小じさん第十八話「黒い小じさん? 1」
あれから僕は、精神状態にしても、日々の生活にしても、少し落ち着きを取り戻していた。短いひとり旅から都会生活へ帰還した僕は、毎日決まった時刻に出社し、決まった時刻まで決められた業務をこなし、決まった時刻に退社した。心は驚くほど穏やかだった。小じさんが優しい言葉をかけてくれたからだろうか。小じさんが、なんとかしたると言ってくれたからだろうか。
はっきりとした理由はわからないが、今の僕は妙な安心感に満たされていた。
あの男のことは羨ましかった。僕の中に湧き起こるその感情を、僕はごまかす気にはなれなかった。純粋に羨ましく思い、切実に今の自分には無理だと分かった。
彼は自分の場所を見つけていた。心の中心でここだと思える場所を見つけていた。そういう場所は、誰もが憧れ、そして、誰もが手にできるわけではない。今いる場所がどれほど苦痛であっても、多くの場合、そこで我慢するしかない。
僕は今、マクドナルドにいる。プレミアムローストコーヒーのSサイズを注文し、街の往来を眼下に望める2階の窓際のカウンター席に座っていた。誰かと待ち合わせをしているわけではない。このあと用事があって時間をつぶしているわけでもない。読書をするわけでも、勉強をするわけでもない。ただ、時間を経過させるためにここにいる。
もう30になろうとしている男が、無為にマクドナルドで時間を費やす。こんなことをしていていいのだろうか、とは思う。健全な30間近の男は、もっと人との交流のある場に出て、有益な出会いを重ねているのではないだろうか。その中から気の合う一生の友を見つけたり、あるいは苦楽をともにしたいと思える相手を見つけて結婚を見据えた付き合いを始めたりするものではないか。
でもきっと、「健全な」なんて、考えても無駄なのだ。客観的にどれほど酷い生活をしていても、自分が満足していればそれでいいのだし、そうでないならば、たとえ健全であってもダメなのだ。自分自身の心の持ちようがすべてなのだということが、だんだんと分かってきた。
小じさんの姿を見ることができる人が僕以外にもいた。その事実は僕をどこか寂しくさせたが、それ以上に僕を安心させた。僕みたいに小じさんに救われている人が他にもいるということ、それはこの世の数少ない救いのように思えた。同時に、小じさんに救われていることを認めるのはどうしても癪に障った。小じさんは僕に複雑な感情を喚起させる。それが僕にとっていい刺激になっているのかもしれない。わからない。
コーヒーを飲み終えたところで、僕はひとつの異変に気がついた。
――コーヒーカップが重い。
間違いなく空になった感覚はあった。最後の一滴を飲み干した感覚が、たしかにあった。しかし、カップをテーブルに置こうとしたその瞬間、カップが明らかに重さを増した。飲んだはずのコーヒーがまるまるカップの中に戻ったような――いや、明らかにそれ以上の重さがある。
僕は、僕の手に握られた紙のカップをじっと見つめた。なにか嫌な予感がする。カップには蓋がはめられているから、中身は見えないが……。
すると、カップがひとりでに動いた。僕は驚いてカップから手を離す。テーブルの上に静置されるカップ。しかしそれは、微細に振動しているようだった。そして間もなく蓋が開いた――いや違う。カップの中にいる何かによって、中から押し上げられたのだった。
ついに蓋がカップから外れテーブルに転がった。中から姿を現したのは…………黒い小じさんだった。
僕は緊張から解放されて、いったん深く息を吐き出した。落ち着いたところで、細い目を作って言った。
「変なところから出てくるの、いい加減やめてくれませんか?」
しかし、小じさんから返事はなかった。
そのとき、僕は直感的に、これは小じさんではないと思った。たしかに外観は小じさんと同じだ。全身単色。顔面は何ひとつパーツの無いのっぺらぼう。コーヒーカップほどの背丈。それは、これまでに出会った小じさんの外観そのものだった。しかし、その存在がまとう雰囲気は、小じさんのそれとはまったく異質だった。
「あ、あなたは、誰ですか……?」
黒い存在は答えない。のっぺりとした黒い顔面を、ただこちらにじっと向けてるのみだった。僕は言いしれない怖気を感じた。
その黒い存在は、なにかよからぬ瘴気のようなものを放っているらしかった。僕はついに、吐き気と目眩に襲われた。
「おい! なにボケッとしとんねん! 死にとうなかったら、はよこの店出ろ!」
声の飛んできた方を見ると、そこには正真正銘、小じさんがいた。
(つづく)
■これまでの小じさん
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