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【白昼夢の青写真 case1 二次創作 第7話】

父の家は、研究分野の専門書やその関連書籍といった、仕事に必要であろうものと、寝具や白物家電といった、日々の生活に必要であろう最低限の家財道具がいくらかあるくらいで、きれいさっぱりしたものだった。父は研究者として大学や研究所を転々としていたから、物を多くは持たなかった。
そんな父についてまわっていた私には、故郷と呼べる場所がないように、有島の家、と呼べるものもまた、ない。先日まで父が住んでいたこの家にも、父がこういう状態になるまで、足を踏み入れたことはなかった。

父はくも膜下出血で倒れ、そのまま意識を失ったらしい。私が嵐山さんに折り返しの電話をしたときには、既に亡くなっていた。病院で面会した父は、一見父とは思えぬほど、その字面のとおり魂の抜けた顔をしており、命を失った人というのは、ここまで顔つきが変わるのか、と思った。

数日のうちに、葬儀に通夜、役所や銀行等々への届け出、電気にガス、水道といったライフラインの解約などをひととおり済ませ、父の最後の棲家となったこの家を引き払いにきた。父の共同研究者と名乗る嵐山さんとは、父の家の前で合流した。

「すみません、嵐山さん。私的なことにまでお付き合いいただいて。」
「お気になさらないでください。有島先生には、お世話になりました。今の私があるのは、先生のおかげです。好きでやっていることです。」

嵐山さん。化粧は薄く、失礼ながら、美人というわけでも、そして器量を欠いているわけでもない。年の頃は、40から40半ばといったところだろうか。父の研究室で共同研究者となる前は、地方の私立大学で助教授をしていたらしい。父とはそこで同僚となり、父を追って国立科学研究所にやってきたそうだ。

わけありな匂いを、感じないわけではなかった。父とは、そういう関係だったのか。本来ならば問うこと自体不躾極まるが、何か不義理があっても困るので、率直に聞いてみた。

「芳さんの想像しているような関係にはありません。そこは安心してください。有島先生は、お亡くなりになった奥様のこと、芳さんのお母様のことを、ずっと愛していました。」
「そして芳さんのことも、大切に思っていました。」
嵐山さんはひと呼吸して、話を続ける。

「芳さんに、お願いがあります。お父さんのこと、知ってあげてください。お父さんの思いを、知ってあげてください。そして私が中を勝手に見てしまったことは謝ります。ごめんなさい。」

そう言うと嵐山さんは、カバンからたくさんのノートを取り出した。表面に年と月日が記載されているところを見ると、おそらく日記帳だろう。10冊以上はある。

「最初は、ずいぶん熱心に実験ノートを記入する人だなぁくらいに思っていました。でも、すぐにそうではないことがわかりました。」

「毎日毎日、職場で日記をつけていたのです。」

一番古い日付のものを見る。母が亡くなった頃のものだ。母を失ったことの悲しみと喪失感。男手ひとつで私を育てていくことへの不安と、日々の育児に関する失敗。私との意思疎通が上手くとれないことといった様々な悩みが、赤裸々に綴られている。

次の冊子をとる。自分には研究しかなく、私を楽しませる術を持たないことに対する無力感。旅行に誘っても断られ、寂しい思いをしたこと。
世間一般にいう父親としての役割を果たせていないこと、普通の父親にすらなれていないことを母に詫びる。基本的にはずっとそんな調子だ。

その次の冊子をとる。そのまた次も。やはり父親としての己の不甲斐なさを責め、またも母に詫びる。これらの日記はもはや、いわば父の懺悔録といっていい。

父は、苦しんでいたのか。私が人並みでないことを。どこか人と違うことを。父も父で、世間並みの父親になれないことを。ぼんやりしていた父親像に、血が通う。同時に、胸が痛む。

何冊か飛ばして、比較的最近のものを手にとる。心境に変化があったのか、私がそれなりの年齢になっていたからか、理由はわからないけれど、父自身の過去を振り返る記述が多くなった。母との出会いも綴られていた。意外にも、恋愛結婚らしい。父が一目惚れをしたこと。母に2年間、交際を申し込み続けたこと。

いつもならばあんまり見たくはない、父親の恋愛事情。聞きたくもない、両親の恋愛話。よもや息子に見られているとは思うまい。日記というものの性質を考えれば、なおさらだ。ただ、今は何も考えず、ページをめくる。

初めてのデートは桜木町。熱海でのプロポーズ。新婚旅行先はイギリスで、シェイクスピアの故郷であるストラトフォード・アポン・エイヴォンが印象深かった、とある。その後、しばらく子宝に恵まれない中で、ようやく授かったのが私ということらしい。男の子ならば芳(かおる)、女の子ならば朱桃(すもも)と名付けるつもりだったようだ。

私が早生田大学に合格したことは、本当に嬉しかったようだ。大学に合格して、ひとり暮らしをすることが決まってから、一度だけ父が私の部屋に入ってきたことがある。たぶん、賃貸住宅の契約に関する書類がどうのという話だったと思うが、父は私の部屋を見ながら「汚い部屋だ。」と言ったことを覚えている。

日記には、私が家を出たあと、私の部屋の本棚から何冊か本を持っていったと記されている。その後、父が当時の家を出る時に帰省をして、大量の本を処分したが、本がなくなっていることには気が付かなかった。

父の家の、書棚を見る。標題を見ても理解が追いつかない数多くの専門書の中に、確かに昔、私が読んだ本が数冊あった。一番下の段には、古びた缶の箱があった。元々は、お菓子が入っていたのだろう。

缶のふたを開ける。中には、亡き母と3人で撮った写真。私が両親に書いた最初の小説。両親の似顔絵。夏休みの日記。遠足のおみやげ。父兄参観の日に読んだ作文。通知表。マグネット式のオセロ。

一度だけ学校に馴染めないと父の前で泣いた日に、父はオセロでもするか、と言ったこと、何も言葉を交わさず、何局か対戦したことを思い出した。父が私に勝たせてくれたとき、「芳は強いな。」と言われた。私は何も言わなかった。私にお前は強い子なんだという言葉をかけるために、父がわざと負けたことは、子供心にも明らかだったからだ。

思わず涙が頬を伝う。もう、十分だった。私はちゃんと、父に愛されていた。父は、紛れもなく父親として、静かに、不器用に、私を見守ってくれていた。祥子との結婚を、これからは小説を書いていくことを心の中で父に報告し、父は父親としての役目を立派に果たし終えた。

私と祥子、嵐山さんとで、父の生活臭がわずかに残るこの家を片付ける。これが本当の意味での、父との最後の別れ。
父が私の部屋から持ち出した本、父の日記、カンの箱、そして父が最後まで身につけていたという、結婚指輪を形見として持ち帰ることにした。

嵐山さんには、「父のこと、本当にありがとうございました。」と心からの御礼を言った。
嵐山さんは最後の最後で、嗚咽をもらした。言葉にならない言葉で、ごめんなさいごめんなさいと言った。きっと、父がその気持ちに応えられないことを知ってなお、父を愛したことについてだろう。

なにがごめんなさいなことか。ありがとうとしか言えないけれど、言葉には出来なかった。泣くだけ泣いて落ち着いた嵐山さんは、帰ります、明日も仕事だからと、言った。お礼を渡す、それを拒否する、というやりとりを何度か繰り返したのち、結局お礼は受け取ってもらえず、その後はそのまま、散会になった。嵐山さんと会うことは、もう無いだろう。

帰りの電車の中で、祥子が「新婚旅行は、熱海にしようよ。」と言った。私はうんとうなずき、父の結婚指輪も持っていこうと思った。

父さん、今日までありがとう。

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