決めたTwitterのアプリ使用制限を、今日だけと言って三日連続で外すに決まっているのに。

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いったい私は何をしているのだろうか。人間よ、スマホを捨てて、運動せよ。捨てなくてもいいから、画面を閉じて、散歩に出よ。SNSに浸るな。自分で設定したアプリの使用制限は、遵守せよ。

一説には、「歩く」は「在る+食う」から来ているという。在れば、食われる。自然界もそうだし、スマホコンテンツもそうだ。私たちは、食われないために、歩く。自然界なら、天敵に食われないために。人間界なら、スマホに食われないために。歩く。食われるのではなく、自分が食うために。…念のため記しておくと、「歩く」のような基本語にはしばしば、語源の説がいくつもあるが、「在る+食う」なんて有力説はない。「あ」は「足」から来ているという説は、いくつかあるようだ。

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