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クローバーとハルニ

ハルちゃんと親しくなった。
いつも視界の端にうろうろしているハルちゃんは色んな姿でぼくの前に現れる。 時には猫で、時には犬で、ついこの前はペンギンだった。冷凍庫から氷枕を取り出してタオルを巻いて置いてみると、その上にキチンと座ってくれるのだから段々と愛着も湧いてくる。なんとなく心配になったのでクーラーの温度を限界まで下げてみた。寒かった。

毎晩というわけではないのだけれど、ハルちゃんは夢のなかにも現れてくれるし、色んな話を聞かせてくれる。夢のなかのハルちゃんは完璧な女の子だ。海岸沿いを手を繋いで歩いて一緒に銭湯にもいくのも楽しいし、少し食い意地がはっていてまんじゅうが好物なところもかわいいと思う。
雨の日は一緒の布団に潜り込んでセックスをする。お互いの弱いところを口で、指で、肌で味わって、それで充分に幸せ。きっとぼくの一番長い指はハルちゃんの柔らかいところを刺激する為にあるんだと思うんだ。

「いや、普通に怖いし気持ち悪いんですけど」三葉さんはシンプルに毒を吐く。「それ私以外の人に言わないほうがいいですよほんとに。セクハラで訴えられますよ」とコーヒーをすすりながら言う。

「セクハラってのは何を言うかじゃない。誰が言うかなのよ三葉さん」

「よくわかってるじゃないですか」

などと、不味そうにコーヒーを飲む。

「本当不味そうに飲むよね」とぼくが問えば、「普通においしいですよ」とつまらなそうに言う。同じようにぼくも三葉さんが淹れてくれたコーヒを飲む。普通にうまい。いつも思うことだけど三葉さんはぼくに冷たい。なんでそんなに冷たいの傷つく、と不満をぶつけてみると。「いや課長にバレたら困るんでしょ? 私だって大っぴらに言いたいですよ」とため息をつく。

三葉さんはかわいい。かわいいしそれにぼく以外の人間に優しい。誰にでも好かれる笑顔を身につけていて、でも時折気が抜けたように口をぽっかり開けたままでいたりするところが人気の理由だと思う。だけど最近冷たい。もしかしてぼく以外に気になる人が現れたのかもしれない。

「ねえ三葉さん最近白髪発見したんだよぼく。びっくりしたよ、見る?」

「それ私に言ってどう反応すればいいんですか」

「冷たいなー」

「優しくされたいんですか?」ふふんと三葉さんが笑う。

笑顔が怖くてぼくは湖から上がったばかりの水鳥のように首を振ってみるのだった。


家に帰るとハルちゃんが出迎えてくれる。スーパーで買ってきた紅葉饅頭を差し出してみると、空中で少しずつ形が変わって美味しそうに食べてくれていることがわかる。意識がはっきりしている間は決して姿を現してはくれない。仕草、匂いも全部近くにあるはずなのに透明なハルちゃん。それにハルちゃんは女の影に敏感だ。ぼくが他の女の子を抱いて帰ってくると必ず不機嫌になっている。実在しない癖に、不満気な顔を見せることも、それによってぼくの心をざわつかせることにも気がついているのだろうか。

着信が鳴って、三葉さんを迎えにいった。友達と飲んでいて終電を乗り過ごしてしまったらしい。繁華街で拾ったのだけど三葉さんは一人きりでいて、助手席に乗り込む足取りも手すりを掴む動作も全てが酔っ払いだった。車内にアルコールの匂いが漂ってきて、後部座席の窓を少しだけ開けて走った。

「帰るのめんどいです」

「ホテルいく?」

「もうホテルは行きません。家に行きたいです」

「はっはっは」

「行きたいです」

「……なんで?」

ほら、絶対そう言うと思った。

……なんで急にそんなこと言うの。

体温が急激に下がってくる気がする。家にはハルちゃんがいる。勿論、ハルちゃんはぼく以外には見えないし存在しないのだけど、ぼくの特別な存在であることに変わりは無い。遠回しかもしれないけどそれは三葉さんにも伝えてきたし、完全に理解してもらえるとは思ってはいないけれど、どうして今更と。そう思ってしまうことも事実だ。

「知ってます?」

「なにが?」

「私の名前は三葉です。父親がつけてくれた名前で、とても気に入っています。葉っぱを一つ足したら四葉のクローバーに。幸せになれますようにと願いを込めて付けられた名前です」

「……」

「どうして課長に、みんなに嫌われてるわかりますか? モテるからじゃないですよそんなにカッコよくないですよ。課長のお気に入りの私と付き合ってるからでもないですよ。馬鹿なんですよあなた。プライドばっかり高くって仕事もイージーミスばっかり。『やる気がないなら帰れ』って言われてそのまま『お先に失礼します』って帰ったじゃないですか。あの後問題になって、結局尻拭いしてくれたのは先輩たちですよ。ねえ、あなたは馬鹿にするだろうけど、みんなのことを馬鹿にしてきた分みんなに馬鹿にされるようになったんですよ。それってすごく滑稽ですよ。みんながあなたのことなんて陰口叩いてるか知ってます? 『洗脳するのが得意な金メッキ社員』ですよ。私だけなんですよ、あなたのことを好きなのは」

「知ってるよごめんね」

「すぐ謝る。騙されませんよ。知らないんですよね本当は」

「ぼくのこと好きでいてくれてるんでしょ? 知ってる」


信号が赤から青に変わる。どう言う訳か、もう一つの信号が転換期だ。真っ直ぐに進めばホテルがあって、右に曲がればぼくの家がある。ハルちゃんが待ってくれている家がある。ぐいんぐいんと形を変えながら、今夜はどんな形で出てきてくれるのかはまだわからない。そういえばハルちゃんの好きな季節をこの前夢の中で聞いてみたのだけど、目がさめた途端に忘れてしまった。とても悲しいことだ。悲しい。何故だろう、起きている時にハルちゃんのことを考えると涙が出てきてしまいそうになる。

ハルちゃん。ぼくは歳をとったよ。白髪も発見した。なのに声も顔も全部覚えててごめん、気持ち悪いよね。過ごした日々も全部覚えてる。ごめん。

「聞いてるんですか」

「聞いてる。あのね三葉さん」

「はい」

「エッチしたい、ホテルいかない?」

ふふふ、と三葉さんが笑ったあとで一瞬の沈黙があった。ため息に似た長い息を吐いた三葉さんがいて、車内のアルコール濃度が少し上がったような気がした。もういいですタクシー拾います、なんてことを言う三葉さんは信号機が赤になって車が止まった後の二秒後に降りて行ってしまった。ぼくは追いかけられない。背中にかける言葉も見つけられない。だって、きっと彼女の幸せはぼくじゃない。お互いが三代欲求の一つを埋める相手を手っ取り早く選んだに過ぎない。

アパートの玄関のドアを開けてから、「ハルちゃん。振られた」と僕は言った。ハルちゃんの姿は見えない。くすんで干からびた空気感が漂っていて、冷蔵庫を開けてボトルの水をがぶがぶ飲んでみる。お酒が飲みたいしタバコも吸いたいのに、ストックが全て無くなっている。昨日までは覚えていたのに。

「忘れない」とぼくは笑った。

「ごめん。忘れない」もう一度笑ってみた。

「ねえ、ハルちゃん。ぼくはもっともっと寂しいところに行くつもりでいるんだよ。三葉さんはきっと幸せになれる人だよ。泣かなかったからね」

この部屋にはぼく以外の音がない。クーラーをつけてみる。室外機がゴウンゴウンと音を立てる。テレビをつける。人の声がうるさくて、音量を絞ってみる。それでもまだうるさくて消してみた。ダメだ。この音はダメだ、無音ではないけどダメだ。

「ねえ、ハルちゃん。ぼくはロックを聞かないよ」

心臓に手を当ててみるとガス、ガス、ガスと規則的な音がする。ダメだ。寂しいこのままじゃダメだ。ハルちゃん、ハルちゃん、ハルちゃん。

「あんな子供騙しな歌って思うんだ。いや、違うよ、嫌いなわけないじゃん。ハルちゃんが好きな歌なんでしょ」

「ごめんごめん、機嫌なおしてよ」

「ほんとだって、ぼくもきのこ派だよ。嘘じゃないよ、好きになったよ」

部屋のカーテンを全て閉め切った。
ハルちゃんの言葉を全部思い出して、三葉さんのことを考えた。大丈夫。大丈夫。鉛のような疲れが襲ってきても、ぼくは大丈夫。
この部屋には冷蔵庫と、絵の具や筆といった道具と、キャンパスをしまい込むために用意していたダンボールが埃をかぶっていて、喪失感に身を任せて身体を丸めて沈みこませてみる。
そのままの状態で描きかけのキャンパスを見上げていると、いつか夢で見たハルちゃんが恋しくなった。

最後の絵を描き上げてしまおうと思った。

青の絵の具と、白の絵の具だけを使った。。
塗りたくりすぎてもはや何の絵なのか自分でもわからなかった。
ようやく完成した絵は、やっぱりよくわからない青と白で、濃い青と薄い白と、薄い青と濃い白でゴテゴテしているキャンパスを見つめていると、今まで投げかけられて煙に巻いてきた質問の答えを全てここに吐き出したような気がしてきた。
だからではないが、ぼくはそれを、君に読んで欲しいと思った。大丈夫、夢のなかでならまた会える。

過ごした日々も、声も泣いた顔も忘れないから準備しといてよクローバー。


お肉かお酒買いたいです