(自分語り)大学院で達成したかったこと

本稿では、自分がわざわざ金(しかも親の)と時間を使ってまで大学院修士課程を修了したかったのかを述べる。そのためには中学時代から振り返らねばならないので読者にはお付き合い頂きたい。マジレスすると、こんなのをネットに晒すなんてただの恥さらしでしかない←

中学編

自分は中学2年の頃から東工大東工大と思っていた。何故東大ではなく東工大なのかはよく憶えていないが、多分「敢えて東大志望ではなくマイナーな方の東工大を志望するオレ」とイキっていたのだろう。地域1位の高校ではなく2位の高校に進学したのも同様のイキりが理由の1つだと考えられる。特に、東工大の数学科志望だった。今考えると、数学科なら東大の方が良いのでは?という気はするが。後述するが、これは中学2年から高校3年の夏まで続く。

高校編

その東工大に合格するために、高校生の時は入学当初からよく勉強した。高2で入院した時も、勉強したいから個室がいい!電気スタンドも持ってきて!とワガママを言って、自分で学習計画を立てて朝から晩まで勉強していた。退院後、衰えた体力の増進に努めたが、どうしても心肺機能は戻らなかった。この状態で厳しい冬季練習に耐えたとしても、部内でビリだった自分が高3で走れるのは記録会1本のみ。それにかける気はどうしてもしなかった。そこで、高2の秋を最後に練習に出るのは止め、勉強1本に絞った。こうした努力の甲斐あってか数学は高1から学年トップを連発し、総合でも常に上位を維持していた。

高3に入って、挫折を経験する。高校の同期が本気を出し始めると、すぐに並の成績に転落してしまったのだ。自分は高1から学力を積み上げてきたのにすぐに抜かれてしまい、自分には才能がないのではないかと打ちひしがれた。特に数学。高3に入ってから一向に良い点が取れなくなっていた。数学科志望だった自分はそこで立ち止まった。「そもそも何故数学科なのか?」と考えてみると、単に5教科で一番数学の点数が良かったからというだけのことだった。中学から志望を固めてしまった為に、大学でどんな学問を学べるのか調べることを高3の夏まで怠っていたのだ。そこで自分は受験の天王山とも言われる高3の夏の数日を使って、大学で学べるありとあらゆる学問を徹底的に調べた。その結果、東工大に社会工学科(以下、社工)なる学科を見つけた。社工は、経済学やゲーム理論を学ぶ学科である。特に、伝統的にゲーム理論に強い。このゲーム理論という、数学を道具として人間行動の謎を解き明かす学問に惹かれた。他に九大の経済工学科や京大経済学部理系受験などの選択肢もあったが、自宅から通える利便性を考えて東工大の社工が一番自分に合っていると思った。当時、社工は2類~6類まで工学部のどの類からも進学できたが、6類が最も枠が多いこともあり、志望を1類から6類に切り替えた

志望を切り替えて心機一転学力が上がったかと言うと、そんなこともなく学力は終始低調に終わった。その結果、東工大はおろかあらゆる私立大学に落ち、唯一合格したのは東京理科大工学部経営工学科だけだった。それも補欠の繰り上がり合格。国立前期までは学校の教室で勉強する仲間も多かったが、後期まで粘っていたのはその中で自分だけで、受かるはずのない東工大の後期の勉強のために1人教室で勉強した2週間はしんどかった。当然後期にも落ち、かくして自分の現役大学受験は終わった。

入学当時東工大合格者数全国2位の現浪22人を記録した都立進学校に入学して高2まで学年トップをキープしていた自分がこのザマである。さすがに打ちひしがれていた自分は父に不誠実な対応をとってしまった。父が「今年の受験を総括してよ」というのに対し、「そうかつってなんですか~」と小馬鹿にしたように返した。そんな自分に対し父は「じゃあもう大学なんて行くな!!!」と怒鳴り声をあげた。後に父がホテルの鉄板焼き店で残念会を開いてくれて父との関係は修復されたが。

浪人編

かくして翌年度から浪人生活が始まった。その際、第2志望を慶應義塾大学の経済学部に切り替えた。経営工学系の学科で学べる内容は生産管理や情報系の科目が中心で、社工のそれとは異なっていたからである。浪人の1年は現役時とは異なり、それはもう絶好調だった。全統記述では毎回A判定、東工大模試で1度B判定をとったものの、所属予備校の全ての東工大コース内で化学トップをとったこともあった。

ところがどっこい、結局もう1年かけても東工大には合格できなかった。私立には全て受かっていて、実際選択するとなると、慶應の理工学部に進学するか経済学部に進学するか悩んだ。送られてきた授業料の振込用紙を眺めると、理工学部の学費は経済学部の学費の2倍近くもある。このとき自分は入院で個室を要求したり、浪人したりして親に多大な出費をさせてきたことが脳裏によぎった。迷うくらい同列に見ているなら経済学部にしよう、理工学部の振込用紙を捨てながらそう決めた。

学部編

慶應の経済学部に進学し、入学おめでとうと言われても全然嬉しくなかった。自分は高1から本気だったのに、なんで「現役の時は全然勉強してなかったわ~w」とか言ってるような連中がうかるのかという想いで何年も学歴コンプレックスを抱えた。入学後は持ち前の学歴コンプを存分に(?)発揮し、東工大工学部との単位互換を頻繁に活用した。受けたかった講義を受けられるのだから利用しない手はない。結局東工大で8単位も取った。後にも先にもそれ以上単位互換制度を利用した学生はいなかっただろう多分。それに加え、履修している講義に関係なくゲーム理論及びそれに必要な数学を自主的に独学した。また、ゲーム理論の応用分野は経済学に限らず広いため、多くの関連書籍を読み漁った(30冊くらい?)。

経済学部生として生活していく内に、周囲の見る目の変化に気づく。周囲は自分のことを「文系」と呼ぶのだ。それまで「理系」と呼ばれていた自分にはこのことが不思議でならなかった。自分自身は何も変えたつもりはないからだ。こうした経緯からそれまで自分も当たり前のように使っていた文系理系という概念に疑念を持つことになる。このことが、自分の大学院進学に明確な目的を見出すきっかけになる。

急に大学院進学の話になったが、自分は「大学院は当然のように進学するもの」と認識していた(今思えば、学費を親に払ってもらう身分で大変おこがましい認識だが)。それは東工大数学科志望を決めた中学2年の頃からである。これは、数学科は9割以上が大学院へ進学することによる。そのノリで経済学部に進学してからもその気持ちは変わっていなかった。それも東工大の大学院に。

話が前後したが、自分が見出した大学院進学の目的とは、
「文理ひいては既存の学問の枠組みに囚われないアプローチにより研究課題を解決し、学際研究の有用性を立証すること」
(当時思っていたことを今初めて文で表したが)である。そう、はっきり言って自己満である。でも心の中に矛盾を抱えたまま学生生活を終わらせたくなかった。それに、社会に出る前に研究なるものにしっかり取り組んでみたいという気持ちがあった。経済学部では、本格的な研究指導を受けることができなかったのだ(これは入学前に認識すべき事案だが)。繰り返すが、それを親の負担でやらせてもらって大変贅沢な話であったが。

学部時代に、様々な学問に応用されるゲーム理論という数学を学び、その各分野への応用について数々の書籍で学んでいたと前述した。このゲーム理論はその性質上、自分の大学院進学の目的を果たすのに最適な題材であった。その中でも、「協力の進化」という分野を選んだ。この分野は、利己的に振る舞う方が合理的であるはずのヒトがなぜ互いに協力を維持し、社会という秩序を形成することができているのか、という謎を解明する研究を行う分野だ。この研究を行う為に、東工大の「文理融合」を標榜とする専攻に入学した。偶然にもこの専攻の募集は自分の年度が最後だった。どうせ大学受験に落ちたのなら社会工学専攻に入らず別の専攻に入る方が違う人生~ってしっくり来た。大学院受験はかなり勉強したが、ゆるゆる受験でとても問題が簡単だった。後から聞くことには、2科目中1科目は満点であったらしい。

「協力の進化」は経済学で発展してきたゲーム理論を生物学が”輸入”してできた進化ゲームを用いて分析する分野だ。ちなみに経済学はこの進化ゲームを逆輸入して更なる発展を遂げている。自分はこの進化ゲームを使いこなすために、微分方程式やプログラミングの勉強をし、入学に備えた。

大学院編

大学院入学後、多くの講義は茶番だったため研究に十分な時間をかけることができた。その結果、修士課程2年間の間に2つの研究を行うことができた。研究自体今思えば貴重な体験だった。土日も研究室に籠ったり、研究に悩んでる状態で帰路につくと帰りの電車でひらめいたり…。結局指導教官に”使われて”しまったことも多々あったが、自分の目標としていたことがそれなりに達成できた。

自分が研究分野に選んだ「協力の進化」は、生物学、社会学、社会心理学、経済学、人類学といった多種多様な分野の研究者によって研究されている。したがってこれらの論文の引用が不可欠だ。自分なんかは歴史学や民俗学の研究も引用した。世間でこのように分類されている学問が同じ領域の研究をしている。「ほら見ろ!文系理系、諸学問の垣根なんてないじゃないか!」と悦にひたった。

もちろん、世の中のあらゆる研究にこうしたアプローチが有効とは思っていない。他の領域の学問の足の踏み入れる場もない学問も多いことだろう。ただ、文系だ、理系だ、~学だ、と閉鎖的になることは人類にとって大変不利益だと考える。例えば、経済学の領域では既に明らかになっていることなのに生物学の領域では延々とそれを研究し続けているといったことが起こると大変もったいない。有用な研究成果は互いに積極的に引用していくべきだ。

「協力の進化」のように、~という謎を解明したいという時に1つの学問領域で閉じるのではなく、この学問のこれも使えるあれも使えるといったように諸学問の集合知で対応していくのが望ましい。ただ、これには大きなハードルがある。通常論文は長い歴史の中で分類されてきた諸学問毎にジャーナルが発行されている。このため、別の学問の研究成果を引用するのが難しい場合がある。これには、PLOS ONEのような総合学術ジャーナルがもっと一般的になることが解決策の1つとして挙げられるだろう。

こうして、中学2年から10年間考え続けてきた東工大の大学院を修了するという目標は達成された。で、ここからが問題でその後やりたいことがめっきりなくなってしまった。特にやりたい仕事がなかったのでとりあえずホワイトっぽい会社に入社した。入社後、幸いにも人生で最もやりたいことができた。それは愛する婚約者と結婚し、幸せな生活を送ること。その目標のために今日も自分の骨髄はせっせと働いている。




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