「爆裂! 超弩級物語」第1話

 どこまでも無限に続いていそうな見渡す限りの砂漠地帯。慈悲など欠片も感じられぬ強烈な日差しが、砂の海を焼き、高温で大気がゆらゆらと揺れる。
 ひとりの青年――ゴビがそんな過酷な環境のなか、涼しい顔をして歩いていた。

「くそ! 最近、女と寝てないぜ。ダメだ、このままでは老いる一方だ。一刻も早く可愛い女を見つけて口説かなければ」

 生命が脅かされる過酷な状況下で考えることではない。しかし、ゴビはくそ真面目に女と寝ることを考えていた。

「しかし、こんな砂漠のど真ん中で、都合よくそんな女が見つかるはずがない。見つかったとしても、さしずめ干からびた死体か、そうでなくてもこの過酷な環境に耐えうる強靭な肉体を有した、可愛いにはほど遠いスーパーウーマンだ」

 ゴビは深いため息を漏らしながら、果てのない砂地をきびきびと歩いた。ゴビが今目指している場所はこの広大な砂漠地帯を越えなければたどり着けない。
 それは、高校時代の旧友、ゴングの家だ。ゴビも高校卒業までは砂漠の向こう側(ゴングの家がある側)に住んでいたのだが、大学進学と共に砂漠を越えて引っ越した。
 SNSを通じて久しぶりにゴングとコンタクトを取り、成り行きで飲まないかという話になった。しばらく年月が経ち、お互い積もる話もある。では、どちらがこの殺人的な砂漠地帯を越えるよという話になり、それじゃあじゃんけんで決めよう、一発勝負だぞ、ということになった。テレビ電話を繋いでじゃんけんをした結果、ゴビがチョキ、ゴングがグーで、ゴビが敗退したのだ。
 ちなみにこの砂漠は歩いて越える以外に便利な交通手段がない。日が出ている間、休みなく歩いて1週間ほどかかる。普通の人間であれば十分な装備をして、それでも半ば命懸けの移動となるところだが、ゴビは1リットルの水筒とスナック菓子を3袋のみ携帯という超軽装備だ。身なりは半そでに短パン。
 ゴビは幼少の頃から、世界的に有名な武道の達人である父親に鍛えられた。明けても暮れても、修行、修行、修行。しかも、その修行が常人では到底耐えられないほど高負荷なものであり、それこそ、毎日死と隣り合わせの日々を送ってきた。こんな1週間あれば渡れる砂漠など、ゴビにとっては大したものではないのだ。
 そして、ゴングもまたゴビと同様、とてつもなくタフな肉体を有している。だからこそ、どちらがこの砂漠を越えるかを、たやすくじゃんけんで決めることができたのだ。

「たしか、このあたり……」

 ゴビが辺りをキョロキョロ見回し始める。

「あった!」

 ゴビが見つけたのは、砂漠の中にポツンと佇む小さな小屋だった。

 ドォン!!

 ゴビが小屋へ駆け寄ろうとしたそのとき、地の砂が巻き上がり、何かの巨大な影がゴビの目前に立ちふさがった。黒々とした影から推測するに、背丈にしてゴビの十数倍はありそうだ。
 舞う砂埃でまだその影の正体が判然としないうちに、前方、影のある方から、得体の知れぬ野太い声が聞こえてくる。

「ん~、華奢な身体だねぇ。ん~、大した腹の足しにもならなそうだけど、まぁ無いよりゃマシかねぇ」

 少しずつ砂埃が止み、影の正体があらわになる。現れたのは――巨大な虫、長い体幹の左右に無数の牙のような鋭い脚がウジャウジャと蠢いている。それはまさに、巨大なムカデだった。人の言葉を話している。
 そんな驚異を目前にしてなお、ゴビはけろっと真顔でムカデの頭部を見上げている。まるで人の話は目を見て聞きましょうとでもいうように。人ではないが。

「ん~、放心状態だねぇ。ん~、安心するんだねぇ。ん~、痛くしないから、すぐ終わるからねぇ」

 言うや巨大ムカデがゴビに飛びかかった。
 これほどの巨体にのしかかられれば、即死は必至。自分の身体よりも大きい牙のような脚に突き刺されれば、跡形もなく砕け散るだろう。
 ――普通ならば。
 しかし、それでもなお、ゴビは落ち着き払っていた。一度天に飛び上がり、その後重力に任せてこちらに落下してくる巨体を、表情の無い目で追った。
 普通なら反射的に逃げ出すか、或いはあまりの恐怖に腰が抜けてその場に尻餅をつき、足をばたつかせ、目には涙、鼻には鼻汁、しまいには失禁し、情けない姿を晒すところだ。
 しかし、ゴビの表情はいたって涼やかだ。

 迫る。

 自分よりもとてつもなく大きな怪物が、迫ってくる。
 もう鼻先にまで巨大ムカデが迫ったそのときだ。ようやくゴビの双眸に敵意らしい光が宿った。

「爆裂ボディ!!」

 ゴビがそう叫ぶや、ゴビの身体に驚くべき変化が起こった。
 ゴビの細い身体のそこかしこが次々に隆起する。

 メキメキ、ミシミシ……

 ゴビの体表を内側から押し上げるそれは、尋常でないほどの筋肉である。体積にして五倍ほどに膨れ上がったのではないかと思えるその身体は、巨大ムカデに華奢と言わしめた先程までの身体とはまるで別物だ。

 ドンッ!

 驚くべきことに、ゴビは自身の十数倍の大きさはあろう巨大ムカデを両手で受け止めた。しかし、それもゴビの両腕を見れば納得のいく話である。競輪選手の太ももの太さをもはるかに超える両の二の腕には、浮き出た血管が何本も交差し、その腕力の果てしなさを物語っている。

「ん! ん、ん、ん、ん!!!」

 巨大ムカデは、おそらく驚愕と恐怖の叫びと思われる奇妙な声を上げ、ゴビの両手の上でもがく。

「ぬん!」

 ひと声でゴビは軽々と巨大ムカデを前方へ投げ飛ばした。砂しぶきを撒き散らしながら、巨大ムカデは地に転がった。
 身をよじりながら、どうにか体勢を整えた巨大ムカデは、何やらぶつぶつ喋り始める。

「ん~、お前、どこかで見たことあるねぇ。……、そう、あれは、数年前ちょうどこの辺りをママと散歩していたときだねぇ。ん~、あのとき僕は幼かったけど、僕たちの前を通りがかった、そう、細っこいやつを、ママが僕のお昼ご飯にちょうどいいって襲おうとして……そしたら、そいつが急にムキムキに変身して――――」

 そこまで言って巨大ムカデは何かに思い当たったように両目を見開いた。次第にそこに沸々と怒りの念が沸き上がる。ムカデの巨大な身体がブルブルと震え始め、それに合わせるように、地も大きく振動する。

「ん~、お前か……、あのとき僕のママを殺したのは」

 ムキムキボディに変身したゴビが静かに口を開く。

「やはり、あのときの。覚えているよ。俺が引っ越しのために、この砂漠をひとりで越えていたときだな。あのときは急に襲われたから、仕方がなかった。まだ子どもらしかったお前は、ただ怯えている様子だったから、見逃した」

「……許さん」と、静かに巨大ムカデが言う。

「そうか」と、ゴビが静かに返す。

「……殺す」と、巨大ムカデが続ける。

「無理だと思う」と、ゴビが淡々と返す。

「んーーーー!!!」

 絶叫と共に巨大ムカデがゴビに再び襲いかかる。

「やれやれ。悪く思うな」

 言うや、今度はゴビも巨大ムカデめがけて駆ける。

「爆裂パンチ!」

 それは一瞬の出来事だった。ゴビが繰り出した拳の衝撃で巨大ムカデが真っ二つに裂けた。即死。地に転がった巨大ムカデの二つの部位は、そのまま二度と動くことはなかった。

「あの世で、ママに会えるな」

 ※

「俺だ、ゴビだ。今晩泊めてくれ」

 小屋の扉をノックしながら、乱暴な口調でゴビが言うと、

「ゴビか。久しぶりじゃの。入れ」

 中から老人の声が返ってきた。
 ゴビは扉のノブに手をかけ手前に引いた。――――が、開かない。
 今度は押してみる。――やはり、開かない。

「どうした? ゴビよ。少々なまったのではないか?」

 と、中の老人。

「砂漠じじぃ、また扉の強度を上げたのか?」
「ぐふぉっふぉっふぉっふぉ。そうじゃ。最近、物騒になってきたからのぉ。お前さんが開けられないくらいなら、まず誰にも開けられまい。砂漠にある安心安全の休憩所じゃ」

 そして、扉が内側からゆっくりと開いた。
 白髪の小さな老人が現れた。目付きがとてつもなく鋭く、睨み付けられるだけで一定の物理的ダメージを食らいそうなほどである。

「いつも不思議なんだ。外から開けようとするととてつもなく重たいのに、中からなら簡単に開けられるのは、いったいどういう仕組みなんだ?」

 砂漠じじぃはニヤリと不気味に笑う。

「内緒じゃ。それを教えてしまってはセキュリティの意味がないからの。ぐふぉっふぉっふぉっふぉ」
「ふん。気色の悪い笑い方も相変わらずだな」

 ゴビは特にそれ以上の詮索はしなかった。本当はそこまで興味がないのだ。
 ゴビは小屋の中へ通された。生活に必要な最低限のものがあるだけの、寒々しい小屋だ。砂漠じじぃはここで何百年も暮らしている……と本人は言っている。これについても、ゴビは特に詮索しない。本当でも、本当でなくても、特にゴビに損も得も無いからだ。

「それで、最近物騒になってきたというのは?」

 布地が傷みきった座布団にひとまず腰を落ち着け、ゴビが質問した。

「知らんのか?」

 砂漠じじぃはガスコンロに火をつけ、ヤカンを熱し始めつつ言った。

「ああ。世の中のことに、基本的に興味が無いからな」
「そうじゃったそうじゃった。お前さんの頭は女のことで一杯じゃったわい」
「違う。俺が最も興味があるのは、今よりも一層肉体を鍛えることだ。女はその次だ。僅差だがな」

 ゴビは心外とばかりに言い返した。確かに女にはこの上ない興味を寄せているが、“それだけ”と思われたくはないのだ。

「ややこしい性格じゃのう。まぁよい。聞け。今世間を騒がせておるのは、ある意味、お前さんの頭の中を占めるその二つを共に満たす案件じゃ」
「何だって?」

 ゴビは眉をしかめた。
 砂漠じじぃは次を続けずもったいぶった。
 意味のない間はいつものことだ。ゴビは特に気にしない。
ヤカンが熱せられるかすかな音が静かな空間に響く。
 ゴビが辛抱強く待っていると、砂漠じじぃが唐突に口を開いた。

「めちゃくちゃ美人でめちゃくちゃ強いお姉さんが、世界のそこかしこで暗躍しているらしいのじゃ! ぐふぉ!」

 ゴビは砂漠じじぃの言っている内容がすぐには理解できなかった。しばらく頭を整理し、砂漠じじぃの言葉を脳内で反芻する。

 ――めちゃくちゃ美人でめちゃくちゃ強い……

この発言が本当なら、それは確かにゴビがこの世界に求めるものの贅沢詰め合わせである。

「より詳細な説明を求める」

 ゴビは、わからないことは質問すればいいということにようやく思い当たり、砂漠じじぃに尋ねた。

「うむ。わしの知る範囲でな」

 そこでまた、砂漠じじぃは間を置いた。ゴビは再びじっと待った。
 訳のわからない沈黙の後、砂漠じじぃが口を開く。

「なんでも、世界中の人々が無作為に襲われ、金品を盗まれておるらしい。そしてその犯人は恐らく同一人物。というのは、いつも決まって犯行現場には、ある物が置き去りにされるそうな……」
「何なんだ? あるものって」

 ゴビは尋ねた。
 砂漠じじぃは口の片端だけを上げる嫌みな笑い方をして言った。

「ランジェリー」
「なんだって!?」

 ゴビは驚きを禁じえず、思わず声を張り上げてしまった。身を乗り出したゴビは、ニヤニヤ笑う目の前の老人の姿を見るや、我に返り、

「おっと、失敬」

 ひと呼吸置き、乱れた服を整え、上がった息を落ち着かせた。

「まさか、めちゃくちゃ美人というのは、その置き去りにされたブツからの推測とかじゃないだろうな」
「ぐふぉっふぉっふぉ。やはり、お前さんはそこに飛び付いたの」
「つ、つべこべ言わず、さっさと答えろ!」

 ゴビはムキになる。 

「安心せい。これは信憑性の高い情報じゃ。なんでも、襲われた者たちが皆、口を合わせて言っておるらしいのじゃ。とてつもなく美人だった、世界のどこを探しても2人としていない美人だとな」
「襲われた者たちが? 襲われたやつらは、生きているのか?」
「うむ」砂漠じじぃは神妙に頷き、続けた。「どうやら、そやつは金品が目的のようでな、人の命までは取らぬようなのじゃ」
「なるほど」
「どうじゃ? 面白そうじゃろ。世界一の肉体を誇るお前さんなら、一度は手合わせしたいと思うのではないか?」
「当たり前だ。強い者がいるところへは、どこへだって行く。そして、そいつと闘って勝って、己が世界一強いことを証明する。それが、親父の教えだ」
「そういえば、お前の親父さんは今どこで何をしておるのじゃ? まだ消息は不明なままか?」
「ああ。俺にえげつない修行の日々を強いるだけ強いて、しまいには、もう教えることは何もない、と言い捨てて姿を消したきり、一度も会っていない。連絡も一切無しだ」

 そこで会話がいったん途切れた。
 砂漠じじぃは沸騰したヤカンからお茶を湯飲みに注ぎ、ゴビに差し出す。

「おう、すまないな」

 ゴビが礼を言うと、砂漠じじぃは「ぐふぉっ」と短く笑い、自分用にもうひとつの湯飲みにお茶を注いだ。

 その後、ゴビと砂漠じじぃはとりとめのない話をし、夜が更けてきたところで就寝した。しかし、ゴビはなかなか寝付くことができなかった。自分がこの世で最も興味のある2つのこと――強さと女を同時に満たす事件が今、世間で起きている。そのことを思うと、興奮が抑えきれないのだ。
 恐らくその女は自分が倒すことになるだろうとゴビは思った。そして、この女と寝ることはないだろうと思った。何故なら、ゴビは自分と闘った女の場合は、自分より強い女としか寝ないことにしているからだ。というよりも、自分よりも弱い女とは寝る気が起きないのだ。一方で、闘いと無関係の一般の女は別である。一般の女であれば、強い弱い関係なく、ゴビは寝たいと思う。
 他人に理解されることはないが、これはゴビのごく個人的なポリシーであり、趣味嗜好なのである。

 ――それにしても、親父は今、どこで何をしているのだろうか。

 ゴビは眠れない頭の中で父親のことも考えた。ゴビの父親は、腕に覚えのある世界中の武道の達人たちを、ひとりの例外もなく1分以内にノックダウンしたと言われる武道の天才である。
 ゴビはその一人息子として、大切に、且つ厳しく育てられた。常に自分が世界一であることを証明し続けよ、というのが父親の教えだった。そのためには、毎日死にかけるほどの修行をしなければならないというのが、父親の信念だった。
 おかげでゴビは生まれてから今に至るまで、幾度となく死にかけた。本当に死を覚悟して臨んだ修行が山ほどあった。しかし、結局死なずに強靭な肉体と共に今生きているのは、もしかすると父親が、修行の強度を死の絶妙に一歩手前で調整してくれていたからかもしれない。
 本当のところはわからない。父親が今、どこで何をしているかが分からない以上、確かめようがないのだ。そもそも、ゴビは父親ともう一度会いたいと思っているのか、どちらでもよいのか、自分でもよく分からなかった。父親は、ゴビにとって、武道の師匠でしかなかった。その他の日常生活では、何ひとつとして父親らしいことをしてくれなかった。父親の頭を占めるのは、武道と、そしてゴビと同じく女のことだけだった。父親も相当な女好きだったのだ。
 ゴビは父親に少なからず感謝していた。かなり高度なレベルで武道を極めることができ、更に女にも一定の水準でモテることができているのは、ひとえに父親のおかげだった。
 そして、同じように父親を尊敬していた。何故なら、武道にしても、女を落とすスキルにしても、結局最後まで、ゴビは父親に及ぶことができなかったのだ。足元にも及ばなかった。ゴビの父親は、まさに規格外の天才だった。

 いったい、どこで何をしているのか。

 どうせいい女を見つけて、その女と遊んでいるに違いない。

 くそったれ!

 そんなことを考えているうちに、ゴビは緩やかに眠りへと移行していった。

 そして、ゴビは夢を見た。
 その夢の中でゴビは、父親と再会を果たした。

 ※

 ――ここは、どこだ?

 ゴビは辺りを見回した。
 何も見えない。
 ゴビの周囲には、どこまでも深く濃密な暗闇が広がっていた。暗闇は何もない空間でしかないはずだが、あたかも“暗闇”という実体があるかのように、ゴビを周りから物理的圧力でもって押し潰そうとした。

「くっ!」

 ゴビが暗闇の圧力に抗おうと、全身に力を入れる。それでもなお、ゴビは暗闇の圧力に押し負けた。

「仕方がない……」

 ゴビは双眸に決意を光らせた。

「爆裂ボディ!」

 ゴビは爆裂ボディを発動させ対抗することにした。強い敵ならまだしも、まさか暗闇に対して爆裂ボディを発動しなければならないとは思ってもみなかった。

 メリメリ、ミシミシ!

 ゴビの全身が隆起し、筋肉の塊に変化する。これでようやく、暗闇の圧力と均衡したようだ。

「強くなったな、ゴビよ」

 すると、暗闇の向こうから懐かしい声がした。同時に、辺りの暗闇が、まるで潮が引くみたいにさあっと後退した。
 現れたのは、白い空間だった。
 純白。
 ゴビはここまで何の混じりけもない白を見たことがなかった。あまりにも白すぎて、目が痛む。「白」というものがいかに攻撃的な色であるかを、ゴビは今初めて知った。

「だが同時に、限界も見えているようだな」

 懐かしい声が続けた。

「誰だ! 姿を見せろ」

 ゴビは言った。
 すると、突如、白い空間の一部に変化が起こった。混じりけのない白の中に少しの濁りが生じたかと思うと、それが少しずつ広がり、初めはぼやけた染みのようだったが、散逸していた色が次第に収束し、輪郭を成し、ひとつの実体として現れた。

 ――――!

 ゴビは驚きのあまり目を見開き、口をあんぐりと開け、声を出そうとしてもなかなか出てくれなかった。

「……お、親父!」

 どうにか絞り出した声は掠れ、声というよりは、ほとんど物体と物体の衝突音に近かった。
 ゴビの前に現れたのは、紛れもなくゴビの父親だった。

「今まで、どこで何をしてたんだ!」

 ゴビは無意識にそう叫んでいた。
 一人息子をほったらかしにする父親に、自覚はなかったが、本当は怒りを感じていたのかもしれない。親の愛情に飢えているのかもしれない。ゴビは自分の気持ちが、うまく把握できなかった。

「ふん。そんなの決まっているだろう」

 父親は言った。

「強い者を求めて、世界中を旅していたのだ。私はもうお前に伝授すべきことは全て伝えた。私がやるべきことを果たし、もう家にいる意味がなくなった。だから私は旅に出た」

 父親の理屈は意味不明だった。父親は、武道の師匠である前に、“父親”であるべきではないのか?

「まあ、もっともな意見ではある。確かに、私はお前の父親だ」

 ――――!?

 どういうわけか、ゴビの心が父親に読まれたらしい。

「くっ、おふくろはどうするんだ! おふくろ、親父が出ていった後、すごく寂しそうだぞ…………親父、どうせまた、どこかで女と遊んでんじゃないのか?」
「もちろんだ!」

 父親は悪びれもせず、いっそ爽快に肯定した。

「強い者を求めて世界を旅するなかで、どうしたって美しい女との出会いは避けがたい」

 親父はそこで一拍置いて、続けた。

「今日も連れてきた」

 そういって、父親は自らの後方を振り返った。
 親父の後ろから女が姿を現した。

 ……下着姿だった。

 父親の後ろから現れた下着姿の女が、ゴビに妖艶に微笑みかける。下着姿なのに、不思議といやらしさのようなものが微塵も感じられなかった。――美しすぎるのだ。それはもう、俗的な意味での性を超えた、完成された美だった。
 女は微笑むだけで何も言わなかった。まるで、ゴビを試しているかのように。
 ゴビは内心、とても悔しい思いをしていた。恐らくこの女と父親は寝たに違いない。ゴビはこれほど美しい女と寝たことがなかった。寝る自信もなかった。これほどの美を持った女が自分を選んでくれるはずがない。ゴビは、自分の能力や水準は正確に把握しているつもりだった。自惚れは最大の敵である。それもまた、父親の教えだった。

「どうだ? 美しいだろう」

 父親は得意気に笑った。
 ゴビはあからさまに不機嫌な声で返した。

「何だ? 久しぶりに姿を現したと思ったら、自分の女を自慢しに来ただけかよ!」
「そうだ。それの何が悪い?」

 父親はやはり悪びれる様子がなかった。

「優れた能力は隠さず公開した方がよいではないか。その能力を目の当たりにして感化された者たちは、各々研鑽し、少しでも近づこうとする。惜しげのない自慢は、そうして周囲に良い影響をもたらすのだ」

 父親は力説した。

「出たぜ。そうやって親父は、ときどき変な理論を持ち出すんだ」ゴビはいい加減、はらわたが煮えくり返りそうだった。「消えろ! そんなことを言いに来たんなら、とっとと消えろ。そして、もう俺やおふくろの前に姿を現すな!」
「うむ……」

 そう言って一瞬表情に陰りを見せた父親はどこか寂しげにも見えたが、どうせ気のせいだろうとゴビは思った。こんな父親に寂しさなどという感情があるはずがなかった。
 ゴビは直感でわかっていた。この女は、今世間を騒がせている女に違いない。現場にランジェリーを置いて立ち去るという、あの。

「いかにも。世間を騒がせている女とは、この子のことだ。名を、ランジェリーという」

 ――まんまかい!

 ゴビは心のなかで突っ込んだ。もちろん、これも父親には読まれていた。

「いい突っ込みだ。真っすぐで何の捻りもない。しかしだからこそ、心に真っすぐ響く。タイミングもばっちりだ。ゴビよ、腕を上げたな」父親は言った。「そう。ランジェリーが罪なき者を襲っているところに私がちょうど出くわした。強い者と出会ったとき、私は世界一を証明すべく闘わねばならない。確かに、ランジェリーは世間を騒がせているだけのことはあった。なかなかの腕前だった。だが、私の前には虫けら同然だった。ゴビよ。お前はこの女に勝てるかな?」
「さあな」ゴビは言い捨てた。「だが親父。自分より弱い者と寝るなんて、落ちたな」

 しかし、父親は怪訝そうに眉を寄せ、

「おっと。それはお前のごく個人的な信条じゃないか」

 そして次に得心のいった風に表情を綻ばせた。

「なるほど。お前が今直面している壁が見えたぞ」
「……壁だと?」

 ゴビは父親の発言の意図を問うた。

「そうだ、壁だ。ゴビよ、お前は今、己の力の限界を感じているのではないか? これまで通りの努力の仕方では越えられない壁を、感じ始めているのではないか? 今のお前とのやり取りで、お前が今直面している壁が、私には見えたのだ」

 図星だった。ゴビは確かに自らの力の限界を感じていた。ここのところ、どれだけ修行に修行を重ねても、欠片も強くなっている気がしなかった。
 ここでいう強さとは、単純な筋力のことではない。筋力という意味での力であれば、修行をするごとにまだまだ上昇していた。例えば、ワンパンチで破壊できる鉄の塊の大きさはどんどん大きくなっていた。
 しかし、筋力だけではなく、技のテクニックや、忍耐力、精神力等を含めた、総合的な意味での戦闘能力は、ほとんど上昇しなくなっていた。

「な、何なんだ、俺が直面している壁って……」

 今抱えている最大の懸案事項を指摘され、ゴビは動揺を隠せない。

「教えなーい」

 父親はおどけた口調でそう言った。
 ゴビは意表を突かれ、目を見開く。

「な、何故だ。この文脈で、どうしてそんなにふざけられるんだ……」

 ゴビの全身がぶるぶると震え出した。

「教えろ。その壁とやらを越えてみせる。だから、今すぐ教えろ!」
「てい!!!」

 唐突に、父親が腹の底から声を出し、とてつもない眼力でゴビを睨み付けた。あまりの気迫に辺りの空気が振動し、生じた空気波が真っ直ぐゴビを直撃、ゴビは後ろによろめいた。

「あまったれるな、我が息子よ! 何でもかでも教えてもらえると思うな。もうお前に教えることはなくなったと、あのとき言ったろう。これより先の道は自分で切り開くのだ!」

 スランプの迷宮に迷いこんでいるゴビにとって、かつての師匠のこの言葉は、あまりにも残酷に心に突き刺さった。言葉が出ない。力が抜け、膝からがくんと地に倒れこんだ。両手を地面に付け、項垂れる。肩が震える。泣いているのだ。

「なんだよ……、俺はいまだに親父の足元にも及ばないのか。親父が姿を消してからも、死ぬほど修行したっていうのに。ずいぶん強くなったと思っていたのに」
「ふん」

 しかし親父は激しく落ち込む息子に対して、ひとつ鼻で笑うのみであった。

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