唾棄すべき輩としての相対主義者─あるいは、怒りの人類学者ボアズの精神

時折、「善悪の区別は難しい」とか、「物事は白黒決められない」とか言って、「相対主義者」として振舞う人がいる。

このような人は、「ああ。それはあなたの考え方ですね(私はそれを強く否定はしないが、強く賛同もしない)」等と、あたかも客観的・中立的・超越的な立ち位置にいるかのような、評論家的な物言いをする。

まるで、そこにいるようでいないような、透明かつ冷ややかな存在であり、どのような価値判断や主張に対しても、無敵であるように見える。

しかし、「相対主義」の立場を取るなら、それ相応の覚悟をしなければならない。

相対主義は危険で恐ろしい考え方

なぜなら、「相対主義者」は、たとえいきなり他人に殴られたとしても、「暴力だ!犯罪だ!」等と騒ぐことが、原理的にできないからだ。

これは、「相対主義」が、この「相対主義」という立場さえ相対化し、まさに「何でもありの世界」を到来させてしまうことによる。

なにせ、全ては相対的であり絶対的なものはないという考え方なのだから。

「相対主義」のもとでは、あらゆる法や倫理が「あなた個人の特殊な考え方」とみなされ、無視することが可能な、取るに足らないものとなる。

その一方で、「相対主義」という考え方さえも、「全ては相対的である」という論理に沿って「あなた個人の特殊な考え方」とみなされ、無視することが可能な、取るに足らないものとなる。

このように、「相対主義」は、危険で恐ろしい考え方なのである。

相対主義がもたらす自然状態

「相対主義」を標榜すれば、全ての価値判断や主張から自由になれるかと思いきや、「相対主義」という立場自体も相対化され、毒が毒で無毒化されて裏返り、振り出しに戻ったような状態になる。

つまり、個々の人間が完全にバラバラに独立した共約不可能な(共通点のない)他者となり、それぞれの価値判断や主張が絶対化してしまうのである。

このような振り出しの世界は、武力のみが力を持つ自然状態である。

そうなると、待っているのは万人の万人に対する闘争状態である。

これをいかに制御して封じ込めるかが、ホッブズやルソーやロック等の哲学者・思想家達の課題であった(そして彼等が思索した結果生まれたのが、人権や法や国家等の概念であった)。

相対主義の不可能性

善悪の判断、物事の是非の判断の仕方は、確かに地域や時代や集団によって異なる。

例えば、出生後の赤子をその場で殺せば、日本では罪に問われるが、アマゾンのヤノマミの間では罪とはならない。

ここには絶対的な分かり合えなさがある。

しかし、ヤノマミの間でも、赤子が成長し一人前の人間として認められた後に殺せば罪になる。

つまり、差異は確かに存在するが、全てが絶対的に分かり合えないというわけではない。

どのような地域や時代や集団においても、食物や水は必要である。睡眠も必要である。性の営みがある。激しく傷つけ合えば血が流れ、その量が多ければやがて動かなくなる。これらに伴う喜怒哀楽の感情のほとばしりがある。

このような生物学的な土台等の影響もあり、いくら他者同士とはいえ、分かり合えてしまう部分が残る。生物学的な共通性のゆえに、「相対主義」を徹底することはむしろ難しいのである。

例えば、「食物と水なしでは人は生きることができない」という主張に対しては、誰もが頷かざるを得ない。このような主張に「相対主義」を適用することは不可能である(適用して餓死するのは自由であるが)。

人類学の文脈における相対主義

かつて相対主義は、人類学の分野では、「様々な人間集団が持つ世界観や物の見方を、西欧におけるそれに劣るものと前提する西欧人」への対抗手段として用いられた。

これを行った代表的な人類学者がボアズである。

彼は、「全ての文化は最終的には西欧のそれに発展していく」とする進化主義と対決するために、相対主義を掲げた。

ここでの相対主義は、「ああ。それはあなたの考え方ですね(私はそれを強く否定はしないが、強く賛同もしない)」というような、はね付けて無視する冷たい物言いとは無縁である。

なぜなら、ボアズは、文化それぞれの価値を認め、文化の序列化を否定することを目的としていたからである。

ボアズの相対主義を言葉にするなら、次のような包み込んで尊重する温かいものになるであろう。

「ああ。それがあなたの考え方なのですね(私はその考え方の存在を認め、優劣の判断はしません)」 

さらに、もしもボアズがフィールドワーク中にいきなり現地人に殴られたら、「暴力だ!犯罪だ!」とは騒がずに、その理由や文脈を把握しようとするであろう。

その現地人が生きる世界を正確に理解するために。

相対主義の悪用に対する私の態度

しかし現在、相対主義は悪用されている。

「相対主義」という言葉をわざわざ口に出さずとも、一見して自分でも直感的にアウト(悪・非)と分かっている事柄が、「相対主義」的な態度のもとで、(善・是)と言い立てられている。

本当は分かり合えているくせに、自分の主張を通すために、あえて「何でもありの世界」を到来させ、相手の主張を「あなた個人の特殊な考え方」にしてしまうことが、公然と行われている。

端的に言って、卑怯である。

このようなことを行う者は唾棄すべき輩である。

しかし、相対主義が諸刃の剣であることをすっかり忘れた、軽薄な人物でもある。

「相対主義者」であることを何度も念を押して確認させていただいたのちに、万人の万人に対する闘争の世界で、相まみえたいものである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?