超訳、徒然草第12段「本当の友人とは」

 気心の通じ合う人と一緒になって、面白いなって思ったことも、いや世の中の切ないことも、気兼ねなく話せるのが一番いいんだけど、少しでも相手の言いたいことと違わないようにして機嫌を取るのは壁に向かって話してるようなもんだ。

 心の底から言ってやりたいことを、「あるある!」と聴いてうなずくことにもできるし、ちょっとそうは思わないような話を「ねーよw」みたいに言い合うこともできる。その理由を語って認めさせようとすれば、一時の退屈しのぎにはなるだろうよ。
 それでも少しでも嫌だと思うことを他者と共有していない人間は、つまらない言葉の一つや二つ言い合うくらいにはなるだろうが、本当の心の友には遥かに及ばないのが何とも言えないのだ。

(私的評)

 徒然草の章の中にはたった一行のものもあれば、何十行にも渡る長いものもあるが、これはまあ暗記しやすい部類の文章だと言える。

 そもそも人はお互いの精神性を向上させるために友達を求めるんじゃないのか。愚痴を言い合うために、悪意を共有するのが友達とか、とても僕には耐えきれない付き合いだ。
 あるいは、自分の目的を達成するための道具として。利害や打算が突いて回るとしても、それが最終的に自分の利益になるから僕らは人と交われるんだ。
 相手のためなら厳しい態度も取れるのが兼好のいう「まめやかの心の友」なのだろうが、僕は生きてきた中で人と人がそんな関係になっているのを見たことが無い。家族とはまた別の、高校や中学で見た人間は野卑過ぎているし、大学では結局人づきあいその物が絶えてたわけだから。

 僕は孤独が人間に課される義務みたいなものだと思ってきたから、世の中には嫌な人間ばかり目につくような体質になってしまった。しかも、孤独の中でも自分のやるべきこと、やりたいことを追求してきた。そのせいか余計にただ話し合うだけの、暇つぶしにするだけの人間にはもはや興味がないのだ。いやひょっとすると、僕はもう友人なんてものを必要としなくなっているかもしれない。
 でも実際には僕みたいに、人付き合いに何かの理想を見る人間は少ないのだろう。それも認める。

 彼が言っているように、本当に気心を通じ合わせるものになる友なんて望むべくもない。だから大抵の友人関係は狸と狐の化かし合いなんだと思う。利用し合い、利用され合う関係。でもそれはそれで魅力的なものではあるけどね……。

 兼好法師はどこか放浪・隠棲といったイメージの強い、孤高の人って感じがするけど、徒然草中の様々な人とのつながりを語る節々からして――これの一つ前が、自分の住む場所の近く、ちょうど他人の庵を訪ねた時の話だ――結構人間関係豊かな人なんだよな……。僕とは大違いだ。案外、清貧だの徳政だのを語る人間に限って物質的には豊かな生活を送っているという法則があるのかもしれないね。