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クラスの領収書発行に関して



ヨーガはエゴを捨てる方法|クラスはエゴを捨てる場所

ヨーガはエゴを捨てるための方法です。
ヨーガ教室・クラスはエゴを捨て、精神的な成長に向かっていこうと積極的に行動する場所です。
(クラスに限らず、毎日がそういう場所ですけど)

エゴもいろんな形がありますが、今回の記事のタイトルで言えば「損得勘定」の部分をクラスで捨てることも、クラスで実践することです。

そもそも、エゴは「私」という個人の感覚・意識ですが、日常生活では、この「私」が得をしたい、損をしたくないという基準や目的で行動を選択することが多いです。

例えば、クラスに参加する時に
・クラス代を惜しみながら払う
・(不自然な、過剰な?)代金の分だけ何かを得たい
※「私」はこれだけ払ってるんだから!という態度、これだけ払っているんだから◯◯して欲しいという期待
・出来るだけ税金を払いたくないのでクラス代を経費で落としたい
・お金の目減りを気にしてクラス代が安いところを選ぶ(←これは教室に来る前の段階ですけど)
これらの損得勘定が出てきたら、それに気づいてそれをじっと観察して、改めていくように捨てることを是非してください。

一方で、私はクラスでお金を頂くわけですが、まずは祭壇に供えています。
神が「こいつに運んであげよう」と恵んで頂いたお金です。ま、だから本質的には「私のお金」というのはないのですけどね。

お代は生活費に使わせて頂くこともありますが、寄付をしたり、時々お世話になっている人に形としてお礼をする際に使わせてもらったり、クラスの備品や精神的な本を買ってクラスに還元するようにしています。
自分が得をしたい、損をしたくないという利己心やお金のしがみつきを強めるような使い方をしない、使うべきところで惜しんだりしないような使い方をしています。

この頂いたお金を自分の損得勘定を抜きにして使うというのが、私のヨーガの実践です。清貧の暮らしをすることもここにつながります。

お金の執着は苦しい

「私のお金」を損したくないという気持ち・動機・目的からお金を払えば、一時的には手元に残り損をせずに満足するかもしれませんが、お金のしがみつきは強まるばかりで結局苦しい。←散財を良しとしたり、無駄遣いをしろという意味ではない。

私は、外的要因として家が裕福ではなかったり、節約が大事だという家庭で育ったもんで、節約と言えば聞こえがいいけど、絶対使ったほうがいい時に使わない(使えない)とか、(道徳的な範疇で)他人や何かに気持ちよく使えないケチな人間になっていました。

過去形にしちゃったけど、まだまだそういう一面がたまーに顔を出すときがあります。←(必要なもので)何か手間暇考えたら正当な額だけど、「高いなー」と思ってしまって払えるけど渋ったり。クラスに通っていた頃は、クラス代払えるし、良心的な値段だったけどちょっとためらったりとか。

でも、お金って必要だけど、自分と無関係なところや他人に使ってたまるか!と、自分のことしか考えずケチって使ったり貯め込んでも、安物買いの銭失いが起きたり、自分のことしか考えられないから心は周りから孤立していき苦しい。(友達や家族がいても、自分中心の目線でしか物事を見られないから、周りへの不満が生じたり、何かが上手くいかずに不調和が起こる)

お金にこだわると、お金がないと不安・あっても満足出来ない、お金がないと幸せになれないという想像や思い込みが強まるなど、どんどん苦しくなるというのをヨーガで学ぶことが出来ました。
だから、損得勘定が一瞬よぎった時は、その過去の苦しみや失敗やヨガの教えを思い出すことにしています。

例えば、(生活に必要なもので)環境や社会問題や他者を良くしていくためのサービス・物なら、お金を応援券として使い多少高くても買う。
クラスに通っていた頃は、クラスだって先生にはいろんな経費や労力がかかって開催されているわけだから、クラス代を払うということは、先生の教室の存続に関わるー精神的な学びを維持することへの貢献だと思い出して自分に喝を入れたり。

つまり、悪い想いが出たら、その反対のことをするようにします。
そんなにしがみつく必要あるの?お金より大事なものがあることを思い出します。

※何度も言うけど、考えなしに使えという意味ではありません。どういう目的や動機でお金を使うのか?貯めていくのか?よく見ましょう。という意味です。

また、日常生活で「私のお金」というエゴが大きいと(エゴは「私のもの」という意識のことも指します)それを守ろうとして、ごまかしたり、嘘をついたり、盗むことがあるかもしれません。
・今は手持ちのお金がないと嘘をつく(本当はある)
・経費をごまかす(事業と関係ないのに経費で計上する)
・(私のお金が欲しいと)横領、窃盗、詐欺をする
・ホテルの備品や、公共のトイレのトイレットペーパーを持って帰っちゃう
・親の目を盗んで財布から抜いちゃう など

これって、他者に迷惑をかける場合もあるけれど、何よりも自分の良心を裏切っているんですよね。
ばれなきゃいいかとか、(法に触れる行為はもちろんだめだけど)法に触れなかったとしても、相手が許してくれても心を汚してしまいます。嘘をつかないと居られなくなってくるし、どんどん自分を傷つけてしまいます。
神は見ているし、自分のそうした行いは些細なことでも必ず相応の形でなんかの機会に返ってきます。

クラスの領収書発行について

前置きがかなり長くなりましたが、お金とエゴの関係をまず知ってもらおうと思って書きました。

そして本題ですが、私の教室・クラスは私も含めて参加者のみなさんと共にエゴを捨てていこうとする積極的な場として存在します。
だから、もし【自分のお金を損したくない】などの、お金の執着やエゴを大きくするような動機で領収書が欲しいという場合は出せません。
これは教室のルールです。

領収書をどう使うかは、私がどうこう言うことではないし、受け取った側の自由です。
でも、この教室はヨーガの教えを学び、エゴを捨てて心をきれいにする場だから、主催する私が心を汚すようなことを黙認したりオッケーにすることは出来ないです。

だって、私がそれをオッケーしたら、クラスの意味がない、ヨーガ(ヨーガ哲学)を学ぶ意味がなくなってしまいます。みんなのためにもなりません。
みんなで頑張れるように、教室の統制を取ることは必要で、そのためにこのようなルールを設けています。

これはあえてかかなったけど、公言しておこうと思いました。

ヨーガは自分の事業とは関係ないけれど、クラスに通うのはヨーガを通じて精神的な成長のためで、その精神を自分の事業に役立てて誰かの役に立つために還元したいという動機で受講していて領収書が必要ならば、それは出します。
法律として、その経費が認められるかどうかは知らないし、責任持てませんけど。
(↑そもそも、事業と関係ない経費はダメってされてるし、私ならもらわないかな。私の場合は。)


だからといって、もし今後、動機に関して嘘をついて発行して欲しいと言われたら…それは私は見抜けないと思います。神は見ていますけどね。
見抜けないと思うけど、でも言動で分かるかな?
どっちにしても嘘つくんだ…。と思うかも。しかし、それ以上に、エゴをなくしていこう!と共に頑張っていると思っていたのに、嘘やごまかしはしてはならないとクラスで伝えているのに、伝わっていないのかと悲しくなると思います。

しかし、どうやら法律で、支払いを受けた側は、支払った側から求められたら領収書を発行する義務が生じるようです。

でも、私には個人で守っているヨーガの戒律があります。
ヨーガの嘘をつかない、ごまかさないというサティアの教えがあります。

義務を果たすとはいえ、仮に相手方の「私は損をしたくない」という動機、または経費をごまかすなどの動機のために、領収書を発行しなければならないことがあれば、私の良心は痛みます。

領収書をお渡しした側がどうそれを使うかは自由ですが、私が自分に対して、間接的に相手方のエゴを助長させるようなことをしてしまっているとか、不正に加担している気がして、嫌悪感と悶々とした気持ちが湧いてきます。

でも、この悶々としたり嫌悪感というのは、私がその物事をどう見るかであり、私個人の問題です。でも、そんなふうに思ってしまいます。

だから、今後状況によっては教室のルールや私の戒律に反しているが、領収書の発行の義務が生じた場合。どうするべきか?
その時は、お互いの守りたいものが違うので、お金は受け取らず、教室のルールや事情を話して「今後は他のお教室でクラスを受けてください」とお伝えします。

Tara Yoga オンラインヨガクラス・飯田市

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