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日和佐に至るまで

 思いがけず降りてしまった。ドアが開くと、潮の香りがたちまちに出迎えた。香りにつられるようにして一歩を踏み出すと、じわりと靴底から雨上がりの湿り気が伝わる気がする。その感触を頼りに足元に目を向けると、柔らかな初春の日射しは角度を低く照り付け、ホームに影を伸ばしていたのだった。 

 その日は朝から雨が降っていた。岬にほど近い港町で目を覚ますと、雨音が外を満たしている。どうしようか。バスの本数も限られている。とりあえず、頼りない折り畳み傘を開いて宿を出た。
 岬は前日に訪ねていた。だから、ここからはバスで北上して鉄道に乗り換え、今日の宿のある町へ移動すればそれでよかったのだけど、それでは味気ない。いくつか訪れようという場所に目星はつけていたけども、この天気ではままならない。横殴りになる雨と雷鳴に怯えるようにバス待合所の奥へと身を縮ませた。あれやこれやと考えているうち、バスは定刻になってもやってこない。それが今は幸いだった。
 路上の雨だまりを弾いて遅れたバスがやって来る。濡れたガラス越しの、よく見えない運転手の顔に軽く会釈をした。ドアが開くと湿った手で整理券を手繰った。

 バスは南へと向かい、岬を境にカーブして北へと進路を変えた。窓ガラスの水滴は次から次へと形を失い、進行方向と反対に帯を引く。車窓に目を凝らすと、昨日とは違う世界に見える。穏やかな天候とは一転して、低く立ち込めた黒い雲が水平線と混ざり合っていた。ここは台風の時によく耳にする地だ。これもありふれた姿なのだろう。
 岬を過ぎてほどなくの集落は、海に向けて高いコンクリートの塀で覆い隠されている。昨日この周辺も歩いていたのだけど、濡れたコンクリートは黒々しく色を濃くしていた。より堅牢な印象を与え、雨粒の弾丸を見事に打ち消している。暮らしと自然の真っ向勝負を目にしているのかもしれない。

 しばらくしてバスを降りた。結局、雨風もしのげるだろうということで水族館に行くことにした。そこは廃校の校舎をそのまま利用していることで有名な水族館である。この天気にも関わらず、人出はそれなりに多かった。なんとなく昔通っていた小学校を思い出す造りの校舎で、至る所に魚が泳いでいるのは不思議な感じがした。
 一番の見どころのプールには鮫やら亀やらが泳いでいる。黄色い傘がプールへの入り口に備え付けられていた。小学生の頃、よく差していた原色の傘だ。拝借して広げると、鈍色の景色に花が咲く。後ろの家族連れも続けてぱっと咲かせた。
 プールに降りると、亀が水面から顔を出して薄目を開いたり閉じたりしていた。亀もそれなりに楽しんでこの光景を観ている気がする。亀はこちらに気づいたのか、頭を水面に潜らせて悠々と泳ぎだした。

 ゆっくりと水族館を見て回り、駐車場の東屋に腰を掛けた。次のバスまでは時間がある。雨は止む気配がない。しばらくすると、全身を雨具に包んだ男性が足早に東屋に駆け込んだ。背中の大きなリュックのレインカバーがずれている。請われてレインカバーを直すのを手伝い、しばし雑談をした。
 彼は歩き遍路の途中だった。このあたりは歩き遍路の中でも、札所と札所の間隔の長い難所である。難所をこの天候で迎えたのは災難というほかない。身の上や行程を話した後、「この天気じゃどうにもなりませんね」と疲労の滲んだ顔で笑ってみせて、「でもなんとかやりますよ」と表情を引き締めた。次の札所まではまだ距離がある。「せっかくですから、休憩がてらに水族館を見学していったらどうですか」と提案すると、それはいいと雨具を畳んで入り口に向かっていった。
 東屋に一人残されて時刻を見る。まだ少し時間がある。雨はまだ降っている。もう少し彼を引き留めていればよかったかな。所在なさげに濡れた靴を見る。

 バスは再び北上していく。民家は左側に時折現れては視界から消えていく。その一方で、右側の視界は常に海だった。岬からはずっとこの景色、荒寥とした道が前にも後ろにも続いた。
 先ほどの彼はここを歩いてきたのだろうか。歩きながら何を考えたのだろうか。思案も激しい波濤に揉み消され、白い飛沫と混然になって、そうして無心になるのかもしれない。彼は仕事を辞めたのだそうだ。あの場に至るまでの彼の人生を自分は知らない。同じく彼もまた、あの場に至るまでの自分の人生も知らない。来月からの新しい生活についても話していない。ただ、海辺のあの場に居合わせたという偶然の結果のみが、まわりくどくも雄弁に語っていたし、語られていたのかもしれない。
 そう考えていたら、自分の意識も波濤に呑まれて静かな海底へ引きずり込まれてしまった。微睡みのうちに、バスは駅へと着いていた。

 末端の駅は閑散としている。10㎞程の小鉄道の線路は、高架の上に敷かれていた。高架が背骨のように県境の山並みに突き刺さっている。ロッジ風の駅舎の脇の階段を上がると、線路の先にトンネルが見えた。やがて微かな光がトンネルの中を照らすと間もなく、一両の気動車が顔を出す。トンネルを出た瞬間、なんとなく水族館のプールで水面に顔を出した亀を思い出した。
 息を継いで吐き出した前面の光は、オーバーフローしたのちに散り散りになって消えていく。ホームについた汽車はわずかな乗客を降ろすと、折り返しの準備をした。
 乗り込むと、車両の中は電飾が飾られている。やがて、気動車はやおら動き出し、間もなく先程のトンネルに頭を突っ込んだ。頭上の電飾がささやかに輝いた。わずかな乗客と夜光虫で満たされた気動車は県境を越えていく。

 トンネルを抜け、JRに乗り換え、またトンネルを抜け、時折海が見え。一時間ほどが経っただろうか。車窓を眺めるのも飽きてきたころ、明るい光を見た。日が射していた。既に時刻は午後4時を迎えていた。
 しばらくして、林の中を走っていた気動車が開けたところに出ると、町の家並みが見えた。「次に停まるのは、ひわさ、です」とアナウンスが響いた。車窓に目をやる。減速しながら駅の構内に入っていくまでに、川の河口が緩やかに蛇行する様、その河畔の小高い山の上にぽつりと城が建っているのがわかった。日の光が、町並みも河口の流れもほのかに染めている。
 気が変わった。無性に、降りてみたくなった。時刻表を気にするより前に、車内から押し出されるようにして、その地に足を着けた。

 その駅は河口と河口の合流地点から一歩引いたところに建っていた。駅の正面の通りをまっすぐ行ったところに合流地点があり、たちまちに海へと注ぐ。河口の向かい岸には先ほど見えた小高い山の上に立つ城が見える。
 駅の背後の山側には奇妙な形をした寺院が見えた。円柱型の楼閣に角ばった笠のような屋根をかぶった赤い塔である。駅前の観光案内板によると、お遍路の札所でもあるようだ。そちらも気になったがおそらく日暮れまで1時間ほど。次の列車も1時間後だった。今は海側に行きたい。駅前の通りをまっすぐ行くまでに躊躇はなかった。

 河口の畔に突き当たり、そこから堤防沿いに河口の合流地点へと歩く。水面は大雨の後にも関わらず何事もなかったように凪ぎ、停泊している漁船は微動だにしていない。向かい岸の小高い山が迫っているのもあり、河口というよりも入江のような印象を受けた。
 やがて合流地点からもう一本の川の河口に遡るように進路を変えた。こちらの対岸には古い瓦屋根の家々が見えた。進路の先には赤い欄干の橋がある。あそこから渡ろう。

 道路から短い階段を降り、家々に分け入った。漁村特有の香りがする。木造の古い家屋には格子が施されており、板張りの壁が雨上がりの湿気を吸い込んで、艶やかな色合いを醸していた。
 あたりには蒸気が沸き上がっている。午後4時の日射しは急激に雨だまりを蒸らし、淡く視界にもやをかけている。大気中の水分はひとつひとつが小さなレンズの役割を果たす。日射しを柔らかに中和しながら相互に乱反射し、景色に薄い橙のフィルターをかけた。それが、どんなに細い路地の一本一本にまで行き渡っていた。
 歩くたび、不規則に反射が乱れ、にわかに色合いが波打つ気がする。塀の上からこちらを見る猫、家から漏れる夕方のニュース番組の声、薄ぼけているクリーニング屋の看板、その全てに押しては引いて、揺らぎが刻まれていく。

 なんとなく、盆地の裾野に生まれ育った自分に、縁もゆかりもないはずのこの光景が胸に迫ってくるのを感じた。不思議なことに、それは思い出の姿かたちと似つかなくてもよかったのだ。それと同時に、自分が余所者であるからこそ、というある種の諦念も首をもたげた。
 きっとこの町に住んで、あるいは生まれ育ったとしても、きっと自分は自分のままで、何かを抱えたまま日々を過ごすのだろう。
 そのある種の諦念は過剰な昂揚を抑えてくれるし、何せその土地を、桃源郷のように勝手に思い染める、都市生活者の夢想に巻き込むのを防いでくれるわけなので、そう悪いことばかりでもない。
 でもせめて、今の静かな昂揚感に抗いたくはなくて、心のままに路地を歩く。それだけでよかった。景色に自分も溶け込みたくて、歩いた。

 路地を出て、浜辺に出た。日はもうだいぶ傾いてきた。ここは海亀の産卵地らしく、つくづく亀に縁のある日である。砂浜で幼い女の子が遊んでおり、その様子を祖父であろうか、護岸の上で老人が目を細めて見守っている。無邪気な歓声に波の音が重なった。老人が女の子を見守りながらも、視線を沖にやっていることに気付く。
 沖には小島があり、鳥居が立っていた。海上にも薄らかに蒸気が低く漂っている。しばらく何を願うでもなく、その小島の鳥居に視線を向けていた。女の子は祖父と鳥居の合間で、走り回っている。

 もうそろそろ時間だ。来た道を引き返し、赤い欄干の橋まで戻った。名残惜しくて、橋の中ほどから海側を見る。河口の水面はやはり凪いでいて、静かに海へと注ぎ、右手には小高い山の上に城があって、左手には先ほどまで歩いていた漁村が浮島のようにそこにあった。日はますます角度を低くし、町の彩度を下げた。
 しばらく呆けてから時刻を見、慌てて駅へと足を進めた。行きには気付かなかったが、海亀の像が駅前に恭しく建っている。その像を少し見てから、改札を潜りホームに立った。駅名標をしげしげと見つめてみる。「ひわさ」と車内で聞いた地名は「日和佐」と書く。
 漁村を歩いた時の、薄い橙に染まった光景を思い出す。実際の由来は違うのだろうけど、「日の和らぎを佐く」なんて、言い得て妙な地名だ、なんて思ったりした。

 やがて宿のある町に向かう列車がやって来た。
 ここに降り立ったのは必然なんてものではない。でも、この地に至るまでの道は、今日の朝に発った、岬の近くの港町より前から続いていたのかもしれない。
 今日出会った歩き遍路の彼や、幾度となく目にした海亀を想起させるもの。みなこの地に至って散じていくものだった。でも、自分がこの地に至った理由は特にないし、それでいいのだと思う。たまたま雨が降って、行程が乱れて、それで降りたくなったから降りた、それだけだった。
 でも、この地に降りたとしても降りなかったにしても、至れる道が続いていたという事実にほっとする思いがある。至れる道だったどうかは、至ったという結果でしかわからない。そして、そこまで至るまでの道のりには、それなりの理由が散らばっているものと思う。
 まだまだ知らない景色を見てみたいし、目的地にしたい場所はたくさんある。来月からは新しい生活が始まる。でも、またいつか日和佐に至るまで、その道は続いていて、その先にも道が続いていると、そう信じたくなった。
 そして、駅を発って次の町へと向かった。



 
 

 



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