小じさん第20話「遊園地と小じさん 4」
小じさんは嫌味な笑みを浮かべて、私とりょうくんを交互に見た。笑みといったって、のっぺらぼうの小じさんの表情なんて本来わからない。けど、この状況で小じさんが浮かべる表情は間違いなく“嫌味な笑み”だ。
「なんやなんや、ふたりして狐につままれたみたいな顔して。あれか? ワイのこと見えてんのは自分だけやと思とったんか?」
「え、サヤさん……も?」
りょうくんがおそるおそるといったふうに言う。私は無言でうなづいた。それ以外に反応のしようがなかった。
りょうくんは魂が抜かれたように力ない表情のまま静止している。
それはまあ、そうなるだろう。
りょうくんだって小じさんのことが見えているのは自分だけだなんて思っていたわけではないだろうけど。それは私も同じ。でも、まさかこんなにも近くにいるなんて考えてもみなかったというのが、たぶん、今の私とりょうくんの気持ちなのだ。
「ま、なんにしてもそういうことや。わざとやないで。ワイも見える相手を選ぶことはできへんからな。お前さんらが気づいたらワイのこと見えてんのと同じように、ワイも気づいたらお前さんらに見られとんねん。この世ではいかなることも不意やし、理由があるようで無うて、けっきょく、眼の前で起こってることはただの事象でしかないんや。たまたま、そうなってるだけなんや」
小じさんはそこで言葉を止め顔を上の方に少し傾けた。その先には観覧車が見えた。巨大な輪がゆっくり時計回りに回っている。
観覧車は絶えず動いているけれど、ずっとそこにある。乗ってもどこにも行けない。前半うえに上がっていくとき、私たちはエネルギーを与えられる(“位置エネルギー”って言うんだっけ? 物理で習ったような気がする)。けれど、後半降りていくときにそのエネルギーはすべて奪われて、乗ったときと同じところに降ろされる。どこにも行けない。何も変わらない。ただ、時間だけが過ぎる。なんだか、私の学生生活みたいだ。観覧車はモラトリアムを物理的に表現したものなのかもしれない。
観覧車に乗り込んだときの自分と、降りるときの自分は何か変わっているだろうか。何か、大したことでなくてもいいから、なにか変わっていてほしい、そんなことを思ったとき、小じさんが再び話し始めた。
「けど、そんなこんなの総体が人を幸せにも不幸せにもする。人生は、人が事象に翻弄されて過ごす時間や。せやけど、確実に幸せと不幸せというもんがある。それは、捉え方の問題のようでいて、どうやらそれだけではなさそうや」
どうしたのだろう。今日は小じさんの言っていることが、あまりまとまっていないような気がする。今話していることは、小じさんにとっても手に余る内容なのかもしれない。
小じさんの言葉が途切れたところで、りょうくんが口を開いた。
「それで、あなたのような存在がいるんですか? 理不尽に不幸せになってしまう人を助けるために」
「それは、ワイもわからん。けど、どうせわからんのやったら、意味があると思いたいわな」
私たちはしばらく沈黙した。それぞれ、頭の中を整理しているのかもしれない。だって、難しすぎる。幸せとか不幸せとか、人生とか、そんなの学生の私たちにわかるはずない。いや、きっと大人になったって分かりはしないだろう。将来への不安をいだきながら、目の前の一日、一日を過ごすので精一杯だ。
でも、まさか小じさんも明確な目的があって存在しているわけじゃなかったなんて……私にはただそれが衝撃だった。
「ま、ややこしい話はこの辺にしとこ」
そう言って小じさんはまたパチンと手をたたいた。
「話戻すで」
小じさんの顔――何も無い、のっぺりとしたのっぺらぼうが、私とりょうくんを交互に見る。
「まだ恋をする準備が整おてない――まあ、それがお前さんらの答えゆうことやな? なるほどな。それは一理あるな」
小じさんがひとりで納得している。
基本的に、小じさんは聞き手を置いてけぼりにする。
まあ、でも。それが今の私たちの結論には変わりない。私たちはまだ、このままで歩いていく。
(了)
■これまでの小じさん
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