見出し画像

境界線で見る夢

こんにちは!魔タリカ 753歳 、魂のR指定です。 
土星が魚座に、冥王星が水瓶座に引っ越した後から、なんだかものすごく
忙しいんですが、私の仕事で人に見えるところは全体の1割くらい。
後の9割は見えないところの仕事で、私は雑巾掛けと呼んでます。

そんなに一生懸命雑巾掛けしてたらよっぽど綺麗になってるよね!
と思うでしょ?でもね、毎日暮らしていると毎日散らかるしホコリも
積もります。
たまに友達に会うと、タリカはいい感じでやってるよね、なんて、
言う人がいますが、いえいえいえいえいえ、そんなことありません。
なんたって毎日雑巾かけてますからw

人の家の芝は、いつだって真っ青に茂って見えるものです。
私から見たら、友人たちはヒラヒラと軽やかに舞う蝶のようです。
私だっていつかあんなふうにひらひらと舞うのよっって、
そんなこと思って、はや753年も経ったんですよ。

「いつか」っていうのは、いったいいつのことなんでしょう?
人生って、どんなふうに使っても、どんなふうに生きても、私たちの世代ならうまくやっても肉体的には80年とか90年で、今30代だと100年なんだそうです。
人のこと気にしているヒマがあったら、自分のことやらないと、
体力、気力、筋肉の貯金だって、残り少なくなっている頃、人によっては負債を抱えているかもしれないし。
あっという間に残りの時間は終わってしまいますよね。

今の雑巾掛けは、今年後半のスケジュールを組むことです。
未来と現在のタイムラインを行ったり来たりしながら仕事していると、
未来にいるのか今にいるのか、今日が何月何日なのか、時間も方向も無くなって、境界線が溶けていくようです。肉体を持ったまま
アストラル世界を彷徨くとこんな感じかもしれない、と、ふと思います。
そんな時は、普段は出会わないようなモノに出会うことだってあるのです。
(気をつけて、私!ちゃんとグラウンディングして。)

こんな時は夢見の量と質が変わります。
先日は電車の中で居眠りして、猛スピードで進行する一生分くらいの怒涛の夢を見ました。どんなに深く居眠りしても、自分の降りる駅で目がさめるって、奇跡的なことだと思います。

ちょうど今、毎朝タオメディスンスクールのメンバーと一緒に、
インナースマイル瞑想をやっているんだけど、これが多忙な時ほど助けになります。(オンラインって、やっぱり素敵!いつでもどこでも繋がれる)
今日は4日目でしたが、毎日こんなに忙しいのにダンスしたくなっちゃうんです。人の芝が青く見えたり、頭も体も、夢までもが猛スピードで動いている自分、全然優雅に暮らせない自分も、まるッと含んでステップを踏んで
しまいます。そんな時はゴキゲンなポップスがいい感じ!

インナースマイルやセクシャルなものが続くと、夢見の質は俄然鮮やかで
賑やかになって、不思議さ加減はいや増します。

満月の扉が開く時……続き……….


夢はただの占いや予知のなんとか、ではなくて、死角に入った自分自身からのメッセージなので、全然意味がわからないことがほとんどです。
この1週間ほどは、夢をたくさん見るのに全く覚えていられなくて、しかも眠れない。私は人生で眠れないってことがほぼ無かったので、何が起こってるんだか暗澹たる気分になりました。

と思っていたら今し方、友人の訃報が飛び込んできました。
彼は倒れてから後、肉体にとどまるべきか逝くべきか、しばらく悩んでいたようですが、ついに扉が開く「時」が来たんだね。
ああ、そうか!昨夜は満月だったんだ!忙しさもほどほどにしないと、月を眺める余裕もありませんでした。

そしてあの怒涛の夢と不眠は、満月と友人が見せてくれた夢だったのだと、やっと気がついたんです。遅すぎだよ、私!
そして、満月過ぎたらいつもの通り、あの時間は夢だったのか?
ってほどあっけなく眠りに落ちていきました。

満月は境界線の扉が開いて、大潮に乗って迎えに来る舟に乗って、魂が行き来します。彼が楽しげに満月の扉の向こうに入って行ったのは見届けた、と私は思っています。
世界も、時代も、急激に変化しています。地球での用事を終えた人たちは
窮屈な肉体を脱いで、自由への道へと歩み入っているようです。

最近はそして、月や天体の影響が前にも増して顕著に私たちの人生に影響を及ぼしているんじゃないかと感じるんですが、それは前よりも天体の動きを詳細にウォッチングしているからそう感じるのか?
それともアセンションの影響なのか?(知らんけど)

子供の頃からずっと不思議に思ってきたのは、人が一人この世からいなくなったとしても、地球の質量が変化しないのはなんでだろう?
それと同じくらいに、世界では何事もなかったかのように、今日も人はお腹が空いて、笑って、泣いて、トイレに行って、日常生活が続いていく。

私たちは、今この現実に存在していると思っているけれど、それは仏陀が言うようにやっぱり幻で、誰かの見ている全然意味のわからない夢の中に生きているのかもしれません。
だとしたら「死」とは夢のなかからの離脱、一つの覚醒の形なんじゃないかと思うのです。
私たちOSHOのサニヤシンは、死を祝って"Death Celebration" をしますが、このセレブレーションに出会う時、ああ、やっぱりサニヤスを選んでよかった、と心から思うのです。

Love ♡

Tarika

2023 / 4 / 8 発行メルマガより





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?