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おやすみハルニ

『ほんまアホらしいとは思うけどな、たまにしんどくなんねん』

 鼻で笑うように自嘲する友人が京都に帰っていってしまった。二年ぶりに会って、駅前の居酒屋でお酒を飲みながらお互いの近況報告を終えたあと、「この前精神科に受診してんやんか」とつまらならそうに吐き捨てた友人は、もしかしたら僕が考える以上に疲れていたのかもしれない。

『少しだけスッキリしたところはあるけどな。でもまあ、ぎこちない生き方はもう変えられるもんやないし、折り合いつけながら誤魔化しごまかしやってくわ』

 久々のデートで、待ち合わせた駅前にやってきた前髪がすだれのようにスカスカになっている女を見て、これはきっと彼女なりのお洒落なのだと頷きながら僕は友人の言葉を思い出している。

『ほんで先生がテストしてみるか言うて、用意された問題を解き始めると目の前で驚いてんねん。え、ほんまにこれわかんの? みたいな相槌挟んできて、アホちゃうかと。子供でもわかる問題やで?』

 女は21歳でいて、15歳も年の離れた男に本気の恋をした結果遊ばれて捨てられたのだと泣きながら報告してくる。「結婚してるんだって。もう会えないって、連絡してこないでほしいってブロックされた」

「大丈夫?」頭を撫でてみる。

「もう無理。一生誰も好きになりたくない」

 顔を上げないまま泣き続ける女のありきたりな言い回しに吹き出しそうになってしまった。慌てて欠伸で誤魔化したのだけど、「ちゃんと聞いてる?」と怪訝な顔をされてしまう。

「今日はなにする? ホテルいく?」

「納得できないから彼氏の家まで連れてってほしいの」

「嘘でしょ」

「ほんとに! 街の名前だけしか知らなくて家がどこにあるのかわからないけど、彼氏の車なら覚えてるから探したいし最後に会って話したい」

 本気みたいな表情で冗談みたいなことを言う。どうしてそんなに面倒臭いことを思いつけるのかが僕にはわからない。少しの間だけでも好きな人と身体を重ねられてよかったね、充分楽しんだでしょと言いかけて、怒られそうな気がしてやめておいた。恋に溺れた女はいつだって理解の及ばない思考回路で被害者を気取る。下手なことを言うと恨まれそうで怖い。ただ遊ばれただけの失恋が、一生誰も好きにならないほどの大恋愛だったとも思えない。

「また今度ならいいよ。夜は予定あるから」と、無理やり帰らせてから次の女に連絡を取ってみる。

 運良く捕まった24歳の女は小顔でいて、外国のお人形さんみたいな容姿と名前を持っている。目がぱっちりと大きくてノリのいいところが気に入っているのだけど、最近は言動がおかしくなってしまったのであまり連絡を取らないように気をつけていた。

「もう連絡くれないのかと思ってました」

「忙しかったから」

 頭を撫でると微笑んでくれて、身体をすぐに預けてきてくれる。ボディクリームのいい匂いが鼻腔をくすぐってきて、体温と、抱えた腕に感じる重さが心地良い。

 今日は彼氏が来ない日ですと言うので、彼女の住んでいるアパートに向かった。ドアを閉めた途端にキスが始まる。太ももに手を這わせると潤んだ目と舌で応えてくれるのだから頭が痺れてとろけそうになる。必要以上に大きく甘い声が玄関に響いて、絡み合ったまま靴を脱いで部屋に上がり込もうとしたのだけど、アパートのチャイムが鳴って外から怒鳴り声が聞こえてきた。

 開けろ、やっぱり浮気してんじゃねえか、出てこい殺すぞと、セオリー通りの三点台詞をわめき散らす男がドアを叩き続けるのだから面倒臭くてたまらない。

「なんなのこれ」思わず口から非難の声が漏れてしまい、慌てて横にいる女の顔を覗き見て驚いた。一瞬の間だったし、すぐに困惑の表情に変わっていたのだからもしかして見間違いなのかも知れないけれど、確かに一瞬ニヤついているように見えた。この状況を作り出したのはこの女かも知れないなと邪推してしまう。

 観念してドアを開けると真っ赤な顔の男に掴みかかられて左頬を殴られてしまった。続けて大振りの二発目の右フックが飛んできたので屈んで避けてから素早く脱出を試みる。待てこらあ、と巻き舌で怒鳴られるものだから本当に面倒臭い。伸ばされた手を振り切って走る。時々振り返りながら「未遂ですよーまだなんにもしてないよー怒らないであげてねー」そう叫んでみたのだけど余計怒らせてしまったみたいで恐ろしい形相で加速してきた。今日は未遂なんだから嘘はついてない。

 そのまま川沿いに止めてある車に飛び込んで勢いよく走らせて、なんとか逃げることに成功したのだけど、こんな時にだって油断すると頭にチラついてしまうのはハルちゃんのことだから僕は病気かも知れない。無理やり友人の言葉でも思い出してみることにする。

『文系、理系でも違うし、言うて一つの指針でしかないけどな。俺、IQ142あるねんて。120超えると上位2%で、20も開くと会話にすらならへんて諭されたところで息苦しさは解消できひん。優劣ではなく能力が偏ってんねん』

 友人の心の痛みは僕にはわからないけれど、息苦しさだけはわかる気がする。いつだって感情をぶつけてくるコミュニケーションが苦痛で堪らないのだから、上部だけを上手にすくった気になって誰かに迷惑をかけながら日々を過ごしている。誰もが最初は優しいのだけど、次第に求められるものが大きくなってきて疲れてしまう。偽物を掴まされたと怒られるのは辛いから、早く次の人を探して欲しい。根が腐っていても構わない、つまらない話をわざと選び繰り返し話続ける老人のような世界で誰かと心を通わせることを望むなんて狂気の沙汰だ。栞を挟むように言葉を挟むと途端に牙を剥かれてしまう世の中でいるのだから、平仮名だけの会話もどうか大目に見てほしい。

 生きている実感はないけれど、きっと生きているのだから死ぬのは何よりも怖い。
 ずっと生きていきたいから将来は機械の身体を手に入れたいんだよね。と切に願い続けていれば、いつか銀河鉄道に乗って金髪碧眼の美女と旅をする未来がやってくるかもしれないなどと現実逃避も板についてきた。

 せっかく外出したのだからと、コインパーキングに駐車させてから飲み屋街であてもなく歩く。夜空の月にかかる薄っぺら雲が綺麗で、カウボーイハットを振り回しながら歩いていると、まだお酒に酔ってもいないのに楽しい気分になってくる。なんだか左頬が痛い気がするけど、ちゃんと殴られてあげたんだから僕はいい仕事をしたと誇らしい気持ちにもなってくる。

 煌びやかな街の灯りと路地裏のすえた吐瀉物の匂い。水商売の男と女、くたびれたサラリーマンとお供のあの人は新入社員かな。大学生ぐらいの男女グループもはしゃいでいる。

 怠惰で不毛で、そうしてなんて愉快な夜だろう。

 立て続けに二人の女にお預けをくらった夜に、僕はかつての女たちに言われた言葉を一つずつ数えてみる。ずっと好きだよと伝えてくれた女はそろそろ70人を超えるかもしれない。嬉しかった言葉、悲しかった言葉、傷ついた言葉。そのどれもこれもがオリジナルの台詞ではないような気がした。もしかして感情は本物だったかもしれないけれど、だけどいつだって彼女たちはどこかで聞いたことのある台詞を吐く。風が吹けば飛ぶような気持ちで愛を囁いた後に、半年も経たずに決まって罵倒と呪詛を呟き出す。心が乾いてしまうのはお腹が空いてしまうからだ。


「自分が人にされて嫌なことはしてはいけません」幼い頃に聞いた素晴らしい教えを実践すると必ず怒られてきた幼少期。反省と工夫を繰り返し、人様の逆鱗に触れてしまわないよう大枠は理解したつもりになって、いくら気をつけてみても人の心の機微はどこにも書かれていないし、何度となく「言われなきゃわかんないじゃん」と尋ねてみたのだけど皆一様に呆れたような顔で会話をやめてしまうのだった。

 だとしたらと、スマホで辞書を引いてみる。好き、好き、好き、あった。『心が惹かれること、気に入ること。また、そのさま』と書いてあった。

 なんだやっぱりそれだけのことじゃんかと安心して飲み屋のカウンターに座っている女と意気投合した。

「大分拗らせてんね」と面倒臭そうに言ってくれたのは容姿も普通の服装の冴えない若い女だった。

「いい歳して恥ずかしくないんか」

「怒らないでよ、傷付く」

「人の感情を弄んで軽んじてる奴が一丁前に傷つくとか言うなよ」

 こういう女には嫌われる。自分に自信はないが女の形をしているだけで今まで直接的な暴力の被害を被ることのなかった故の攻撃的な物言いの生き物。叩けば埃の出るように幼少期の物語を語り出す空虚な生き物。絶対に僕を好きにならない女こそ、愛でるには最高の玩具なのかもしれないとも思う。

「お肉食べたい。おごったげる」

「あたし魚派だからいらない」

「好き嫌いはダメだよ。ちゃんとお肉も食べなくちゃ」

 女の年齢も名前も知らないまま三週間になる。興味があるのは引き締まった体だけなのだから特に問題はない。つい2、3日前から根は臆病だという情報を小出しに語り始めたから、近々距離を取って離れなければいけないなとも思う。
 上から性善説ばかりを唱えて、真っ当なコミュニティには属せない女。学歴だけしか取り柄のない女。
 真実の愛とか本物の恋とかいう言葉を未だに信じている空虚な生き物の形。なんだか僕に似てる。可哀想なのは二人なのかも知れないけれど、運がいいのは僕だけみたい。この子はきっと今夜のことも良い思い出になるか、すっぱりと忘れて次にいける人だと確信する。僕はもっとさみしいところに行くんだから。

 三日ぶりに誘った焼肉屋で僕は叫ぶ。

「好きな人がいます、ハルちゃんです!」

「そういうのは本人に言いなよ」

「ハルちゃんには嫌われたくないから。ほら、僕って気持ち悪いじゃん」

 ああ、と眉間にシワを寄せて頷く女は、手櫛で髪を整えながらオレンジジュースを一口飲んで言う。

「ちゃんと振られてきなよ。好きなんでしょ? そんで次に向かえばいいんだ。女は星の数ほどいるんだって」

「だって好意を伝えるのって暴力と変わんないじゃん。好きな人の幸せを願うことなら許されるって考え方も勘違いだよ。言われたことある? 幸せになってねって、馬鹿みたい。本気で好きになったんなら黙って消えるべきなんだ」

「やば、ほんと気持ち悪い考え方してんのね」
 
 僕はふふふと微笑んで、皿をひっくり返すようにしてヤゲン軟骨を網にくべる。 カリカリに焦げ付いていて、口に含むと肉の油が口内に広がってビールが進む。お肉は美味しいしお酒も楽しいし最高の気分。さいこーさいこーと呟いてみる。

「女の子って奇跡だよね。見ててかわいくて、それでいてみんなちゃんとエロい」

 笑いながらそう言うと、網の上で炎上し始めた肉を僕の皿に移しながら女は。「はいはい。言われたいことを言ってあげるよ。特別にね。『優しいね』」と言った。

 僕はきっと、その言葉が聞きたかったのだと。
焦げ付いた肉の白煙が眼球を撫でていくことを利用してちょっとだけ泣いたのだけど、その汚い涙は伸び過ぎた前髪にうまく隠れてくれた。 

「そうだ、せっかくだからIQテストしてみない? 公式のやつじゃなくて、ネットに転がってるやつね」

 いそいそと検索して女にスマホを渡す。学歴だけが頼りの女は想像以上に真剣な表情で問題に取り組みながら、「この手の問題は時間を掛ければ誰でも解けるんだよ。だから時間頂戴、全部解いてやるから」と本気の目でスマホに向き合う。

 15分経ってから結果が出る。112と記されている。んっ!とスマホが返されて今度は僕の番。

「かつて神童と評された僕の実力をとうとう見せつける時がきたね」大口を叩いてから問題に取り組むべくスマホを覗く。問題文を見た途端に可笑しくて楽しくて笑ってしまった。これじゃあ今まで僕のことを好きになってくれた女の子たちが馬鹿みたいじゃないって笑いが止まらなくなった。

最初の一問目から、一つも理解できなかったよハルちゃん。






お肉かお酒買いたいです