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聖なるファイナルアンサー

こんにちは!魔タリカ 753歳 、魂のR指定です。 
今年の春の嵐の強風は、なかなかに迫力がありますね。
今日は友人のお葬式に参列して、懐かしい人たちに合わせて
もらいました。亡くなってしまうと、どれほど大事な仲間だったのか
ということが、より一層心に沁みてきます。

今日は、最近で一番ショックだったニュースについてなんですが、
知らない人がいたら、わざわざ知らせたくないので黙っておきたい
気持ちにかられます。みんな、見ないで〜〜みたいな。
私はOSHOのサニヤシンになる前、チベット仏教コミュニティに
通っていました。グルはダライ・ラマ法王その人ではありませんでしたが、
それでもやっぱり相当にショックでした。
亡くなった友人も、相当なチベット仏教信者だったので、
生きていたらものすごく語り合ってたかもしれません。

だいぶ自分ではそのような幻想からは自由になったと思っていたけど、
まだまだこんなに強固なのがあったなんて、とほほです。
私の最後の(だといいな)幻想に気づかせて、打ち砕いでくれた
ダライラマ法王に、感謝。

だけど、裏では絶対にダライ・ラマ法王を陥れようとする力が
働いていたに違いない、と思うのです。
それほどまでに性への渇望は、満たされなければ強力な影、隠れた地図
となって人生を支配するのです。隠れた地図を握られて、利用されたん
ですよね。

聖職者がどれほど乱れているのかを、聞いてはいました。
が、私の中でダライラマ法王は別格で、完全に死角でした。
生き仏とはいえ、人間の肉体を持って地球に生きている人間なのにね。
聖者の投影を世界中から浴びせられているのだから、
やっぱり聖職者は地位が高くなるほどに厳しい生き方ですよね。
大きな権威を持つあらゆる職業も同じだと思いますが。
ましてやダライラマ法王は、自らの意志でもなく、まさに天の意志で
お役目を全うせんとされているわけで。

なんて書いてみると......
今やっと、ダライ・ラマ法王が一人の同じ人間として見えてきます。
一人の人間を偶像視して祀りあげるのは、その人の人格や人生を
全く無視した自分の勝手な思い込みでしかありません。
彼を偶像視することで、私は他者の性的嗜好まで、無意識のうちに非難するようなことになっていたのかもしれないと思うと、空恐ろしい。
この死角に気づかずにいることは、私にとって致命傷になりかねないと
思います。

チベットという国は、今でも一妻多夫の慣習を残す場所も多々あり、
一家のリーダーは女性という、女性優位の文化を持っています。

 男は女から充電する( 続き……..)


仏教伝来以前の文化は、世界でも多くの地域が女性優位の社会構造
(日本の縄文のように)を持っていたのだと思います。
古代の風習を維持することで、資源の少ない厳しい自然環境に
適応しながら暮らしを営んできたのでしょうね。
母型社会のモソ族は、チベットと隣り合わせの四川省ですが、
幸福の山谷と呼ばれ、結婚の制度はなく、ただ純粋に恋人の関係が
あるのみで、嫉妬という感情はないのだそうです。

古代の女神は、結婚の制度には反対だったと伝えられています。
その制度は、女性から家や財産を奪って、心の自由までも奪って
しまうからですね。

女神後、男性中心の社会になると、世界中の主要な宗教は「女人禁制」で、女性を遠ざけて来ました。
だからこそ、男性だけの世界で男色があるのは当たり前といえば、
当たり前すぎます。
日本でも、江戸時代には吉原の他に、蔭間茶屋 があり、吉原よりも
高額だったようです。洋の東西を問わず、お坊さんや聖職者の男色は
「女人禁制」の世界では当然の結果です。現代版はジャニーズですね。

ギリシャ時代は男色が社会のステイタスでした。
その時代では、男性のペニスが大きいことは恥ずべきことだとされていたのは、なるほどですよね。
だけど、いつから大きいのがいいってことになったんでしょう?
図体ばかりが大きくたって、力だけを振りかざす木偶の坊じゃあ、ね。

おっと!寄り道してしまいした。
いえ、でも私はダライラマの男色にがっかりしたのではなくて、
ダライラマ法王は、すでに性から自由になっているとどこか深い無意識の中で勝手に信じ込んでいたってことです。

ダライラマ法王の属するゲルク派は、創始者ツォンカパによって
一切の性的ヨーガが禁止され、観想の中だけで性的なヨーガを実践する、
という行法を行じており、チベット仏教の中で一番厳格です。
ゲルク派はそのようにして、チベット仏教最大派閥へと成長したと
言われています。

男性が悟り、空性を得るには、命をかけた厳しい修行が必要でした。
そのために、修行者の生命力を活性化する必要があったので、
女性が本来持っている生命力によって、修行者の生命エネルギーを賦活するための性的ヨーガが行じられたのです。男は女で充電するんですね。
それが聖娼の始まりでもあるんじゃないかと思います。
なんであれ、戒律や修行が厳しければ厳しいほど、隙間を抜ける戒律破りが
横行するというのは人間の常。

それが性的ヨーガともなれば、どれほど乱れたのかは推して知るべし。
現代ではジャニーズ事務所の例などありますよね。
セクシャリティは、権威者の理解の方向性や文化的な背景によって
定義付けられて、倒錯や耽溺と愛はいつも紙一重、コインの裏表です。

ブッダもまた、悪魔に遣わされた、3人の技に長けた娘の誘惑に
打ち勝って、悟りを得たのです。
女性やセックスの魅力に抗って自分を律するのは、並大抵の努力
では達成できないのが男性の性(さが)です。

それを思うと、お酒に薬を入れてレイプなんていう卑劣なやり方を
する人とか、あらゆる性犯罪者は、真冬に凍る寸前の滝に放り込んで、
一日中固定しておくような修行をしたら少しは目が覚めるかもしれません。

OSHOやTAO、そしてタントラは、セックスを否定しません。
危険な谷を綱一本で渡ろうとするかのような道を、安全に渡り切るための
命綱としての修行です。セックスの否定は、結局のところ綱を踏み外して
谷底に真っ逆さまに落ちていくことにしかならないのかもしれません。

男性たちの下半身の大切な学びと修行、射精のコントロール
人生の階段を登っていくための、ファイナルアンサーです。


2013 / 4/ 13 発行メルマガより

聖なるファイナルアンサー

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