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大道芸人宣言 一九九三~二〇〇三 ⑤/五分割

4 キムさんの話

私が、昨秋の「大道芸ワールドカップ in 静岡」以来、大道芸について新たに思い悩んできたことは、これでほとんど全部、吐き出せたと思います。だいぶすっきりしました。最後にもうひとつ、キムさんの話をして、このお便りを終わりにしようと思います。

ここアヴィニヨンに昨年まで、キムさんという名物の芸人さんがいました。ミュンヘンに本拠を構える、しかしヨーロッパ人ではなかったようです。アラブ人のような浅黒い顔の人でした。四十年輩の、小柄で華奢な体つきをし、いつもユダヤ人のような黒い帽子をかぶって、せかせかと猫背で歩く人でした。どこかさびし気な人でした。

この人の芸が異常に「強い」のです。この人の芸の基本はミーム・スイヴールといって、例えば路上のカフェテラスでくつろいでいる人たちを楽しませるために、カフェの前をよぎる通行人のすぐ真後ろ二〇センチぐらいのところを、ほとんどくっつかんばかりに、しかも相手にまったく気づかれずにつけて歩いたり、その歩き癖を巧みに真似したり、またレストランの前でメニューをのぞき込んでいるアベックの男の手を、後ろからそっと優しく握ったり、その男が何を勘違いしたのか、その手を握り返したり、等々、あれこれと罪のないいたずらをするのです。鼻の頭に「自分はクラウンです」という印をつけていますから、いたずらされた方は、それに気づいた一瞬は怒って見せても、すぐに赦してしまいます。

この手の芸はパリ、ミュンヘン、ニューヨーク、そして東京でも見たことがあります。皆、顔を白塗りにするなど、何らかのクラウンの印をもっています。たぶん一般にヨーロッパ社会では、クラウンの印をもつ者たちは、皆の目から普段は隠れた者、人を影のようにつけ歩きいたずらをするもの、日常の枠(秩序)からはみ出した者として公認され、その存在が特別に許されているのではないかと考えられます。

そして実はこれが、ヨーロッパ社会に大道芸文化が根づよく生き残っている理由なのではないか。クラウンが、サーカス小屋や劇場の中だけでなく、人々の日常生活の真只中にも潜んでいるのです。そういう伝説を、大道芸人たちが体現しているのです。

一般に大道芸人は、クラウンの印をつけていない者でも皆、大なり小なりクラウン的資質を身につけています。この点からみると、大道芸はもともと法規制の対象にはあたらない、特例として目をつぶられるべきものなのではないか。法律や条例による保護がなくとも、社会と民衆の支持さえあれば、なんとかやっていけるはずのものなのではないか。

話を戻します。いろいろないたずらが盛り上がってくると、歩道の上にもだんだんと人垣ができてきます。人垣の輪が完成すると、この「劇」の上演に気づかない人はいなくなり、いたずらの対象になる人はいなくなります。クラウンの存在は皆の目にあらわになり、隠れたものではなくなってしまいますから、ここで「幕」となるのが普通なのですが、キムさんの場合はここから改めて「開演」となるのです。

まず、人垣の中から六〜七人の子供たちをひっぱり出してきて整列させ、笛を合図に気を付け、前へならえ、直れ、右向け右、回れ右、その他様々な単純な動作をやらせます。その中に単純なトラックが入っていて、幼い子はかならずそれにひっかかり、間違えてしまいます。時には全員右を向いているのに、一人だけ左を向いていて、自分が間違っていることに気づきもしません。これが大人たちの笑いを誘います。特に、間違いに気づかない子の親たちは大はしゃぎです。これがすむと、子供たちは一人ずつ、キムさんのほっぺたにキスをして帰ります。キムさんはこの時、直立不動の姿勢をとりますから、小さい子はジャンプしたり、キムさんの体にどうにかしてよじ登って行ってまでキスをしようとします。ここでまた大人たちは大喜び、拍手喝采です。子供たちは皆、キムさんが大好きになりました。ひっぱり出してもらえなくて見ていただけの子供たちも、次は自分が出たいと思うようになります。

さて、今度は大人たちの番です。今度は六〜七人の大人たちをひっぱり出し、様々な扮装をさせ、ロミオとジュリエットのパロディだか何だか、他愛のない一幕劇をやらせます。映画のカチンコ係もいます。キムさんは演出家です。ここでもキムさんは隠れた存在であり続けます。クラウンに徹します。大人たちも子供たちに負けず一生懸命になります。大人たちも、キムさんの仕掛けたトリックに簡単にひっかかってしまいます。例えば、警官役がバイクに乗るパントマイムをする時には足を高く上げたのに、殺害現場に到着してバイクを下りる時には、犯人逮捕の方に気がいってしまい、足を高く上げることを忘れてしまいます。キムさんが、待ってましたとばかりに「ダメ」を出します。最初からやり直しです。それも、カチンコ係が走り込んできてカチンコを鳴らし、所定の位置まで走り去るところからです。つまり、後の人が間違うと前の人までとばっちりがいき、なかなか「劇」が進まないのです。でも、そこがおもしろいのです。皆一生懸命に演技します。

野毛や静岡でもおなじみの「人間ジュークボックス」の高橋(タカパーチ)さんが出演した時は大受けでした。この人は素人のようでも、色んな芸を見て、知っていますから、他の出演者たちより創意工夫があります。何度も一生懸命やり直しをした後、最後には、キムさんのトリックを全部クリアした上に、バイクにエンジンをかける時にはきちんとキーを回すなど、キムさんの指示にないディティルまであれこれつけ加えて、見事! 元気に警官役を演じきりました。カーテンコールは高橋さんが一番最後にまわされます。観客たちは皆、高橋さんに一番大きな拍手をし、ブラボーをあびせます。

このように、キムさんの芸は子供から大人まで皆が楽しめ、そして主役にもなれます。もちろん、隠れた主役はキムさんです。最後の最後にキムさんに、高橋さんよりもっと大きな拍手とブラボー、そしてお金が浴びせられるのです。子供たちが親からもらった小銭を、喜び勇んでキムさんの帽子に入れにきます。キムさんにお金をあげられるのは、子供たちにとっては何だか名誉なことなのです。

キムさんの芸は一時間以上続くこともあります。笛ひとつが頼りで、一言も口をきかず、音楽も使わないのに、英米系のジャグリングなどの饒舌な芸よりも、キムさんの方が「強い」のです。キムさんが芸を始めると、その側〔そば〕では他の芸人たちはまずやれません。客が全員キムさんの方に行ってしまうからです。五百人から千人ぐらいの人垣が、一時間以上にわたってほとんど崩〔くず〕れません。私たちはキムさんからだいぶ離れた、人通りの少ない、条件の良くないところでやるしかありません。遠くの方から時々、ピッピッというキムさんの笛の合図と、ドーッとどよめくような群衆の笑い声、どよめくような拍手が聞こえてきます。

ですから、キムさんは、お客さんたちやアヴィニヨンの地元の人たちには愛されましたが、他の芸人たちにはかなり厄介者扱いされているところがありました。芸が強いので真っ先に「おきて破り」をするのもこの人でした。おきて破りをしてしまった時には、他の芸人たちに弁解しようともせず、一人でポツンとしているような人でした。

このキムさんが、昨年はあまりうまくいきませんでした。キムさんだけでなく、皆んなもうまくいきませんでした。フェスティバル当局からの風当たりが強く、人出の少ない暑い時間帯とか、照明の消えてしまった薄暗がりの中でやらなければならなかった、などの事情もあります。あのキムさんが人垣をつくるのに苦労しているのを、度々見かけました。その分、当然、上演時間は伸びるし、後に控える芸人たちには益々嫌がられます。芸が間延びして収益が落ち込んだ分、回数をこなさなければなりませんから、より頻繁に「おきて破り」をすることにもなります。もの静かなキムさんが、客の見ている前で他の芸人と口論するようなこともありました。また、せっかく人垣ができかけたのに、芸を途中で放棄してしまうこともありました。そんな時には拍手もありませんし、一応帽子を置いてはみるのですが、普段なら親にもらった小銭を勇んで入れにくる子供たちの姿も、ポツポツでしかありません。

キムさんは自分の芸の弱点をよく知っている人でした。強い芸人がいつも勝てるとは限らないことも、よくわきまえている人でした。そのキムさんが、昨年はだいぶ焦って、少し取り乱している風なところがありました。一度、僕がキムさんの人垣の隣で張り合って、負けなかったことがありました。

見た目にはわかりませんでしたが、この頃にはだいぶ病気が進んでいたのではないかと思います。芸をやってお金を稼ぐことに一生懸命な人でしたから、少しぐらい具合が悪くても医者にかかろうとしなかったのかもしれません。私がアヴィニヨンを去る前に、キムさん、来年もここで会えるかと聞くと、タロー、今年がこれだったろ、来年からはアヴィニヨンはよそうと思うよという返事でした。そうは言っても、キムさんはアヴィニヨンが好きなのだ、来年もここで一緒にこうしているに違いないと思いました。

そして、キムさんが死んだ、「キムは終わった(Kim est terminé)」ということを、私たちが今年アヴィニヨンに降り立った、その場で、たまたま出会った地元の大道芸ファンの一人から聞かされ、びっくりしました。キムさんはもう本当にアヴィニヨンには来なかったのです。今年二月に病気で死んだのだそうです。キムはもう来てるか? と私が聞くと、そういう返事が返ってきました。

いつも通りなら、キムさんと私の二人だけは、フェスティバルの始まる一週間前にはアヴィニヨンに乗り込んで、これに地元の芸人ジャックを加え、一足お先に三人だけで「OUTのフェスティバル」を始めていたところです。

街はまだ静かで中世の空気を宿し、宣伝隊の喧騒も、当局からの妨害も、芸人同士の食い合いもありません。ピッという、キムさんの最初の笛の合図が鳴り渡ります。「OUTのフェスティバル」が始まったニュースが、街の人々や観光客たちの間に静かに伝わっていきます。日を追って少しずつ、この小さなお祭りに足を運ぶ人たちの数が増えていきます。

フェスティバルの二日前ぐらいになると、フェスティバルの職員や市警察がやってきて、フェスティバルが始まったらここでやってはダメだ、あるいは何時までに演技を切りあげろ、というような諸注意をして帰ります。この頃までには私たちの戦闘態勢はほぼ整っています。毎日のようにOUTのお祭りに足を運んでくれる、私たちの「ファン」ができかかっています。評判を、聞きつけてやってくるひともいます。こうしていよいよフェスティバルに突入します。

最初の二、三日が正念場です。フェスティバルの職員や市警察との押し問答に、私たちOUTの観客動員力がものを言います。いくら止めても、そこに、私たちの芸を見たいと待ち構えている人たちがいるのです。私たちは最初の規定以上の時間幅と場所を獲得します。こういうところは、フランスの警官やお役人は比較的柔軟に対応してくれます。この頃にはアリシア、ファンファンなどもアヴィニヨンに到着して、私たちの戦列に加わります。頼もしい仲間たちです。

と同時に、劇場でなく、私たちと同じ広場で、野外劇をやろうとする劇団などもやってきます。私たちの戦いは新たな局面を迎えます。彼らは同じOUTでも、私たちとは感覚が違います。大がかりで騒々しい実験的なスペクタクルを、自分たちの採算も無視し、他のそこで食っていかなければならないOUTの大道芸人たちの都合もおかまいなしに、延々とやることもあります。これはいわばアマチュア大道芸で、かえってやっかいなのです。今度はアリシアが先頭に立ち、これらの劇団と時間や場所の交渉をします。こうして私たちの獲得した時間と場所に、ファンファンがたいまつを高くかざして、私たちの観客を引率してきます。この頃にはもう、キムさんは私たちの群れから離れ始め、一人ぼっちになり始めています。ジャックが時々、駄々をこねます。

新しい問題が毎日のように起こってきます。新しくやって来たグループの野外劇が、毎晩のようにパトカー沙汰、消防車沙汰になります。わざわざそうなることを狙っているとしか思えません。ポーランドからきたグループです。一週間もこれが続くと警察の方も強硬になってきます。そして、面倒臭くもなってきます。このグループと私たちとを、一緒くたにして掃除してしまおうとします。皆がとばっちりを食うのです。

それにしても、フランスの警官には可笑しなところがあって、このあいだは一〇人がかりで私たちを追い散らしにかかったかと思うと、今日はのんびり二人連れでやって来て、あんたの芸はtrès bien〔トレ ビヤン〕だ! と言って帰ったりします。警官が私たちの芸を見るときには、一般客から一歩引いて、人垣の後ろからつまだち、のぞき込むようにして見ています。そしてにこにこ笑って見ている時でも、両足をきちんと三〇センチ間隔に開き、「休め」の姿勢をとっているのです。

問題が毎日のように起こります。仲間割れもあります。雨も降ります。アヴィニヨンには雹も降ります。時々激しいミストラルが吹いて、私たちの観客を散らします。こうして二五日間、私たちはここで闘い抜きます。これが私の「アヴィニヨン」です。

キムさんの話に戻ります。今年はキムさんが来なかったので、私たちの「OUTのフェスティバル」の開幕を、ジャックと二人ぼっちで迎えることになりました。地元の人たちも、わざわざ口には出さなくても、「今年からはキムがいない」という事実を深く受け止めているようです。

今年から私のアヴィニヨンでのレパートリーには、笛を使ってお客さん五人に演技をさせる「オリンピック」という作品が加わりました。もちろん、キムさんの芸の一部をとって自分流にしたものです。実は、一昨年に一、二度アヴィニヨンでやってキムさんからクレームがつき、お蔵入りになっていたものです。これを今年初めてやった時、ピッという最初の笛の合図で観客の一部がわっとわきました。この人たちは皆、私の芸を楽しんで見ている時でも同時に、「今年からはキムがいない」というさびしさを、どこかで感じていたのです。そして、キムがいなくなったとたんにキムの芸を盗んでやりだしたしたたかな【「したたかな」に傍点】芸人の登場を、どこか喜んでくれているのです。

キムさんは、毎年夏一〇年間、アヴィニヨンに通いつめた人でした。私が知っているのは最後の三年だけですが、実際、キムさんのピッピッという笛の音の聞こえてこないアヴィニヨンの街は、何ともさびしげです。人出でにぎわう街全体が喪に服しているように見えます。その感は日を追って深くなっていきます。

キムさんの死は新聞で大きく報じられたそうです。またたいへんなお金持ちだったと聞きますが、キムさんも私たちと同じように、キャンプ場にテントを張って寝泊りしていました。一日の仕事を終えた帰り道、去年までキムさんがテントを張っていたキャンプ場のそばを通る時などに、私たちの間でキムさんのことが口に登らない日はありません。キムさんが訪ねて来た恋人と、夜中にテントのそばで静かに抱き合っていた姿などを思い出します。

私はキムさんの生い立ちも経歴もよくは知りませんが、一人の大道芸人として、等身大の人生を、生き抜いた人のように思います。小心かつしたたかに、生き抜いた人だと思います。

いや、キムは生きている、こいつは、いつか出てきて皆を驚かすための大がかりなデマだ! そんな冗談を言う人もいます。そんな冗談を言いながら、キムさんがまだ生きていることを、どこか本当に願っているのです。キムは空の上からフェスティバルの開幕をのぞき見している、そんな新聞記事が出たと聞きます。

もしかしたら、キムさんは本当にまだ生きていて、今も街のあちこちで、今度こそ誰にも気づかれないように、私たちの後をつけて歩きまわっているのじゃないか、そんな想像をしてしまいます。暗い夜道を帰る時には、もの陰からキムさんが、

「タロー、俺が生きていることは、皆には内緒にしておいてくれよ」

いつそう言われるか分からない、そんな想像をしてしまうのです。

アヴィニヨンにて

一九九三年七月三〇日 雪竹太郎


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https://note.com/tarafu/n/n6db2a3425e5c

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