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怖がらないでハルニ

『結局、飛ばせなかったんだよ』
『どうして? ああ、不具合が見つかったとか?』
『いや、理論上は完璧だったはずで。不備があったとしたらぼくの心だった』

 この女は誰だろうと思った時には少しだけ世界が傾いて見えた。
 前職の上司の口利きで転職した会社でいきなり部長職を与えられたぼくに不満を抱いている人間は一人や二人ではない。誰も名前を聞いたことがない大学を六年かけて卒業した学歴と、畑違いな職歴が陰口の対象なのだと、新設された部署にたった一人だけの部下が教えてくれた。なにもそこまで目の敵にしなくてもとは思うのだけど。何年も経たない内に僻地に飛ばされることを前提とした配置と役職なのだからと、それを一人一人に説明して回るほどの熱意がぼくにはないし。そもそも人間関係を円滑に運用していくためだけに割くリソースに対しての抵抗感もある。

 お願いだから反論を許す感情論で介入してこないでほしい。他人の能力を判断するその人自身の世界認識にも盲点があるのだから、その「歪み」を指摘して正してやろうとする行為そのものが、馬鹿が馬鹿を指導するようなものだ。 ぼくはあなたの人生やあなたの思想良心に興味がない。多数派であることを声高に主張することは自己欺瞞を曝け出していてみっともない。自分に好かれたいがために自分自身に媚を売る自分の卑しさに気がつくべきだ。と、そんな愚痴を目の前にいる会ったばかりの女にこぼしてしまいそうになり、ぼくは慌てて話題を変えたのだった。

「宇宙船をね、作っているつもりだったんです」
「宇宙船って、あの?」
「そう、あの。半世紀も前に月にまで辿り着いたアポロみたいな」

 他部署の人間に散々嫌味を言われて疲れ切ったまま訪れた店で落花生を肴にして飲んでいる。ここには月に二度程、心に余裕がないときに立ち寄ることにしている。日本酒の種類が多いから気に入っていて、ワイングラスに注がれた冷酒を一息に喉に流し込むと喉がカッと熱くなってくると同時に、様々なストレスが胃の中で溶けていくような錯覚に陥ることができる。続けて二杯目、三杯目と頼み、ちびちびやっているとカウンター席で隣に座っていただけの女が話しかけてきた。これが一時間前。

「すごい仕事に就いてるんだね」
「仕事じゃないよ。それに子供の頃の話」
「かわいい。じゃあ宇宙船ごっこだ」

 最初は三人で飲んでいたのだそうだ。黒髪が肩まで伸びている派手な顔の女でいて、連れの二人は先に帰ってしまったから退屈なのだと言う。こういう店で声をかけてくるのはいつだってコミュニティ内であぶれた女だ。若すぎたり、顔が美し過ぎたり、金を持っていたり、立場があったり。つまりはそう、無い物ねだりの女たちだ。

「ごっこ遊びだったけど、でも本気だったよ」
「本気のごっこ遊びだ」
「うん。あんなにも夢中になれて、がむしゃらだった二年間は後にも先にもないぐらい」

 子供の頃、父方の実家に預けられていた頃に花火をしたことを思い出す。必要以上に煙を吐き出しながら、手持ち花火が勢いよく火を吹き出していて、全開の蛇口から放出される水のようだと思った。赤、青、黄色と光の変色していく。ぼくは祖母の隣でだらしなく垂れ下がる紙のような線香花火に三本まとめて火をつけてみる。重力に抗えずにものの数秒で落ちていった光の玉を眺めていると、妙に惨めな気分にさせられた。
 その点、興味を持ったのはロケット花火で、重力を感じさせずに真っ直ぐに飛び上がる様が綺麗で好きだった。祖父母の目から離れるように場所を移すとぼくは数本のロケット花火を解体して火薬を取り出してみたのだった。もっと高く飛ばしてみたかったから。

「なにしとる!」

 夢中になっていた為に、背後から大きな怒鳴り声がするまで近くに人がいることを忘れてしまっていた。必要以上にこっぴどく怒られて頭にゲンコツまでもらってしまった。
 その夜から数日後、改まって話しかけてくる祖父が、「内緒だぞ」と目の前で爆竹花火を分解し火薬を取り出してみせた。続いて、カメラのフィルムケースに鉄屑と一緒に詰め込んだだけの小さな圧縮型爆弾を作った。

「好奇心は抑えきれんだろう」

 車を走らせてたどり着いた海岸で、砂浜に埋めた小型爆弾の導火線にライターで火を付けた祖父と、離れた場所で遠巻き見守っていた。数十秒経ってから、垂直に登る白煙とほんの少し遅れて聞こえた爆発音。恐る恐る近づいてみると数十センチのクレーターが出来上がっていた。

「宇宙船といっても人が乗るわけじゃないけどね。ぼくが作りたかったのは周回軌道に届くロケットだよ」
「ロケット? ロケットってつまり、ミサイルだよね?」
「うん。爆弾を乗せればミサイルで、居住船や衛星を乗せればロケットだ」
「でもさそれってちょっと、危なくない?」

 当時、おそらく祖父も同じ懸念を抱いたのだろうと今でこそ思う。多数派の人間にとって子供が火薬を取り扱うことで連想する事柄に、痛ましい事故が起きる可能性と悲惨な結末に強い危機感を覚えるのは当然のことで。だからこそ容易に予測できる未来が忍びなく、誰にも内緒で完遂させなければいけない計画だった。

「中学の頃好きな人に同じことを言われたことがあるよ。怖い無理って、普通に落ち込んだ」
「落ち込むの? ごめんごめん慰めてあげよっか?」
「なんだそれ」

 少し笑ってしまった。精神的に未熟だった中学時代。試験作機の燃料タンクにいくら液体を注いでもマイナス196度が沸点の液体窒素はすぐざま気化してしまう。インターネットにも、図書館でもロケットやミサイル兵器関連の書物をしらみつぶしに漁ってみたのだけど答えがどこにも書かれていない。苛立ちと焦燥感だけが募り、うっかり当時の恋人に愚痴を打ち明けたときのこと。話の流れで、ロケットを作りたいんだと話したぼくは我ながら幼かった。
 結局、問題を解決できたのは一ヶ月経ってからで、燃料タンクの内壁を断熱材でコーティングしてから圧力をかけた液体窒素をが気体に変化することを無視してガンガン圧送し続けることで、タンク内がマイナス196度以下になることがわかった。そこまでできて初めて、液体のままで燃料として使用できるのだ。

 『気持ち悪い、もう怖いって』

 正解と引き換えに幼い恋はダメになったのだけど、ひとえにコミュニケーション能力といっても。ぼくにとっては興味が薄くさしあたって必要性を感じたこともない。五歳児と八十歳の老人とでは使える語彙や理解力に差がある様に、相手を変えて言葉を取捨選択しなければいけない事実が苦痛だ。明らかに人という種には序列や優劣が存在している。例えば仮に辞書の言葉を全て網羅した人間が話す言葉はさぞかし心地良いものであるのだろうと期待していた時期がぼくにもある。それすらも幻想であると気がついたのはいつの頃だったかは忘れてしまったのだけど。当たり前に当たり前の話で、百人いれば百通りの真実があり、物語は全て事実からかけ離れている。ある程度の場合までは人は人を選別することでしか、初めの一手で判断することでしか能力に見合うコミュニケーションを図ることはできないし、様子見と予測を繰り返したところで外れることがほとんどだ。表情の使い方目線の置き方、声色に声量に間の取り方。服装や髪型に至る情報の全てが非言語コミニュケーションであるのだから、それらを鑑みてもなお、感情と論理の間には大きな隔たりがある。

「ロケットって、要するに火薬を使うんでしょ? 違法っぽい」
「違法だよ。だから火薬を扱う場合はライセンスがいる」
「なんかすごいね。よくわかんないけど、やっぱり危ないんじゃない? ほら、爆発とかさ」
「まあ、危ないけど仕方ない。自分一人で成し遂げたかったんだから」

 この国では「本来してはいけないことを許される」為に資格制度が採用されている。人の身体にメスを入れることが許された医療免許。可燃性の油を詰めた物体を時速百キロで操ることが許された運転免許。大衆の眼前で人を殴り倒すことが許されているボクサーライセンス。それらは全て、他者に重篤な危害を与え殺傷し得る能力を制限するという名目であるのだけど、自傷行為自体を罰する法律は存在しないのだと論理を飛躍させてみる。もちろん指や腕が吹き飛ばないよう細心の注意を払うのだけど、他者に観測されなかった事実は存在しないことと同義だ。

「試作機は全部で三十五機。子供らしく最初はペットボトルからスタートして、ボトルを一度切り抜いて内壁をアルミホイルで補強した二号機。百均やホームセンターに通い詰めたり資材置き場でゴミを漁ったりして材料を調達した。当時の資金源だとどうしてもお金が足りなくて、節約のために学校の理科室に放課後忍び込んで、酸化剤に使う為の硝酸カリウムや、燃焼効率を上げるためのマグネシウムをちょっとずつ盗んだ。それでも足りなくて、もう開き直っちゃって瓶ごと持ち帰ったら次の日には学年集会で問題になってたりして。あっほら、宇宙開発の先人が残してくれていた数式があるから最初の頃はとにかく実践で。あとはガソリンをこっそりペットボトルに詰め込んだり、こっそりといってもセルフスタンドじゃすぐに咎められてしまうから自転車に乗って隣町まで、さらにまた隣町まで。苦労したけど、苦痛じゃなかった」
「えっと、もしかして本気で作ってたってこと?」
「本気だったよ。さっきから言ってんじゃん」

 本気だった。だからこそ実現させることの難しい目の前の現実が、ただただ悔しかった。何度設計図を書き直しても、計算をやり直しても、高度を稼ぐための機体が大きくなればなるほどにロケットは真っ直ぐに飛ばなくなるのだ。
 例えば国際宇宙ステーションが飛んでいる軌道は高度400キロ。東京〜大阪間の直線距離と同じだ。たった400キロが遠い。どれだけ改良を重ねてみても300メートルを飛ばすことで精一杯で、これでは120キロの成層圏などは夢のまた夢だ。高度が上がるに連れて次第にパラシュートで返ってくる機体の数が減っていき、ほとんどが海に落ちてしまうようになった。圧倒的に資金が足りなかった。そうして、一番の問題は。

「ジャイロスコープがなかったことが痛かった」
「ジャイロスコープ? よくわからないよ」 
「簡単に言うと、回るコマのことだよ。コマは回っている間、軸を常に同じ方向に向けようとする性質がある。コマの性質を利用してロケットが傾いているのかを判断して、ノズルの下の耐熱番を動かすことで向きを調整する。船とか航空機に搭載されていてパソコンでプログラムを組んで姿勢を制御するんだ」
「一気にハードルが上がったね。そんなのって一般人が手に入れられるものじゃなくない?」
「当時はどこにも売ってなかった。でも今は誰もが持ってる。スマホに搭載されてるから」

 それでも諦められなかった。安価な固体燃料で方向性を固めて、設計を見直し制作を繰り返した。均一に燃料を噴射できるように調整を繰り返し、少ない燃料で真っ直ぐに飛ぶ機体を作るため。いつかは宇宙に届くために、街の自動車板金屋に通いこんで仲良くなった従業員に、夏休みの自由研究で模型を作りたいなどと口説いた。材料費とお小遣い程度の金を握らせて薄く丸い噴射口を作ってもらった試作機は、結果的に最後の35機目になった。
 その頃には、積み込んだ燃料と酸化剤を燃やして、高温、高圧ガスを排出しながら飛んでいくロケットの全体質量と使った推進剤の質量によって、ロケット全体の初期質量と燃焼終了時の質量の比、および排気ガスの速度を試算することでロケットの増速量がわかるようにもなっていた。

「機体は全長1.6メートル。重さは120キロ。今までで最大のロケットの打ち上げは12月31日の夜、運よく晴れていて風もなかった。友達と初詣に行くって嘘をついて向かったのは秘密基地。元々はじいちゃんが農具を保管したり車庫として使っていたもので、じいちゃんが死んでからは誰も寄り付かなくなっていた。ばあちゃんの家からも大分離れていたからね」
「ついに夢が叶う時が来たってことね」
「いや、どう計算しても1600メートルが関の山だよ」

 初期質量の80~90%は推進剤。ホームセンターで手に入れられる材料や構造体では1段だけで人工衛星が軌道を周回できるような高速度を達成することはできない。そのため、大きなロケットの上に小型のロケットを段状に取り付ける方式にして、推進剤を使い切った下段部分を切り離した後、引き続いて上段のロケットを作動させる必要がある。調べれば調べるほど、このロケットでは宇宙に届かないことを知らされてしまう。構造はいうなればロケット花火。個体燃料を用いて、燃焼持続時間は125.6秒。


「結局、飛ばせなかったんだよ」
「どうして? ああ、不具合が見つかったとか?」
「いや、理論上は完璧だったはずで。不備があったとしたらぼくの心だった」
「心の問題?」
「うん。ぼくは心が弱かった」

 人類が初めてロケットで人を殺したのは1944年9月8日。開発者フォン・ブラウンの夢の形はオランダのバーグ郊外で火を噴いた。最初は垂直に、雲を抜け数分の後高度は成層圏にまで達する勢いだった。しかしながら西に機首を傾けたロケットは加速しながら重力に引かれて高度を落とし、猛烈な速さでロンドンの市街地に突っ込んだ。近くにいた不運な三人が巻き込まれ、その中には3歳の女の子も含まれていた。そのニュースを聞き、フォン・ブラウンは仲間にこう漏らした。「ロケットは完璧だった。間違った星に不時着したことを除いては」

「急に怖くなったんだよ。臆病になったわけじゃない。ただ、なんとなく怖かった。漠然と、なんとなく。思春期だった。反抗期はなかった。だけど反抗期があったほうが親は安心するだろうと思って取り繕ってうまくいかなかったり。女性に惹かれてしまう自分を気持ち悪いと思ったり。重力を振り切れないで常に誰かといなければ生きていけないのかと悩んだり。答えの出ない問題だけを必要以上に考えたりして。神様について考えてそれから、人について考えた。宇宙の深淵のことや、たぶんそれがよくなかったんだと思う。だから全部の思考を加速させようと思った。全てに答えを出した結果、「だからどうした」そう言える人間になりたかった。善も悪もない。そこには優劣もない。なのに、どれだけ高尚なことを考えたところで頭にちらついてしまうのは3歳の女の子の泣き顔。一瞬で死ねただろうか、苦しまなかっただろうか。それだけが頭の端っこで警報を鳴らし続ける」
「……」
「どれだけの時間だったろう。一分、五分? 三十分? さよなら。ごめん、怖い無理だ。って、いつか恋人に言われたセリフをぼく自身が口にするとは思わなかった。僕のロケット。さよならって泣きながら抱きしめて、口づけをして、分解した。悔しかった。悔しくて悔しくて涙が止まらない。噛み締めすぎた歯がギリギリって音を出して、ゔーって変な泣き声まで出てきて。震えてきて、でも結局点火できなかった理由だけはわからないままだった」
「……」 
「聞いてくれてありがとう。つまらなかったでしょ」
「そんなことないよ」


 想像しようと思った。ただ想像しようと。
当時のぼくの隣に君がもしいてくれたなら。きっといまのぼくとは違うだろう。もっと馬鹿で、もっと笑っていて、もっと幸せで、きっともっと孤独だろうけど寂しさなんて気づかないぐらいとても幸せな淋しさを抱いているだろう。
 君が隣にいたなら、あのとき隣にいてくれたなら。ロケットは大気圏を突き破りさらに加速して月まで。月の引力を利用してもっと深い深淵へ。ロケットの先端には君の似顔絵を書いておく。それはきっと、想像を絶するほど孤独の旅路になるからだ。深部に潜るためだけに生を受けたロケットはやがて意思を持ち、ぼくの心を終着に運ぶ。マイナス270度の感情に潜ったまま進化しなかったぼくの隣には、君だけが離れないまま側にいてくれる。

「ハルちゃん」隣にいる女に呟いてみる。「そろそろ家に帰ろうか」

ハルちゃんは、もうーと頬を膨らませながら、「最後まで気がつかないのかと思ったよ」と微笑みながらそう言った。



お肉かお酒買いたいです