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令和5年と旅

もう年も暮れに近付いてきた。今年はよく歩いた。旅先で「ここまで歩いてきた」と言うと奇異の目で見られるのにもだいぶ慣れた。歩くのは好きか嫌いで言えば好きである。けれども何より楽である。車だと移動中に写真を撮れないとかお金がかかることも一因ではあるが、歩いているときは自分自身にだけ責任を課せばいい。それはいろいろひっくるめて言えば、自分が怠惰だからに違いなかった。
思い返せば今年は1月から毎月どこかしらに行っていた。しかし旅行中以外の記憶はすとんと抜け落ちている。いや、他に特筆すべきこともないだけか。停滞といえば停滞というほかないが、例年に比べれば本を読んだ。美術館に行ってみたりもした。でもあまり文章は書かなかった。せっかくの記憶も出力しなければ色褪せると思いつつ結構な時間が経ってしまった。1年の締めくくりに旅のことを振り返って書いてみることにする。

1月。JALのセールで安く航空券が買えたので北海道に飛ぶ。留萌本線沿線とオホーツク海沿岸を訪れた。峠下、真布、恵比島と廃止予定の区間の小駅をいくつか下車したのち、留萌に至る。留萌は4年ほど前にも訪れたが惜別する鉄道ファンで今回は賑わっていた。駅蕎麦を啜りながら彼らの会話を聞いた。

峠下駅周辺

留萌の先、増毛までは既に先行して廃線となっているが、かつては鰊漁で栄えた地域であり当時の番屋が残っている。留萌の市街から日本海に沿って廃線跡を歩く。さすがにこの時期に廃線巡りをする人は見かけない。この時期には珍しく晴れ間が顔を出していた。傾いた太陽は路面の雪を淡く照らしたあと、雲間を奇妙な色味に染めながら消えて行った。

増毛

その後は旭川から紋別へ。オホーツク海は久しぶりに目にした。紋別というのは憧れていた地の一つでもある。はまなす通りで酒を飲み、高台から街を眺め、ひとしきり紋別の名所を観てまわった後は特に考えもなく、北へ行くバスに乗る。沙留、興部と小市街を散策し雄武に至る。夕焼け小焼けの町内放送が流れる頃、町はとっくに闇の中である。海辺の小道をぶらぶらと歩いていると、漁港のやけに高い外灯が足跡一つない雪上を照らしていた。ここが一番明るかった。

紋別 はまなす通り
雄武漁港


2月。温泉に入りたいので東北に行く。新庄を経由し瀬見温泉に宿泊する。宿泊した喜至楼の建築は見事だった。館内をくまなく歩き、湯に浸かり、寝た。翌日は赤倉温泉を散策したあと新庄に戻り、そこから豪雪地帯の肘折へ。東北内陸の何気ない風景は自分の心象風景の一部だなあと移動しながら思った。それゆえか、不思議と旅行しているという気分にはならなかったりもする。あまり体調の良くない時期だったのでそれが良かった。宿の女将の訛りで祖母を思い出す。しんと静まる夜の温泉街、窓際の冷気が何だか掴めそうな気がした。

瀬見温泉 奥に喜至楼
肘折温泉


3月。決め手は何だったのかあやふやだが、岡山へ。夜行バスで津山に行き、その後は姫新線で真庭郡内へ。美作落合からふらふらと備中往来という昔の街道に沿って歩いた。街道といっても今は幹線道路に付け替えられた区間が殆どだが、それでもかつての旧道に入るとささやかに街道筋の町並みが残っている。春らしい陽気で歩くのにはちょうど良く、日暮れて行けるところまで歩いてからバスで高梁へ抜けた。

備中往来 下呰部

高梁は観光地然としたイメージがあったが、思っていたよりも地域の暮らしの中に古い街並みが溶け込んだ、慎ましさと誇りが同居する街だった。市内を起点に周辺の坂本、吹屋、下谷、地頭、有漢市場と町並みを散策する。有漢市場の芳烈酒造で日本酒を買い求めたが、これがまた良い味の酒だった。

芳烈酒造


4月。りんさんと島根半島に行く。東京駅からサンライズ出雲に乗り込んでささやかな酒宴を催したあと、目覚めた時には霧の中国山地を走っていた。夜行寝台に乗るのは初めてだったのであの朝の浮遊感はよく覚えている。松江でレンタカーを借り、半島の浦々を歩く。

寝台の視界

あの旅行は本当に楽しかったなあと今も時折思い出す。誰かと旅行するのは久々のことで、らしくない緊張もしていたのだが全くの杞憂だった。気の合う人と同じ歩幅で歩き、同じ景色を見て、同じ感動を味わう。そのことに対する喜びというものを長らく忘れていた気がする。いつかはこの旅のことも何か文章にしたためるかもしれない。ここで総括するにはあまりに紙幅を割きすぎる。

美保館 夜
美保館 朝

島根半島は四十二の浦があるといい、まわったのはその一部。なかでも前々から行きたかった小伊津はあっけにとられてしまうほどに訳がわからなかった。うねるように、殖えるように、たわむように。複雑な地形をものともしないどころか人の暮らしがすべてを呑み込み、遠近も縮尺も座標もすべてがデタラメになっている。歩けど歩けど全容の見えない集落は夢の中のようで、でも確かにそこにあった。

小伊津
小伊津


5月。GWは幸いカレンダー通りに休めることになった。青森に行く。青森は何度も訪れているが、下北半島は未踏だった。大湊、田名部、恐山と主要地を巡ったのち、脇野沢からバスで九艘泊に至る。九艘泊というのは半島南西の行き止まりの集落である。果てに人は行き着くもので、宮本常一やつげ義春、宮脇俊三と今まで読んだ文筆のなかで何かと目にした地名だった。かの人物たちの足跡を追いて、果ての潮風を浴びる。その後は海辺の集落の小屋や漁具をつぶさに見ながら脇野沢へ歩いて戻った。

九艘泊
脇野沢・九艘泊間

フェリーは海峡を渡り、蟹田の町に着く。あくる日は酒を買い込み、太宰治『津軽』で太宰と親友のN君が語らった外ヶ浜街道をなぞることにした。今別から竜飛までの道を歩く。当時の風景と今はどれだけ変わっただろうか、想像でしかないが道が舗装されたくらいであまり変わっていないのではなかろうか。二人が訪れた寺も泊まった宿も今にその姿を残している。何より太宰治が「凄愴とでもいふ感じである。それは、もはや、風景ではなかつた。」と表した道はいまも変わっていない。そんなことを考えながら20㎞弱の道を歩き、本州の袋小路、竜飛に至る。

竜飛周辺


6月。担当案件が佳境を迎え休日出勤が続く。どうにかとれた休みに福島の温泉宿を予約。白河からバスで棚倉へ、そこから水郡線で移動し塙町の湯岐温泉に宿泊する。湯岐温泉は山あいに数軒の宿があるだけの小さな温泉である。荷物を解き、足元から湯が自噴する岩風呂に浸かる。外は深緑を雨が叩く音がする。ぬるめの湯が梅雨の暑さに嬉しく、小一時間はそのまま浸かっていたと思う。多忙の中に癒しを見る、それもまたひとつの有難みの感じ方には違いなく。美味しい酒を飲み美味しい食事をとり、それから水郡線から奥久慈の自然を眺め、沿線の下野宮や大子を歩いた。

山形屋旅館
下野宮


7月。佐賀を目的地にしようと思い立つ。博多から肥前鹿島、多良、嬉野温泉、武雄温泉とめぐる。有田の町並みは比類ない。陶器が好きな自分にとって、有田の陶磁産業が根差した町並みはとても心に残るものとなる。半日ではとても時間が足りないことを思い知った。伊万里の大川内山もまた陶磁産業と自然美が作り出す唯一無二の景観だった。小皿、ビアカップ、風鈴、徳利、ペンダントと思いのほか散財してしまい少し焦る。

有田
大川内山

その後は元寇の激戦地、鷹島へ船で上陸し宿泊、橋を渡って東松浦半島を歩く。海沿いの集落の背後には、若苗色に染まった棚田の稲穂が微かに音を立てている。その光景もさることながら、晴気(はれぎ)という爽やかな地名もまた一層にこの地への印象を深くするものだった。季節はもう夏である。

東松浦半島 晴気


8月。暑い夏だった。歩きまわれる気温はとうに超えている。散策もほどほどに人に会いに行く計画を立てる。商店街のアーケードはありがたい。直射日光に晒されずに済む。鶴橋の商店街は賑わっていた。夜にはせいげつさんと会った。後からだてさんも合流し、西成の夜は更ける。
あくる朝はドヤの2畳間で目を覚まし、南海電車に揺られて泉南に行く。岸和田、貝塚、泉佐野と町並みを見る。猛暑日だったが結局街道を歩いた。

鶴橋
水間街道 清児

9月。夏季休暇は例年この時期にとる。今年は四国に行くことにした。高知に着き、そこから西へ海岸線をなぞるように進む。須崎、久礼、窪川を散策したのちは足摺へと行く。中村の駅前で珍しく車を借りたが遠い場所だった。足摺岬に行った後は、前々から行ってみたかった足摺海底館に寄る。紅白の幾何学的な海中展望塔を下ると、薄暗い展望室は南洋の青で微かに照らされていた。魚を観てベンチに座って、そうしてしばらく満たされた気持ちになる。

足摺海底館
階段を下る

その後は宿毛から沖の島に渡り、母島と弘瀬の集落を歩く。どちらも斜面地に築かれている点は共通するが、大きく風土が異なっていた。地元の方から聞いた話では、母島は山伏に拓かれて伊予に属し、弘瀬は落武者に拓かれて土佐に属したという。島の海辺を歩くと集落の中間で地質が異なることがはっきりと目視でき、石垣や石段の色合いも異なる。歩き見比べるのが楽しい散策だった。

沖の島 母島
沖の島 弘瀬

島を離れたあとは愛南の石垣集落を巡る。外泊、中泊、内泊、武者泊と「泊」と名の付く集落が続く。どこも素晴らしい景観だったが、樽見という集落にいちばん心奪われたかもしれない。急峻な地形、それに伴って形作られた石垣、入江には養殖筏が浮かんでいる。この地域らしさをスモールスケールに詰め込んだ景観だった。

西海半島 樽見

愛南からやや北上すると宇和島市の津島町に入る。ここもまた宇和海の営みを感じられる場所だった。岸辺には真珠養殖の筏小屋が繋がれ、シームレスに居住空間とつながっている。海に近い暮らしは数あれど、なりわいが暮らしを海上まで敷衍させたのは穏やかな宇和海ならではと思う。

筏小屋のある風景

10月。山口の日本海側には向津具(むかつく)半島という奇妙な地名がある。虚心坦懐を是としてはいるが、やはり気になったので山陰本線の代行バスに揺られながら行きの時間を調べる。はるか昔、楊貴妃がこの地に流れ着いたという伝説があるという。半島の内湾である油谷湾に沿って歩いたのちは外海に面した川尻の集落へ。名のとおり油を垂らしたように静かな油谷湾に比べ、激しい波が打ちつける外海側にまとまった大きな集落があるのはなんとも不思議に思う。地名といい、伝承といい、何かと思案する散策となる。

向津具半島 川尻

その後はしばらくぶりに萩を観て回る。萩というのは何とも面白い地形をしていて、川の三角州の外縁をなぞるように列車はたどり着く。川を渡って内側に入れば、そこには歴史の表舞台となった城下町の町並みが残されている。以前はレンタサイクルで観光したが、今回は徒歩で巡ることにする。三角州の鋭角の部分は川島という下級武士の邸宅のあった地区で、川から引き込まれた水路が残っている。海沿いの萩城から歩いてみるとなかなかに距離がある。一方で有力家臣は萩城至近の堀内、その名のとおり堀の内側に立派な屋敷を構えていた。下級武士にテレワークさせてあげたいなどと、何となく寄り添った気持ちになる。とはいえ、川島に残る屋敷も水路を活用した、この地区独特の立派なものである。

川島 湯川家住宅の水場

11月。山景が恋しくなる。海辺ばかりに行っていた反動かもしれない。前々から行きたかった群馬南牧村の旅程を実行に移すこととする。ただ、バスの終点から丸二日歩くだけのことを旅程と呼んでいいのかはわからない。
上信電鉄で下仁田まで、そこから南牧村に入る。村の奥へ入っていくと霧が濃くなっていき、終点から谷間の集落を縫うように歩いた。雨中の山あい、熊倉、羽沢、星尾、砥沢、六車と巡る。かつて養蚕が盛んだったこの村では「せがい」というバルコニーが付いた伝統的な家屋が多い。山に目を移せば上州らしい無骨な岩肌を晒している。降り頻る雨は紅葉と家々のトタンを鈍く濃く上塗りしていた。

羽沢勧能
星尾仲庭 遠景

翌朝は晴天。大日向を出発し、大仁田、磐戸、大塩沢と歩く。大塩沢の集落から黒滝山の山腹に至ると村の古刹、不動寺がある。苦労して登った甲斐もあり、境内の眺めが素晴らしかった。上州の山景は他のいずれの地域とも異なる奥深さがあると思う。
その後はバスで下仁田に戻って宿泊、富岡の町並みを歩いたのちはミレーさんに会って焼肉を食べた。かれこれ話をしながら酒を飲んで肉を焼いた。

黒瀧山不動寺より
下仁田 夜


12月。師走は忙しい。文章で旅を振り返り始めたのはいいものの、なかなか進まない。しかし近場でもやはり1泊はしたいと外房に遊んだ。房総といえばつげ義春が足繁く通った地であり、多くの作品にその影響がある。『海辺の叙景』の舞台、大原を散策し、『ねじ式』ゆかりの太海で宿泊する。

大原
太海 朝

外房は冬がいい。訪れる人が少なく、空気は澄み、海風と草枯れが自然地形の雄大さをより露わにする。「理想郷」という大層な名称がつけられた鵜原では、その名に偽りない景観を観ることができた。深い青から押し寄せる波に浸食された海岸線は本邦でも屈指のものがあると思う。勝浦で夕景を眺めながら、今年の締めくくりとしては上出来だろうと勝手にひとり感慨に浸ってみたりもした。

鵜原理想郷


ここまで書いてみて改めて思うのは、本来すべきことが他にもあるだろうということ。大学4年の最後の休暇、もうあまり旅はできないかもなあと感傷に浸ったこともあるが、当時の自分にこの振り返りを見せたら今後の行く末を不安に思うに違いない。実際のところ、のっぴきならない諸問題はこの1年で何一つ解決したわけではないし、前段で述べたとおり停滞というほかない。正直、もう旅はよしたほうが、という気持ちがないわけでもない。
それでも、他に自分を奮い立たせるものがあるかといえば、ない。痛感するばかりだった。だからもう仕方ないんじゃないかと思う。他にそういうものが見つけられたなら、それはそれでよしても構わないとも思っている。
ただ、確実に言えるのは、この1年は旅なしに乗り切れなかったことである。旅そのものもそうだし、旅を通して知り合った方々との交流も楽しかった。実のところ、こうして文章を書くのも一時期できる状態になかった。そんな中でも旅先で見たこと、聞いたこと、感じたことがたくさんあった。それらが自分の身に通うことを願うばかりである。だから、せめてもの感謝の言葉でこの1年で締めくくる文を終えたいと思う。
ありがとうございました。来年もまたよろしくお願いいたします。

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