この部屋に捧ぐ日記
近隣トラブルが原因で、大好きなこの部屋を出て行くことにしました。
ちょっと狭いけど、良い西陽の入り方をする素敵なワンルームでした。
引っ越しまであと1ヶ月、寂しい気持ちでベッドに寝転びながら、この部屋に捧げる日記を書いています。
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社会人2年目になりたての頃、唐突に実家を出て一人暮らしをしてみよう、と思いつき、そのまま内見へ行った。
一発目の内見でこの部屋に一目惚れをして、不動産屋の営業トークに乗せられ衝動的に契約した。
その時わたしは、とにかく舞い上がっていた。経緯は忘れたが、何故か移動中の車内で不動産屋と恋バナして盛り上がるくらいには浮かれていた。不動産屋に「次は同棲のお部屋探しでウチに来店してくださいね!」と言われ、調子に乗ったわたしはバックミラー越しに親指をグッと突き立てた気がするが、2年経った今、恋人などいない。
話がそれた。
家に帰って両親に部屋を決めた旨を伝えると、大人になってこんな叱られ方する?ってくらいに怒られた。親からすれば、世間知らずな娘が不動産屋に騙くらかされてるだけに見えるだろうし、まぁ実際そうであるから当然だ。
それもなんやかんや説得して、わたしは一目惚れしたこの部屋での一人暮らしを始めることになる。
働きながらはじめて一人で生活するのはなかなか大変だったが、掃除を終えた昼下がりに洗濯物が風にそよいでる休日とか、夕日に照った坂を登りながら晩御飯の献立を考える帰り道なんかは、結構好きな時間だった。
先の人生プランなど微塵も考えていないが、なんとなくこの部屋でずっと暮らすんだろうなーと思っていた。
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ある夜、11時近くにインターホンが鳴った。
女一人暮らしでの夜間の訪問者はかなり怖い。恐る恐るインターホンで応答すると、なんと警察と、見知らぬ老婆がいた。「出てきてください。」と言われたので、不審に思いつつもドアを開ける。
「わたしは上に住む大家です。あなたいま、部屋に男がいますね?」
わたしは激怒した。わたしには彼氏が全くいない。なのでそう言った煽りに対しては、人一倍敏感であった。
「いや、いませんけど?むしろ欲しいくらいです。」
「………。」
警察と老婆の冷ややかな目が向けられる。
わたしは混乱していた。男はいないし、いたとして何だというのか。別に寮かなんかじゃないんだから、悪いことじゃないだろう。警察まで来て、捕まるのわたし?
「ほんとにいませんよ。あっ、ドーゾあがってみてください。ちょっと散らかってるけど。」
「いえ、結構です。…毎日毎日、ドンドンドンドンうるさいんです。この部屋の男が、騒いでるんです。」
「たぶんウチじゃなくて他の部屋かと」
「いいえ!この部屋に!男が!いるんです!!!」
老婆の目が血走っている。わたしは絶句した。いま自分の身に何が降りかかっているのか理解が追いついていない。
「あなたの部屋で男が騒ぐせいで、わたしはノイローゼになりました。おかげで歌も歌えない。」
いや、なぜ歌?
「監視カメラにも、あなたが男と寄り添って出てくるのが写ってます。50代くらいの男性と取っ替え引っ替え。」
わたしはモテないとは言え、さすがにうら若き娘だと自負しているので、そんな風に見られていることにショックを受けた。
「人違いですよ。一緒に監視カメラ確認しましょう。」
「いえ、わたしにも都合があるので結構です。」
なんだよこいつ。
困って警察官を見やると、その無表情な目は老婆への諦念だったと気がつく。そしてやっと口を開いてくれた。
「ええと、この部屋の方がいつもうるさいんですよね?具体的に、いつどういった騒音があるのか教えてくれますか?」
「いつもです。具体的には分かりませんが、男がひどい音を立ててます。あ、でも昨日は一日中本当にひどくて。」
「あの、昨日は泊まりで終日不在にしてました。」
これは本当で、わたしは土曜に友人宅で遊び、そのまま泊まっていた。
警察の方も続けてくれる。
「事実かと思います。実は夕方ごろにも一度伺っていて、その時電気メーターが動いていないのを確認してますよ。」
完膚なきまでの論破。スカッとジャパン。ここでおずおずと引き下がってくれれば良いのだが、そう都合よくいかないのが現実だ。
結局老婆は小一時間近く、わたしの部屋に男がいることとそのせいで体調に異常をきたしていることを主張し、埒があかないと思ったわたしは適当に老婆の体を労り、事実ではないことは認めないながらも精一杯の寄り添うコメントを向けて、なんとか帰ってもらった。
(帰り際、弁護士を立てて裁判の準備をしていたがそれは取り下げる、と捨て台詞を吐かれ、脅しにしろ肝が縮んだ。)
老婆が去った後、警察官と目を見合わせる。冗談まじりに「あなたの対応は優しい人ですね、わたしが交際を申し込みたいくらいだ。」なんて言われたが、そんなのを承諾すれば老婆の妄想が具現化してしまうパラドックス。適当に流したけど、オチまでどんな展開だよ。
部屋に戻り、自分がふるふると震えてることに気がついた。0時を過ぎている。夜中の訪問者に対する恐怖と、言われもないことを責められる怒りが止まらない。わたしなんて、本当に男が欲しいのに。
老婆が去り際に自分の本業は歌手なんだ、と言っていたことを思い出し、疑いまじりに調べてみると、知らなかっただけで昭和の超大物の歌手だった(どうやらガチ。)
いやこんな状況すごすぎるでしょ…と半笑いになりながら、数メートル先の上階に彼女がいることが大きなストレスに感じて、その日は天井から目を背けるようにして寝た。
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ここまでダラダラと珍事件を述べてきたが、大好きなこの部屋から引っ越すきっかけとなったのは、これが原因ではない。
先日、所用にて帰宅が明け方になり、しかも友人も一緒だった。家で特にうるさくしたつもりはないのだが、寝る準備で家の中を歩き回っていると、突然ドアをどんどん叩かれた。
「おい、いっつもいっつもうるせぇんだよ!」
ドアスコープの向こうに知らないおじさんが立っている。謝罪しつつ、騒いでいないし深夜の帰宅は今日だけだと伝えると、とにかくいつもうるせぇ、と言われる。
その日は友人も一緒で眠気もピークだったこともあり応対後にすぐに就寝したが、翌日わたしの下の階は空家だったことを思い出し、恐怖に襲われる。
あのおじさんは誰なんだ。そもそもわたしは今回以外に対して騒音に身の覚えがない。
ドライフラワーを飾りビーズクッションを置き、最大限に居心地の良いように整えた自分の部屋にいることが、とても気持ち悪くなった。
一緒にいた友人がフットワークが羽根のように軽い人だったので、「なら次に住む家を見に行こうよ!」と言われ、よく回らない頭で内見に連れ回されるうちに、あれよあれよと友人とのルームシェアが決まってしまった。
ちなみに謎のおじさんは、斜め下の住人と判明。どちらにしろ一度の生活音で深夜に強い口調で来るなんて…と思ってしまう。
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と言うわけで、わたしはルームシェアへの準備に心を躍らせながら、寂寞の思いを抱えてこの部屋を着々と片している。それにしても良い友人を持った。そして2年間全く気がつかなかったが、周囲は変わった住人たちだったなぁと思う。
建物自体は古いが、リフォームの際に壁の一部を綺麗な水色に変えていて、それが本当に大好きな部屋だった。家具も壁の色に合わせて揃えて、いつの間にかこの水色が一番好きな色になっていた。
家までの坂道には、楽器演奏が好きな老夫婦が営むカフェがあって、そこから漏れてくるチェロの音も、家の周りに猫がたくさん住んでるのに、どの1匹も誰にも懐いていないことも、好きだった。
書いたら長いからやめるけど、すごく楽しい思い出も、もう2度と思い出したくない思い出も、様々な出来事がこの部屋であった。
色々あったけど、この部屋に一目惚れした、あの時のわたしの決断は間違ってなかった。
次はどんな人が使うのだろうか。
わたしは無関係になっちゃうけど、大切にしてほしいと思う。
はじめての一人暮らし、なんだか青春みたいだった。
引っ越しは悲しいけど、この経緯になった珍事も、突拍子もなくてわたしっぽくて、酒の肴になるから良しとする。
今までありがとう。
この日記は、この部屋に捧げます。
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