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大道芸人宣言 一九九三~二〇〇三 ③/五分割

大道芸人・雪竹(ゆきたけ)太郎(たろう)

*[(補填)…… ]は、『現代風俗興行イッツ・ショウタイム!』に本作品を発表するにあたって削除した箇所の一部。当《大道芸人雪竹太郎文庫》に収蔵するにあたって、四箇所に限り補填、復旧する。

2 日本の大道芸事情

私がこのような旅を始めたのは、ひとつには、いずれ日本では大道芸ができなくなってしまうのではないかという危惧を持っていたからです。実際、そのようになってきています。今年東京を発つ前にも、上野公園から大道芸人たちと路上商たちとが締め出された光景を、私は目にしてきております。

もともと日本では大道芸という職業は法律上成り立たない、あるいは成り立ちにくいわけで、私も警察とのトラブルは何度も経験しています。ことに、「平成二年(一九九〇年)」の現天皇即位式の前後から、東京の街頭管理はまた一段と厳しくなってきた様に感じています。

そこで、国境の外にも私の新しい仕事場、生活の場を開拓する努力と併行して、日本にいる時には、新聞投稿をする、マスコミの取材にも前向きに応じる、また議員に手紙を書く等、手当たり次第に私たちの窮状を訴える努力をしてきました。日本で大道芸人としてやっていく時に突き当たる困難は、海外で大道芸人としてやっていく時に味わう苦労とは質が違うのです。

ところが、一九九二年秋、「大道芸ワールドカップ in 静岡」あたりから、「日本の大道芸」はまたひとつ新しい問題を突きつけられてしまったようです。

例えば、この九三年四月から、静岡市が市の管理地の一部を大道芸のために開放しました。また福岡市のある企業の所有地が、ある大道芸人の努力で、やはり大道芸のために開放されたという情報を、この旅の途上で得ました。このような動きは今後ますます拡がっていく可能性がありますし、私たちにとって、まずは喜ぶべきものに違いありません。

と同時に、大道芸が「お墨付き」になる、大道芸人が与えられた「枠」や「企画」の中に入っていくということは、どういうことなのか、改めて反省しておくべき時期がきたのではないかと思います。

ことに気にかかるのは、テレビを中心とするマスコミの大道芸に対する関心の示し方です。もともと大道芸文化はマスコミ文化とは折り合いのよくない、いわばミニコミ文化です。そして今、マスコミは、私たちのこれまでの活動のあり方、さらには大道芸の根本までをもゆがめかねない恐ろしい力を持っている、と考えるべきです。

今までの私たちの活動には、一切公的な認可がなかった代わりに、たまたま街頭で出会った者同士(観客と芸人と)が共感しあえるものであれは、何をやってもかまわないという自由がありました。観客以外の誰か第三者の認知を得たいといった色気をもたない、無欲な演技ができました。

実際、色んな悪条件を抱えてやっていたわけですから、色気を出している暇もなかったのです。酔った観客の悪ふざけや不見識な若者グループの妨害行為、大道芸に反感を持つ人の警察への通報などによって簡単に壊れてしまう脆〔もろ〕いものであっただけに、芸人と観客、さらに通行人との間の相互尊重、相互理解だけを頼りにやってきました。道交法、その他の法律や条例にたとえ違反していても、人間の高度な社会性に根ざす行為なのだと信じてやってきました。

「大道芸はなくならない!」

警官の世話になる度に、この言葉を胸に刻んできました。そして、与えられた場がなかった分だけ、普段は何でもない道端に人垣をつくり、ドラマをつくる力量が、私たちには何より問われました。そういう私たちのあり方が、これから少しずつ変わっていくのだろうと思います。

私たちが今迎えようとしている新しい事態に対する心構えが、私たちには十分できているだろうか? 大道芸とは何かが、自分でも本当に良く分かっているのだろうか?

「お墨付き」になるということは、当然その「枠」からはみ出してしまう芸人も出てくるわけで、芸人でも観客でもない第三者のたてる基準に従って、大道芸人の選別が行われることになります。例えば、火を使ってはいけない、動物を「虐待」してはいけない、裸はいけない、金の集め方はこうでなくてはいけない、芸には「品位」がなくてはいけない等々。これはアヴィニヨンで弱肉強食のルールに従って芸人同士の食い合い、生存競争が行なわれているのとは質が違うのです。場合によっては、もっとたちが悪いのです。

今年(一九九三年)二月に初めて訪れたオーストラリアのゴールド・コースト市は大道芸に対して手厚いところで、私が訪れたときには丁度、市の大道芸広場の改修工事をしている最中でした。雨が降ってもよいように屋根をつけるとかで、他にも、ここには芸人たちのための宿所が用意してあります。その代わり、ここに大道芸人が入っていくためには、市役所に所属するディレクターに「非常にすぐれた」大道芸人であることを認められ、証書を交付されなければなりません。小さな広場なので、シーズン中は一度に多くの芸人を入れられない、穏やかな観光地としては、芸人同士の「無用な」トラブルは避けたい、という配慮もあるのでしょう。これは大道芸を責任をもって受け入れようとする「地元」の論理ですので、私たちもある程度、尊重しなくてはなりません。

ただし、この場合、「枠」の中に入れてもらえる芸人と入れてはもらえない芸人との連帯をどのように維持していくかということが、新たな問題となります。

日本の場合、テレビを中心とした中央集権的なマスコミ文化のあり方が、この問題を一層、難しいものにするだろうと思います。つまり、「地元」の論理の上に「中央」の論理が被さってきて、問題がややこしくなるのです。マスコミ文化の階段を登らんがために、与えられた「枠」の中で大道芸を始める人たちが、必ず出てきます。それはそれでいいのでしょうが、私はこの手の「芸術家」が好きではありません。この手の人たちは、大道芸そのものを愛しているわけではないので、第三者(地元、警察、マスコミ等)による大道芸人の選別、差別、さらには排除にまでも、平気で手を貸すからです。これは実際に私が東京で経験したことなので、断言してはばかりません。

そして、昨年の「大道芸ワールドカップ in 静岡」では、「枠」の中に入ってきた大道芸人たちを、さらに、様々にランクづける試みまでがなされました。この試みを短絡的に否定するつもりはありません。しかし、それはNHKテレビや静岡市などの事情によるものではあっても、私たち大道芸人にとって必ずしも愉快なものだったわけではないことを、皆さんには知っておいていただきたいと思います。

また、静岡の「枠」の中でたとえ「世界一」であっても、本当に「世界」に出て行った時、例えばニューヨークでは「亜流」でしかないことや、バルセロナでは「乞食芸人」でしかないことがあるということ。「大道芸の世界一」というのは、実は、「日本国内」でイベント活動をする時などに意味を持つだけのものなのです。

モロッコ・マラケシの大道芸をテレビで見ました。乞食の寝泊りするような広場で、少年がえびぞりになってちょこちょこ歩きまわっていました。「サーカスに売り飛ばすぞ!」という、最近、聞かれなくなった言葉を思い起こさせました。私たち「文明世界」の大道芸人はとてもここには入っていけない、太刀打ちできないだろうと思いました。

ところが、モロッコの大道芸人が海を渡って、ポンピドー・センター前広場に現れることがあります。観客の何人かに魔法をかけて、男女の性転換をするのだそうです。もちろんサクラを使います。金を集めてまわる仕事を、「立派な」なり【「なり」に傍点】の観光客数人に、無理やりやらせます。人を楽しませているのか脅し取っているのか、もう見分けがつきません。他の芸人が来ても場所を譲ろうとはしません。こういう芸人とやりあっていく時には、「好感度」も「オリジナリティ」も……「世界一」も、役には立ちません。大道芸人は、その時その時その場その場を、なんとか自力で切り抜けていくしかないのです。

翌日、私は早く行って、その場所を押さえました。後からやって来て、今度は[(補填)、]交代でやろうと言い出します。節操のないやつです。これも大道芸人のひとつの姿なのです。こういう大道芸人と同じ土俵で渡り合っていかなければならない時、それもまたひとつ、大道芸人の姿になるのです。

大道芸人の姿は、その芸人がくぐり抜けてきた社会、そして、今、向き合っている社会を映し出しています。「大道芸ワールドカップ in 静岡'92」の総括の中で一番多く聞かれた言葉に、それぞれジャンルの違う大道芸を審査し、甲乙をつけるのは難しいというものがありました。これはまだことの本質をついてはいません。それぞれの芸人がくぐり抜けてきた社会、それぞれの芸を育んできた社会に点数をつけようとすることがおかしいのです。

日本のように大道芸に対して不寛容な社会で、欧米のように、やる方も見る方もゆとりをもって楽しめる芸が生まれ、育ちにくいのは当然です。そこの問題に目をつぶっておいて、芸の表面だけ切り取ってきてきれいな「額縁」に入れ、点数をつけようとするから、不満が出るのです。そこを棚上げしておいて、もし日本人大道芸人の「レベルが低い」とするなら、それは、実は日本の社会の「レベルが低い」ということなのではないでしょうか。そして、「レベルの低い」社会で大道芸の審査をやって「世界一」を決めようというのですから、考えてみれば、これはもってのほかの話ではないでしょうか。

私たちの芸には、確かに外国人大道芸人たちのようなゆとりはないかもしれません。その代わり私たちは、◯◯百貨店のガードマンが何時何分と何時何分にここを通る、あの太っちょのガードマンはたちが悪い、交番の警官たちの勤務態勢はこうだ、等々、日本の大道芸人として不可欠な知識は、どんな外国人大道芸人にも負けません。せっかく日本で大道芸の審査をするのなら、着替えの速さ、逃げ足の速さなども、ぜひ審査対象にしてほしいものです。そして、捕まった時に警官を怒らせないにはどうしたらいいか、始末書の書き方を知っているか、救援連絡センターの電話番号をすぐに言えるか等々。

そして「世界一」を言うのなら、稼いだ小銭を紙幣に替える作業の上手下手、格安航空券の入手の仕方、行った街行った街のたたずまいに合わせて芸のやり方を変える能力、芸の上で何ヶ国語を使いこなせるか等はいかがでしょう。大道芸は「額縁芝居」とは違うのです。人々の社会生活の真っ只中、私たちが今、生きているこの「世界」の真っ只中で、それと四つに組んで、そこにあるドラマを織りあげているのです。こういう大道芸人の社会との関わり方、「生活」の仕方、またそれぞれの芸の中身と街の風景との密接な関係などを知らずして、「大道芸」を語ってほしくありません。

私は一〇年前、生まれて初めて大道に立った、まさにその日、あっという間に交番にもっていかれ、まだ若い演劇青年としては縮み上がらざるをえないような取り調べを受けてからずっと、「警察」とか「権力」とかいうものを意識せずに大道芸をやったことがありません。日曜日の表参道、「歩行者天国」でした。交番に連れていかれる時、どこかのおばさんが、可哀想に! といって三百円くれました。[(補填)これが、私が生まれて初めて大道芸で手にした「お金」でした。

初めてのその日、初めての冒険でしたのでボディ・ガードに、と頼んだ友人が、待ち合わせの時間に少し遅れました。ハチ公広場でポーッとしている間に中核派かなにかの新聞を買わされました。持ち物検査の末これが見つかり、取り調べが長びきました。私の演劇ノートの表紙に「暴力」という単語が書いてありました。これがもうひとつ、取調べを長びかせました。]

それからは、ただ買物に街に出ただけの時でも、交番の前を通る時や警官とすれ違う時には、つい身構える習慣がついてしまいました。

私が「権力」というのは警官たちのことだけではありません。「ホコ天」では「芸術家」が、自ら街頭の管理、表現の取り締まりをすることがあります。

「昭和」最後の日、「平成」最初の日、そして「大喪」の日にはビルの明かりが全部消えました。音楽も消えました。テレビが一斉に喪に服しました。その前から、東京の街には、約半年間に及ぶ厳戒態勢が敷かれていました。全国各地で歌舞音曲が次々と中止になっていきました。私は、そんな中をくぐり抜けて、やってきました。やってこざるを得ませんでした。私には「自粛」をするようなゆとりはありませんでした。いつも、足を止めてくれる行きずりのお客さんたちだけが頼りでした。

[(補填)路上で表現活動をする市民グループと情報交換、意見交換もしました。このグループのうち四人が、一外国人大道芸人の路上活動を救援しようとして、逮捕されてしまいました。とうとう裁判になりました。そのうち一人の拘留(こうりゅう)は半年にも及びました。明らかにえん罪、と見えました。これらの仲間を救援するためにビラ配りをしました。大道芸に対し好意的な扱いをしてくれたことのある新聞社などに応援を求めました。仲間のためだけではありません。「大道芸は違法!」の明文判決が出てしまう可能性だってあったのです。なしのつぶてでした。「ジャーナリズム」とは何なのか、考えさせられました。

それと同時に、同じ路上を行き交う「仲間」ではあっても、思想的な表現活動と芸術活動とは同じでない、「思想家」が社会に対する時のモラルと「芸術家」が社会に関わる時のモラルとは違うのではないか、と考え始めました。このグループの一部と喧嘩口論をしました。]私は、「お巡りさんに対しては反抗的な態度はとらない!」という方針を固めました。その代わり、何度捕まっても、決して大道芸をやめない! と心に誓いました。

[(補填)今、私の名前は、警察の或る種の「リスト」に載っていると見られます。これには傍証があるのです。]これが私のやってきた「大道芸」です。私が、そして皆さんが好むと好まざるとに関わらず、今までこれが「日本の大道芸」だったのです。

私は、大道芸の世界一を決めちゃおう! などという類のことは、難しいのでなく、ナンセンスなのだと考えます。よくよく考えてみると、それは世界の様々な大道芸を、日本の商業的なマスコミ文化の「枠」の中に取り込める大道芸と取り込めない大道芸とに「仕分け」したあげく、「枠」に取り込める大道芸を、そちらの都合で勝手に甲乙「値付け」したに過ぎないのです。こういうところで「世界一」になっても、それは日本の商業的なマスコミ文化の枠組みの中で階段を上っていこうとする時に役立つだけであって、投げ銭収入が増えるわけでも、お巡りさんに捕まらなくなるわけでもないのです。テレビで顔を売った芸人は、もしかしたら客寄せが楽になるかも知れませんが、顔を売る間があるのなら、足腰を鍛え、心にくさびを打ち込んでおいた方がよいに決まっています。国境の外に一歩踏み出したとたんに、どんな「顔」も役に立たなくなりますから。

それはそれとして、静岡でもらった二つの賞を、私は私なりに大切に考えています。大道芸に対して大変に不利な環境の中で、なぜか「大道芸」ということを思い立ち、いつも色んなものにびくびくしながらなんとかやってきた私が、今、大道芸を愛してくれ始めたばかりの静岡市民の皆さんの無垢な声援に支えられて、大道芸に対する企画者側のはなはだしい無理解、不勉強と戦って勝ち取った賞だと考えています。私が取るはずのない賞でした。「ゲルニカ」の子供たち数十人が続々と舞台に上がってきた時には、この子供たちと一緒になって「現代日本文化」の中枢を占拠したような、百姓一揆の指導者になったような気分でした。

思い切って言いますと、今、思い返すだに腹の虫の納まらない、不愉快極まりないコンテストでした。ことに、ファイナル・コンテストはひどかった! 出番を待つ舞台裏で、肝心の大道芸や大道芸人はそっちのけ、とにかく予定通りにプログラムを消化し、審査を終え、テレビ番組を一本つくらなければならない、そんな仕事っぷりを目にしました。

それまで九年余、いろんな思いをしながら一生懸命に積み上げてきた私のつつましい「大道芸」が、ある日突然、こんなまな板の上で料理されようとしている、こんなお祭りにはやっぱりでなければよかった。体が萎えるような、喉がつまるような、すごく悲しい気持ちでした。出場を辞退するという選択肢はとれませんでした。五〇名の市民審査員の皆さんは、企画者側の思惑とは別に、皆一生懸命に審査をして、私をファイナル・コンテストに押し出してくれたのだと思います。

そもそもなぜ、このような「大道芸ワールドカップ in 静岡」に出場したかというと、この機に少しでもよい大道芸をやって、静岡市民の皆さんに少しでも大道芸を好きになってもらい、「日本の大道芸」を応援してほしい、そんな思いがあったからです。何より、市の管理地の一部が大道芸広場として開放される可能性があるという話が魅力的でした。ここに来た目的だけは、できるだけ果たして帰りたい…。

私は、私の「大道芸」の大切な要素を思い切っていくつも切り捨て、ただひとつ、観客の皆さんの応援に、全てを託すことにしました。ステージに上がり、数千人のお客さんを前に【「数千人のお客さんを前に」に傍点】、遠くのお客さんたちは字も読めず、声も聞き取りにくいでしょうが、どうか最後まで「心の目」で、「魂」で見て下さい! そう前置きすると、笑いと拍手がありました。これで十分です。お客さんたちとつながったのです。あとは、緻密かつ大胆に暴れまわるだけです。お客さんたちとのつながりさえ切れなければ、何をやってもいいのです。テレビカメラなんかどうでもよいのです。特別審査員なんかどうでもよい…。

こうして自分の義務を果たした後は、賞のゆくえはもうどうでもよいことでした。賞の発表を待つ間も、二つの賞が僕の手に渡ることが告げられた時も、僕の受賞を心から喜んでくれている皆さんには少し申し訳ない気がするほど冷静でした。大道芸人がなぜラスベガスに行かなければならないのか、わけがわかりませんでした。こんなことは早く終わって、早く一人になって酒を飲みたい…。

そして、これから本当に大変になる、とも思いました。

こういうわけですから、特別審査員のお一人が審査を降りられたということも、それだけ問題のある賞をとってしまったということで、私はたいへんに納得しています。

それからしばらく、取材の申し込みがいくつかありましたが、私はいつも、奥歯にものが挟まったようなものの言い方しかできませんでした。この新しい事態に対する大道芸人としての心構え、いわば「理論武装」ができていなかったのです。それから冬を越し、春を迎え、今、夏の最中〔さなか〕のヨーロッパにいます。その間、何度かお巡りさんの注意を受け、宝くじ売り場のおじさんから苦情も受け、その間ずっと考え、今も考え続けています。今はもう少しはっきりとものが言えるような気がします。

ある「枠」や「企画」の中でだけ大道芸と大道芸人とを評価しても、それは、日本や世界のまだ皆さんの知らない、そして私も知らない大道芸と大道芸人の様々なあり方、姿を愛したことにはならないということです。私たちが苦労して積み上げている大道芸文化の都合のよい部分だけ、つまみ食いしているにすぎないということです。つまみ食いをするのなら、もっと謙虚にやってもらいたい、でないと「大道芸」は壊れてしまう、ということです。

しかし私たちの側〔がわ〕も、今、日本で大道芸を取り囲み、取り込もうとしている一切の「枠」、「企画」を拒否してやっていくことは不可能ですし、理論武装の仕方としても間違っていると思います。またそれでは、大須、野毛など、地元に密着した長く堅実な伝統をもつ大道芸祭の「企画」にも入っていけないことになってしまいます。

実際、ニューヨークでもパリでもバルセロナでもアヴィニヨンでも、日本の場合とは質が違うにしても、ある程度束縛はあり、また街のたたずまい、人々の社会生活のリズムなどに合わせて、可能なかぎり「芸」の方を変えていかなければなりません。例えば、ワシントン・スクエアではカセット・デッキなどの機材を使った芸は取り締まられますし、バルセロナでは、三年目の今年、私の衣装と道路の使い方について警察からクレームがつき、「バルセロナ方式」にも手直しを余儀なくされてしまいました。収益率が若干落ち、その分、労働時間を伸ばすなどの対処を迫られました。それができない、あるいはしたくない時には出ていくしかないわけで、その「枠」にケチをつけることはできません。ことにこの場合、私はバルセロナ市民ではありません。バルセロナの警察や市民生活のあり方について、一日本人大道芸人が何を言えるでしょう。

ひるがえって日本での場合を考えても、もともと大道芸というのは大道芸人だけでつくるものではなく、大道芸人と観客、そして大道芸を受け入れる街の三者が一緒になってつくり上げるものです。大道芸人の都合ばかりを言ってはいられません。それぞれの動機や立場や力に応じて大道芸に力添えしてくださる皆さんなしにはやっていけません。

そこで私は、第三者のたてる「枠」や「企画」にも入っていく、必要な場合、可能な場合には討論もし、協力もすると同時に、いつでもその「枠」から出ていく「自由」を保持しようと思います。さらに、テレビ主導型の「現代日本文化」という大きな「枠」からも、いつでも出て行く「自由」を大切にしようと思います。私は日本に生まれ育ち、日本を愛する日本人であると同時に、「日本国」の国境の外にもうひとつ、「大道芸人」としてのアイデンティティを打ち立てようと思います。

《大道芸人宣言 一九九三~二〇〇三 ④/五分割》に続く。

《大道人宣言 オリジナル 1993年夏⑦/十一分割》に繋げる。
https://note.com/tarafu/n/n6ec18486be1c

《大道芸人雪竹太郎文庫》目次、に戻る。
https://note.com/tarafu/n/n6db2a3425e5c

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大道芸人・雪竹(ゆきたけ)太郎(たろう)
1959年1月、福岡生。83年秋より、東京及び近郊の路上で大道芸活動を開始。88年夏以降、先ずアメリカ、次いでヨーロッパ、さらにその他、海外の諸都市の路上でも活動。90年7月、フランス、シャーロン・スュル・ソーヌの大道芸人祭にて、最優秀外国作品賞(賞金なし)を受賞。他受賞歴若干。