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【白昼夢の青写真 case1 二次創作 第10話】

私が波多野秋房の娘であると級友たちに認識される前、つまり私も周りも幼かった頃から、私は他の人とは違うということを認識していた。
容姿に恵まれていることも、家が裕福であることも。

小学校1年生の頃には、「りんちゃんふぁんくらぶ」が校内に存在していた。
何度も何度も告白はされたが、ラブレターは、不思議と一度ももらわなかった。既に本を読むという習慣を身につけていた私は、私に対する想いを、拙くても良いから、文章で読んでみたいと思っていた。

小学校3年生の頃、2つ上の、サッカークラブで活躍している男の子に告白された。彼は彼で、自分がもてる男だと理解しているような子だった。
あれやこれやとちょっかいを出され続け、押すだの引くだの小細工を弄し、クリスマスイブの日に、付き合ってほしいと言われた。女の子の気を引く方法、みたいな教科書があるのかどうかは知らないけれど、そんな本があるとすれば書かれてありそうな、面白みのかけらもない、陳腐な一連のお作法。私は日頃から、そんな彼の薄っぺらさには辟易していたが、角を立てるのも嫌なので、丁寧にお断りをした。

そうした配慮にも関わらず、以後しばらくの間、上級生の女の子たちによる嫌がらせを受けるようになった。すれ違いざまにラリアートを喰らったり、はたのきんと呼ばれ、ばい菌扱いをされたり、背中に、10日お風呂に入ってません、と書かれた紙を貼られたり、今にして思えばささやかなものではあったけど。
引っ込み思案とまではいかないまでも、目立つことを好む性格ではなかった私が、人からあからさまな敵意を向けられるのは初めてで、それはそれで悪い意味で衝撃的であった。愛される喜びより先に、明確な悪意に晒される苦痛を知った。

中学に上がる頃には、周囲に波多野秋房という作家の存在を知る者も増え、同時に、私は波多野凛としてではなく、波多野秋房の娘として見られる機会が増えた。著名人の子として、住んでいる世界が違うと思われたのか、わけありの家の子と思われたのか、少しずつ、周囲から敬遠されるようになっていった。元から少なかった友人は、さらに減っていった。

父は私が小さな頃に亡くなっていたが、父の作品は売れ続けていたし、映像作品になることやドキュメンタリーが放映されることもあったため、父は死してなお、有名人であった。

時に、父の人となりだの、収入だのを聞いてきたり、サインを求めるお調子者の同級生がいたが、既に亡くなっていると言うと、ばつの悪そうな表情でごめんといい、場の空気が冷えていくのがわかった。そんな冷えた空気を心地よく感じるくらいには、既に私の心は荒んでいた。

中学生の女子の会話なんて知れている。恋と異性と噂話。そして自分の容姿への悩み。あとは、家族関係とか、自分の存在意義がどうだとか。後ろ2つは、私にも当て嵌まっていたけれど。

とはいえ「私もさ、」なんて言おうものなら、「あんなにすごいお父さんがいて、お金もあって、男なんか選び放題みたいな顔して悩みとか、舐めてない?」等と叱られるのだろう。自分の心のうちを晒せる相手はひとりもいなかった。

みんながワイワイとしている中で一人でいるくらいなら、初めから一人の方がマシだと思う。学校でそれが許される場所は、保健室か図書館と相場は決まっているが、それなりに元気なのに保健室にいることには多少気が咎めた。

そのような経緯もあり、気がつけば、私の学校での居場所は、図書館にしかなかった。中には、ひとり本を読む私を心配して声を掛けてくれる先生もいれば、どこか下心を感じる先生もいたが、学業の成績も出席状況も問題はなかったため、「特に何もないですよ。」と精一杯の作り笑顔で対応すると、「まあ、波多野だから大丈夫か。」と安堵された。結局、本心では腫れ物の面倒事には関わりたくなかったのだろう。最初はいくらかの強がりでもあったが、いつしかそれも、当たり前になった。

そもそも先生たちに私の抱える悩みを話しても、子供を愛さない親はいない、思春期ってそんなものだ、みんなと触れ合って、世界を広げてごらんと、今どき安い小説にもない言葉でたしなめられるのがオチだと思う。学校は、全く楽しい場ではなかった。

中学生になって、横浜市内の百貨店で、世界的に有名なハイブランドの服や靴を買うようになった。いつも着てるから、という理由で、そのブランドの路面店で買い物をすることもあった。

「お客様にはまだ早いんじゃない?」というスタッフの心の裡側の声が聞こえることもあるが、父の残した使い切れぬほどの財産を担保に取得した黒色のカードで会計を済ますと、またのご来店をお待ちしています、波多野様、という感じで見送られる。

決して、お金があることをひけらかしたいのではない。物の価値を理解していなかっただけだ。外で着る服は、こういうところで買うもの、と思っていただけだ。年相応とか分相応とか、そうしたものを教えてくれる人がいなかったのだ。

父と住んでいた広いマンションに、今も一人で住んでいる。父には家族として育ててもらったというよりは、ご飯とお小遣いと遊び道具を与えられ、お世話をされていた、というのが正しいのだと思う。

家事の類はコンシェルジュの人がやってくれていた。父と食卓を囲んだり、誕生日やクリスマスを祝ってもらった記憶はない。作家である父からは、手紙をもらったことも、私自身にまつわる物語を聞かせてもらったこともない。

母は、父が亡くなる前に出ていった。父の葬式にも来なかったとき、いよいよ母は私を捨てたのだと実感した。薄々、そうだとは思っていたけれど、一緒に暮らそうという言葉をどこかで期待していた。しかし、叶うことはなかった。

さっき、学校は全く楽しい場所ではなかったと言ったが、家だって、全然楽しい場所ではなかった。

公表されてはいないが、父の死因は、自殺だ。その事実に、現場の様子に、冷たい雨に無慈悲に打た続けれたかのように私の心はかじかみ、今なおそこから動くことはない。
どうして−
父のことを知りたいと思う気持ちは強くなるばかりであった。父の職場で、父の残した日記を読んだ。直視に耐えぬものであった。それでも、ページをめくる。どれだけ苦しく孤独であったか、時に自嘲し、時に激しい怒りに燃える様子が克明に描かれている。私を含め、他人の入る余地はなかった。もう、読まない方が良いと思った。

何にせよ、父は私という存在と、自決による救いを天秤にかけ、迷う様子すらなく後者を選んだ。それが全てだった。

6月頃だろうか。図書館でお昼寝をしているときに、夢を見た。顔は全く思い出せないが、中年の男性が、君のために描いた作品を読んでくれ、と原稿の山を持ってきた。私はそれを、私に対するラブレターとして受け取った。
とても温かい夢だった。夢とは論理性も整合性もなく、混沌としたものなので、夢の中の私はなぜか囚人服を着ていたが、会ったこともないはずのその人との絆を、確かに育んでいた。冷たい壁に阻まれてなお、愛されていた。夢の私はそれを理解していた。

夕立の音で、目が覚めた。傘は持っていない。もう一眠りしたら夢の続きを見られるだろうか、そんなことを思った。

あれから何も変わらぬまま、高校の入学式を迎えた。外部入学なのか、父母同伴の生徒も多い中、私はいつもどおり一人ぼっちだった。まだまだ子供でも大人でもない時間は続く。私は今なお父の死に囚われ、鳥籠のなかに籠もる日が続く。

「誰か助けて−」
誰にも届かぬ祈りを、今日も捧げる。

           *
「先生、『グリルシャチ』行ってあじフライ食べたい。」
「いつも言ってるが、先生は君だろう。私はもう先生ではない。」

私の旦那は、かつて、私の通っていた学校で非常勤講師として国語を教えており、私はその教え子だった。とはいえ、先生の授業そのものに関しては、ほとんど記憶にない。雑談ひとつ聞いた覚えがない。そもそも、私が授業を真面目に聞いていなかっただけかもしれないが。
旦那はその後学校を辞め、今は編集者として、また私専属のマネージャーとして働いている。私は、売れっ子の小説家だ。謙遜するのが嫌味に聞こえるくらいには、作品は売れている。

「じゃあ、芳くん。」
「君は、わざとやっているのか。」
「えー。じゃあなんて呼んだらいいの?」
私はむくれる。
「まあ、いいけど。あじフライ楽しみだな」
腕を絡めようとして、一瞬警戒される。

旦那と腕を組んで歩いているところを、おまわりさんから職質をされたことが、何度かある。パパ活か何かだと思われたのだろう。その度に旦那は「あっ、ああ…。いやその、そういう関係では…」とあたふたし始めた。その姿は、果てしなく情けない。

でも、そんな情けなくて、30歳近く年上で、下の毛も白髪だらけで、妻帯者のくせに教え子相手に避妊もせずに性交渉をして妊娠させ、我が子の世話ひとつおっかなびっくりでまともにこなせないダメ男の中のダメ男が、私にこの世界の素晴らしさを、美しさを教えてくれたのだから、人生はわからない。

二人を結ぶ指輪が、以前旦那がしていたものよりさらに高価なものになっているのは、意地悪で嫉妬深い私の、ちょっとしたイタズラ心と対抗心だ。

おわり

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