二度目のハルニ 前編

 ハルちゃんがいなくなった。今までの他の女と同じように、姿を消した。声も聞こえなければラインも来ない。勿論、夢の中にも現れてくれない。どうしてどうしてと途方に暮れていた春に、一度だけ夢の中に出てきてくれたことがあった。
 終電の改札口、ホームに縁取る黄色い警告点字ブロック。開かれたドアに吸い込まれていく青色のワンピース姿のハルちゃん。後ろ髪は丸い玉突きのヘアピンで器用にまとめ上げられている。
 僕はその後ろ姿をずっと睨み続けていた。身体がうまく動かないし、声もあげられそうになかった。ただただ、その後ろ姿に願いをかけ続けるだけだ。「振り返れ」と。そうして、もしもあの時振り向いてくれていたらと。

 せっかくの休日に素性のしれない女とコーヒーを飲みに行く羽目になった理由は、僕が酔っていたことに起因する。ヨシちゃんと二人きりで会うのは二度目で、一度目を数えることにはやや疑問が残るのだけど、確か友人と連れ立って訪れた居酒屋を出て、二軒目にと訪れたカラオケ屋の喫煙室で出会ったのが一度目だったはずだ。
 友人が歌っている隙にと部屋を出て喫煙室に向かうと部屋には誰もいなかった。深夜二時、簡易的な丸椅子に座りひとりタバコの煙を肺に入れているときにドアを開けて現れたのがヨシちゃんだった。
 「……びっくりした」と思わず声に出た。ヨシちゃんは顔面にクエスチョンマークを滲ませながら、「え、なにが?」と聞いてきた。

「知り合いに似てた気がしたけど、全然違ったことにビックリした」

彼女は「なんですかそれ」と笑ってデニムパンツのポケットから妙に長細いタバコを取り出して火をつけるのだった。

 ヨシちゃんは交番勤務の婦人警官として働いているらしかった。漫画原作のドラマ化によってプライドが肥大化し対人関係がフィクションに足首まで浸ったような物言いをする同僚が増えたのだと苦笑していた。
 駅前で待ち合わせ、一緒に小さな喫茶店に入った。ヨシちゃんが行きたがっていた店だったのだけど、こじんまりとした店の割に豆の種類が多く、こじんまりとした店なのだからといった理由でコーヒー豆の鮮度に疑問が浮かび、一番人気のものしか注文しないでおこうと早々にメニューを決めた。改めてメニュー表を見て、「僕、本当はビール飲みたいって言ったら怒る?」と聞くと、「ダメだよ。飲み比べしたいんだから」と僕の目を見て柔らかく笑った。コーヒーをシェアして飲み比べするなんて、初めて聞いたなあと思う。

「それで、どう? 調子は」

「概ね普通。ビールを飲ませてくれたら絶好調になれる感じ」

 何故コーヒーの付け合わせにゴルゴンゾーラチーズが出てくるのかと戸惑っている僕をよそに、ヨシちゃんは舌先に空気を多めに含み入れるようにズズっと音をたててコーヒーを飲む。

「わかったから、コーヒー飲んだらビール飲めるところいこ。例えばさ、仕事のこととか聞かせてよ」

「うーん、特に興味がないからなあ」などと僕は話す。

 入社した当初から僕を目の敵にしてくる先輩がいて、彼の陰口や態度が目に余るものだから酔ったフリをして詰め寄った結果直接的な被害は避けられるようになったのはいいのだけど。当然のようにその先輩の政治工作による排斥運動の槍玉に挙げられて社内で居場所を無くしている、という話をした。

 能力がない人間による能力のないだろうと思われる人間への排斥運動を止められるほど、自分自身の正義が確立されているわけではない。自分でも情けないとは思うのだけど、そこまで落ちぶれているつもりは毛頭ない。ただ仕事の話をする時にはどうしても格好悪いことを話すことに決めていた。人間の三代欲求を埋めるための仕事であり、食って、寝て、セックスをする生活のためだけにやっている仕事に身が入るはずもない。要領よくこなせることを声高に主張することに嫌悪感を、所謂大人と子供の差がある仕事だと言っても一年や二年で成果の出る仕事でいて、給料がべらぼうに高いわけでもなければ入社するために必要な門戸が狭い、例えば学歴や専門知識がいる仕事でもなかった。
 要するに僕は、おそらく十五万年前から変わっていないホモ・サピエンスの形態に、自身の知能に酔いしれる性質と構造に戸惑い続けているのだ。

「日本の会社が年功序列でよかったよ。甘い汁だけ吸って逃げ切れそうだ」と僕が言うとヨシちゃんは、「最低の考え方」と明るい笑い声を立てた。

 カラオケ屋の喫煙室で話した時にも思ったのだけど、ハルちゃんとは全然似ていなかった。気合の入ったメイクは素直に嬉しいのだけど、どこか夜の女を彷彿とさせるし、綺麗に巻かれた髪は日々の生活の中でケアを忘れかけていた女の矜持を思わせて少し苦手だった。
 喫茶店を出たあと、繁華街の裏道を二人で歩いた。一瞬頭の中にラブホテルという選択肢を思い浮かべた自分に苦笑しながら、「ビール飲みに行こうって許可くれたよね」と話しかけ、汚く古臭い暖簾がかけられた居酒屋に入ろうとした間際で腕を引かれて、コーヒー味のキスをした。

お肉かお酒買いたいです