自分が「好き」過ぎない人たちの大切さ〜人工知能が「生命」になるとき、を読んで〜

AIは敵か味方か、それはさておき

人工知能=AIは、ここ数年でよく耳にする言葉になった。子供の頃は、マンガやアニメにおけるキャラクター設定の一つだったAIが、現実世界でも見かけるようになった。

それは想像していた姿と少し違うカタチをしいた。
スマートスピーカーや、風変わりな自動販売機や、生き物っぽい動きを見せるゲームキャラの姿をして現れた。
そして同時に、AIによって多くの人々が失業する、だの、2045年に社会はAIに乗っ取られる、といった、AI脅威論も、一緒になって。

本書は、AIを便利な道具と捉え、一神教的思想に根差す西洋的人工知能と、AIを混沌から産まれる別の独立した知性と捉え、多神教的思想に根差す東洋的人工知能の、2つの存在を示すところから始まる。そして、その2つの似て異なる存在が、人工知能を人工精神、人工生命へと進む道程を示す。

それぞれの章を箇条書きにすると
1章.人工知能を西洋的思想と東洋的思想の2軸で捉える考え方
2章.2つの思想によって作り出される、または求められる
   「キャラクター」の違い
3章.そのキャラクターを、オープンワールドのゲーム世界に
   生み出した時に産まれる「根っこ」の違い
4章.そのように生み出されたキャラクターたちは、ゲーム世界を
   どのように認識し、どのように振る舞うのか
5章.これまでゲーム世界に生きた人工知能を、リアル世界に
   連れてきたとき、人工知能からみた人間はどのように映るか
6章.リアル世界で行われてきた人工知能による、自動化の歴史と未来
7章.実際に人工知能と触れ合う場となる「都市」の中で、人と自然との
   関わり、人工知能をより取り入れたスマートシティの姿について
8章.人と人工知能がコミュニケーションを取る手段である「言葉」と
   その元になる「文章」
9章.人工知能のガワとなるキャラクターの「中の人」である
   エージェント同士が繋がり合う、マルチエージェントの存在
10章.人工知能にアシストされる、人工知能を纏った人間拡張による
    社会の変化
終章.西洋的人工知能と東洋的人工知能の両軸からなる、人工精神
   人工生命に至る未来の考察

これに全体の概要を説明する「ゼロ章」を冒頭に加えた全12章から構成される。
AIでビジネスが変わる、や、AIについて解説するHowTo的な内容はなく、現在AIが「生きている」ゲームの世界をベースに、人間社会とAIとについて考える内容となっている。

キミの事わかっているよ、って顔をされると癪に障る

今回、本書を読み終えて最初に思ったのは、この様な「関わりのない、よくわからないモノ」に触れる機会がめっきり減っていたな、ということだ。

まずは1度読み終えたところ、哲学や宗教について明るくない私には理解できない箇所が多々あり、2度3度と読み直した。
「阿頼耶識」など、2015年から放送された「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」に登場した、モビルスーツ操縦支援システムの名前の一部でしかなく、まさかこれが仏教用語だと思いもせず、「ミノフスキー粒子」と同じ様な造語だと思い込んでいた。

そんな私にとって、AIやディープラーニングなどは、辛うじて意味を知っている程度のもので、未だFAXが幅をきかせる建設業界に身を置いていると、本書の示すような世界観とは、袖が触れ合うどころか、生活圏すら交わらない。

そんな私でも、近年目にする情報は、検索履歴や閲覧履歴を元に、システムが選択するようになったと感じている。
ブラウザのトップページに表示されるオススメ記事は、私の検索結果を元にしているだけあって、しっかりと「興味がありそうなこと」でまとめられている。Kindleのオススメも、私の趣味嗜好を読み取り、さらには本来知る余地もない、同じ本を買った人たちの購入履歴を参考にして、しっかりとラインアップを整えてくれる。

それは当然、ページビューや追加購入を期待してのもので、親切心などではない。
でもそこには、確かに「考えた形跡」が感じられて、本屋の店先で見かける「売上トップ10」よりは、暖かさを感じる一方、その整いすぎた情報に、しっかり切り捨てられた「偶然」の少なさに、不便も感じてもいる。
その不便さの正体が、本書の導入部で取り上げられる「西洋的人工知能」に対するものであり、裏を返すと「東洋的人工知能」への期待なのだろう。

一方、過去を思い返すと、この不便さをどう感じていただろうか。
「関係のないモノゴト」に偶然出会う機会は、今と比べても多くなかった。プロフィールの趣味欄に「インターネットサーフィン」と書けた短い期間がちょっと特別だったかもしれない。
それ以降は、「興味のある(かもしれい)モノゴト」に出会う機会だけが、西洋的人工知能の発達により、圧倒的に増えた。
その結果、偶然の出会いは「数が減った」のでなくて「率が下がった」のだ。

そして数を増やした「興味のある(かもしれない)モノゴト」の正解率は、対して高くはない。的を射たものは1割程度で、残りのほとんどは興味がないか、もう用事の済んだものだったりする。
9割に出会うたび、それはもういいよ、と思う。
終わった話題を振り続けてくるおせっかいな彼らに、大半は余計なお世話だな、と思っている。

近すぎるイライラと、遠すぎるイライラ

このストレスは、あなたのこと分かってますよ、みたいな顔をしながら近寄ってきて、その実それほど分かっていない商売人に対するものだ。
今よりもっと「これ」に囲まれる生活は、想像だけでもうんざりする。

それを感じない相手とは、自分に近すぎない他人であり、本書に登場する東洋的人工知能的で、「その他大勢」だけど「全く知らない他人」ではないマルチエージェントのような「中距離の他人」ではないだろうか。

中距離の他人、という関係は、人によって捉え方が違うかもしれない。
実は、中年の私にとって、家族を除くほとんどが、この「中距離の関係」に当てはまるように思う。
だとすると、東洋的人工知能は、今の私にとっては足りている要素の代替物でしかなく、あまり魅力的なものではない。
しかし、他人との距離を縮める事を良しとし、その距離が近くなりがちな人たち。例えば10代の子どもたちにこそ、必要なものではないだろうか。

というのも、私は学生時代、水泳部にいながら、水球という日本では超マイナー競技に取り組んでいた。マイナー過ぎて、同年代では練習もまともにできない状況だった。なので部活動とは別に、地元の水球チームにも参加していた。
そのチームは、学校の先輩後輩だけでなく、他県から来た大学生や、30代の子育て世代や、40近い独身貴族もいた。それは、学校生活だけでは出会えない人たちだった。高校生の私にとって、学校やその延長である部活動とは(まったく関係がない訳ではないが)別の、バラエティに飛んだ人間関係があった事は、当時はそれ程意識しなかったものの、振り返ってみれば貴重でなことで、結果自分の選択肢を増やしてくれるものだった。

子ども達にとって、友人でも、先輩後輩でもない、家族でもない、フォロワーでもない、程よい距離の他人として、人ではない、バラエティ豊かな(マルチエージェント的な)人工知能が寄り添う未来は、楽しいものになるかもしれない。

#PS2021

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