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「めちゃイケ」を巡る個人的な愛憎について

この記事は2018年1月5日に書かれたものを大幅に再編集したものです。
当時かなり感情的に高ぶって書いていることを先に言い訳しておきます。
ちなみに、この年の3月いっぱいで「めちゃイケ」は22年もの長い歴史に幕を閉じている。

2018年1月2日のめちゃイケSP、つまり中居さんとナイナイの日本一周を観た。圧倒的自称「めちゃイケ」で育った生粋の”めちゃイケっ子”として色々考えさせられた。

このシリーズはめちゃイケファンとしてかなり"鉄板"に近い企画で、もちろん楽しみだったわけだが、
横並びの番組は

①ブラタモリ&家族に乾杯
④しゃべくり007
⑤とんねるずスポーツ王
⑥モニタリング
⑦池の水全部抜く

と、自分が担当することを想像するとゾッとする各局フルスイングの超激戦タイムテーブル。

で、見ていて(嫌な意味での予想通り)やっぱり悲しい気持ちになった(もちろん面白いところもあった)んだけど、一体この悲しさはどこから来て、いつからめちゃイケをそう思うようになってしまったのか考えてみた。

そもそもテレビって"普通"は時代の流れや雰囲気を捉えて変容して行くものだと思っているんだけど、めちゃイケは創世記から都市伝説的には何百ページにも及ぶとも言われている段取りやフリ、オチまで綿密に計算され尽くした台本を演者達が実行する”ロケコント”というスタイルを徹底的かつ普遍的に貫き続けている。

この”貫き続ける”という行為は、それだけである意味すごい。
と作り手となった自分は改めて思う。

面白い面白くないとかじゃなく(もちろんそれは大切なことなんだけど)、めちゃイケの制作スタッフは、今の(数字がとれると言われている)バラエティの作り方や潮流に全く影響を受けず、全くブレることなく作り続けていると感じたのだ。

つまりそれは"視聴率"という、とりあえず現状のテレビ界における「成績表」みたいなもの=”数字を取りに行く”というゴールデンタイムでは特に必要とされるテレビマンの基本的姿勢とは真逆のスタンスとも言える。
(ホントはめちゃくちゃ今の高視聴率番組を研究・分析していた上で作っているならごめんなさい。心から謝ります。)
先日バズりにバズったAbemaの72時間ホンネテレビのタイトルをパロってるとか、時事ネタをちょくちょく入れ込んでるとかそういう表層的なことじゃなく。

番組そのものの構成や構造や世界観が20年前から全く変わらない。

ここまで変わらないのは演出(チーフD)の思想が圧倒的に強いからで、このスタイルが圧倒的に面白いと、ある意味盲目的に信じて信じて信じ込んで作りきってることがその普遍性に繋がっているんだと思うんだけど、それが現状の指標とされている結果(視聴率)に結びつかない時に、終わりの始まりが確実に忍び寄ってくるわけで、そうなってくると終わらせないための戦闘と、自分なり番組なりの面白さを追求する戦闘という2つの答えのない、両立しづらい難題(つまりクリエイターと会社員との激しいせめぎ合い)と戦い続ける日々が始まる。

だって、会社員じゃ無くても社会人になれば誰でも分かると思うんだけど、”結果”が出ないモノは淘汰されるから。

そして感動を呼んたエンディング部分での中居さんのスピーチで語られた

"最終回が来ないように頑張ろう"

これは、バラエティ制作の普遍的であるべき思想で、ドラマ・スポーツとの圧倒的な違いがここにある。

スポーツ中継は試合終了と共に終わるし、ドラマもクールで終わる。映画だって上映で一応”終わり”だ。

でもバラエティは終わってはいけない。
これは精神的にも肉体的にもとてつもなく苦しい至上命題なのだ。

終わらせないために毎週結果(視聴率)を受けて、
「このブロックは視聴率上がった。」
「ここでF2が逃げてしまっている」
「このタイミングでのCM入れによって他局に流失している」
「ウラ局がこの企画できたときは視聴者層がバッティングすることがわかったから今後は◯◯の方針で行って視聴者層を棲み分けよう」
などと言った、いわば答えのない、果てしない微調整・試行錯誤をを繰り返し、延命し続けなければいけない。

だから自分は、自分が企画段階から作り上げた番組に対して
"おれが面白いと思ったものをやりきって数字取れないなら終わってもいい"
とは絶対に思わないし、もちろん絶対に冗談でも口にもしない。

だって番組が終わってしまったらそれは文字通り"終わり"で、どんなに伝説的な放送回があっても、もうそれを上回る伝説回を"放送"する枠やチャンスは無くなるんだから。
もちろんそれだけではなく、一緒に作ってきた出演者、スタッフの生活の糧となる”収入源”を奪うことになるんだから。

だから僕らは"終わらないためにどうすればいいか?
"結果"を残しながら面白くありたい"を追求する。
この精神的肉体的磨耗は想像以上に激しい。

これは「あいつ今何してる?」がゴールデンタイムに昇格した2016年の4月から毎日のように体感している。

いやいや、で何が言いたいの?って感じだろうけども、だからこそ、ここ数年”結果(視聴率)”がほぼついて来ていないにも関わらず、”スタンス”を全く変えないめちゃイケの”ブレなさ具合”に驚きというか関心というか、正直なんか引いちゃう自分がいた。
自分たちの”面白さを作り出す演出”を信じすぎじゃないか?って。
(※実際今回のSPも結果的には惨敗だった。)

2019年元旦にNHKでやっていた「新春TV放談」でヒャダイン氏が「今の視聴者は嘘が嫌い。」と言っていたんだけど、これは総じて正しい現状認識だと思う。

で、かっこよく言うと、その時代感と真っ正面からぶつかって戦って死んだのがロケコントをやり通しためちゃイケなんだと思う。

かっこ悪く言うと、その時代感に気付いていない、気付こうとしていないがゆえに体中傷だらけになって血だらけになって「あれ?俺もう死ぬじゃん」って気付かされたのがめちゃイケだと思う。

でもこのめちゃイケのスタイルって、たぶん巷で言われている、「テレビマンは様々な規制の中で自分達が作りたいものを作れなくなっている」という風潮には真っ向から刃向かっていて、「作りたいものを作っている」と思うから、「それで死ぬなら本望だ!」って本気で思っている気もするし、じゃあそれって別に幸せな死なのかなとも思うけど、じゃあその「作りたいものを作る」って何なの?って話になってくる。

個人的には「作りたいものを作って終わるなら良い」っていうのもやっぱり違うと思うんだよな。終わっちゃダメだよ。
まず出演者の時点で「終わる」事に対してあんなに悲しい表情になっているわけだから、終わることが正解で正しいなんていうポジティブな解釈は、バラエティ番組には存在しないし、存在しちゃいけない。
もし「終わるべくして終わった」とか「終わって良かった」と思う番組スタッフがいたら俺は逆にそいつが番組を勝手に去れば良いと思う。そう思った段階で。

でもそれと同時に、中学生の頃からずっと大好きだった「めちゃイケ」を、こんな風にして客観的な視座で(勝手に)分析してしまう(ピュアに楽しめ無い)自分にも落胆した。というか悲しかった。

だが、せっかくここまで言語化してみたので「作りたいものを作る」議論に話を戻すが、まずそもそも「テレビで(自分が)作りたいもの作る」って、思ってるより、言葉にするより体感的には5,000倍くらい難しい。
特に時間帯が上がれば上がるほど。

何が難しいって、「作りたいものを作る」ことを貫いて結果につながるということは、自分が私的に面白いと確信したもの=何百万、何千万という視聴者の感性と一致するという、圧倒的共感性を持った演出家ということになるわけで、これは数多いるディレクターの中でほんの数%の天才だ。

それ以外の自分も含めた演出家たちは、上記の微調整をただひたすらに消耗しながら続けていく。

しかしこれはあくまでも”テレビ”における”結果”の出し方であって、テレビとネット(もちろん映画も)での、"作りたいものを作る"って別次元というかベクトルが違いすぎて、同じ土俵で議論すべきではなくて、
例えば「アベマに負けないくらい過激なことをやろう」っていう逆算思考でテレビの企画考えても意味がないと思う。

ネットでしかできない企画
テレビでしかできない企画

をそれぞれで徹底的に研磨することが、それぞれがそれぞれで独自の発展を遂げられる。

だからネットはテレビにとって敵ではないと個人的には思ってる。
で、少なくともテレビにおいて「テレビでしか出来ない企画」を”やり続ける”ためには、とりあえず”結果”を残さないと”続ける”ことは出来ないんだから、”結果”を残すためには、時代の流れや流行や視聴者の感覚を分析、認識、研究することが必要最低条件だと思う。個人的には。

そんな”テレビ”について考えさせられた「めちゃイケ新春SP」だったわけですが、現在のテレビ界を支えているといっても過言ではない2人の巨人の言葉を添付してこの文章を終わりにしたいと思います。
我々はまだ死にません。

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