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大道芸人宣言 一九九三~二〇〇三 ④/五分割

大道芸人・雪竹(ゆきたけ)太郎(たろう)

3「大道芸」の展望、課題

ヨーロッパでは昔、糞尿やゴミや死体を処理する仕事に携わる人たちは皆、都市の城壁の外に住み、城壁の中に住む人たちより、より「神々」に近い人間と見なされていたそうです。これらの人たちは、暴風雨や戦争、強盗など、非日常的な危険に曝されやすい「国境」の外に住み、しかも「国境」の中の日常生活の秩序を脇から支える仕事をしていたために、たいへんに畏れ、敬われていたのです。犯罪人を始末する刑吏などもそうです。これらの仕事は皆、日常生活の秩序からこぼれ落ちたもの、はみ出してしまったもの、皆の目からはかくれてしまったものを相手にする仕事です。罪、汚れ、病、死などと面と向き合っていく仕事です。医者や聖職者、また娼婦等の仕事もこれと関係がありそうです。

さらに、大雑把に言えば、私たち芸術家もこの部類に属します。世界の各地を転々としながら、「国境」の中の「小宇宙」に閉じこもっていたのでは知ることのない「大宇宙」のさまざまな文物や音楽を、運び歩いていたのです。

行商人(路上商)もそうです。ここアヴィニヨンや東京で大道芸をやっていると、アクセサリー売りなど路上商の顔見知りが多くなるのですが、そういえば、彼らの多くは余所者(外国人)ですし、日本人の路上商が中東あたりに買付けに行く話を聞いたこともあります。

こういう「国境」の外を流れ歩くものたちと、ジプシーとは、深い関係にありました。「国境」を追われた犯罪人(政治犯)がジプシーの群れにかくまわれ、長い年月を共にすることもあったそうです。ドイツの強制収容所でユダヤ人、ポーランド人に次いで多く虐殺されたのは、このジプシーたちでした。

中世に話を戻します。ある都市でお祭りや結婚式等「特別なこと」が催される時には、私達芸術家が招き入れられました。私たちの方も健全な日常生活を営む都市がなければやっていけない、いわば持ちつ持たれつの関係です。ところが、戦争やペストの流行、政変などで都市に「機能障害」が起きれば、都市はその門を閉ざすことがあります。その時、私達はその門をこじ開けることはできません。私たちを受け入れてくれる別の都市を探して、旅に出なくてはなりません。

こうして幾時代が過ぎ、各都市を束ねる中央集権国家が現われ、国土の隅々までをくまなく管理するようになっていく過程で、これら「神々」に近い者たちは行き場を失い、「河原乞食」と見なされるようになっていったわけです。同時に、スポンサーがつくなどの形で「市民社会」に帰順した「芸術家」が、「河原乞食」を差別したり、排除したりし始めます。

現在の私たちの立場を考える時に、これはとりあえず例え話にすぎません。私は日本国籍を持ち、日本の社会に帰属している芸術家ですので、日本の文化のあり方、社会のあり方について意見する権利があると思います。また、しなくてはいけないと思います。

一九九〇年夏、米マサチューセッツ州ケンブリッジ市の大道芸人組合は、自分たちの仕事場を守るために独自の大道芸祭を開き、署名集めをし、市議会にデモをかけ、ケンブリッジ市の大道芸文化を守り抜きました。そういう積極的な戦いがあってはじめて、私のような日本人大道芸人もそこに入っていけるのです。彼らは自分たちが守っている仕事場を、私たちよそ者にも開かれたものにしてくれています。一緒に戦おうと、署名を求めてもくれました。こういう海外の仲間のためにも、日本の社会が大道芸に対し本当に開かれたものとなるよう、できる限りの努力はしようと思います。

ただし、日本の社会が大道芸に対し不寛容だからといって、その扉をこじ開けて中に入ることは、慎もうと思います。すき間があればもぐりこんでいって、ひっそりと、しかししたたかにやっていくつもりです。

また、例えば私は静岡市民ではありません。静岡市の大道芸の受け入れ方に何か不満があっても、最終的には私がとやかく言うことではないと考えます。静岡市民の皆さんが自覚的に改善の努力をしていくべきことです。野毛、その他の街の大道芸の受け入れ方に対しても、基本的には同じことが言えます。私たちはどうしても、無責任なよそ者、流れ者の一面を持っているのです。地元の文化を愛し、地元の文化に責任を持つ方々が用意してくださった土俵の上でやっていくしかないのです。

さらに、今、新たに生まれ変わろうとしている日本の大道芸文化がどのようなものになろうと、結局は、その「枠」の中でやっていくしかないのだろうと思います。どうしてもそれが私の性に合わなければ、迷わず「国境」の外に出ていこうと思います。

色んな思いを抱いて、今年一月、南半球の都市シドニーを初めて訪れました。この時、シドニー在住のある大道芸人が、私のことを聞きつけ、さっそく仕事場を訪ねてくれました。「俺を憶えているか」と言います。勿論、憶えています。三年前、フランス・シャーロンの大道芸祭で、互いに向かい合わせて芸をして客の奪い合いをした二人組の、一人です。この時は私が負けてしまいましたが、翌日、彼は私の仕事を、一観客として見に来てくれました。そのあと彼とはアヴィニヨンでまた一緒になり、彼は、アヴィニヨンはひどい(terrible)! という言葉を残して退散してしまいました。ニュージーランド出身という彼の、羊のような風貌と、低く腹のすわった声が、長く私の印象に留まりました。

このDOMが訪ねてきて、シドニーが初めての私に、シドニーの大道芸事情について、いろいろと指南をしてくれました。シドニーのどことどこで大道芸がやれるが、おまえの芸はどこそこの劇場の前が合うと思う。土曜日はどこそこがいい、おれもそこにいる。どこそこで芸をやるにはライセンスがいる、ライセンスを取るにはここに電話しろ、等々。この翌日にほもうひとりのANDYが訪ねてきて、ライセンスが取れなければ俺が掛け合ってやると言って名刺を置いていきました。国境を渡り歩く大道芸人たちの間には、やはり一種の連帯意識、相互扶助の原則のようなものがあるのです。単に顔見知りだから、友達だからではないのです。コールド・コーストの大道芸ライセンスの取り方を教えてくれたのは初対面の芸人でした。

また、地元に根を降ろす芸人の場合でも、国境の外にも出ていく芸人たちと同じ土俵でやっていくため、国際的感覚を身につけています。ケンブリッジ市の大道芸人組合を指導していた女性が、そのように見受けられました。

ひるがえってわが日本の場合を考えると、私の地元東京には、海外の仲間に安心して紹介できるような大道芸広場がありません。たとえ一つ二つあったにしても、数少ない場所にかち合う大道芸人の数がまた一人、二人と増えてしまうわけで、これを紹介する時には自分で自分の首を絞める覚悟がいります。つまり、〈社会が大道芸に対して不寛容であるとき、大道芸人同士の連帯や相互扶助は難しくなる〉のです。なわばり意識や秘密主義が発生するのです。芸人が芸人を警察に密告して取り締まらせるという話も聞きます。

さらに、こういうところに海外からしたたかな芸人が飛び込んで来た時、数少ないよい場所を見つけると、地元の芸人たちの都合もおかまいなしにやりたい放題、警察沙汰が起きたらさっさと退散するというようなことも、今までなかったとは言えません。あとのとばっちりの方は、地元の芸人が引き受けなければなりません。海外の芸人に対する排他的な発言が出てきたりもします。こうなる前に、私たち日本人大道芸人にも海外の大道芸人たちのような交渉の心得があれば、日本の大道芸事情にも配慮をしたやり方をしてもらうようにできたかもしれません。

実際、〈大道芸に対して寛容でない社会で大道芸をやっていく時には、それ相応の配慮も必要です〉。例えば、東京で私が一番大切にしている広場は人通りも多く、キャパシティーがあり、うまく芸をまとめるとお金にもなります。警官の言い分は別にして、通行妨害にもなりません。あるいは難なく迂回路を確保できます。大道芸広場としては格好の場所なのです。ところがこのすぐ近くに交番があり、また地元の企業がどうやら大道芸に対して好意的でないらしく、ここを存分に利用することはできません。私は月に一、二度だけ、場合によっては、「任意同行」と「始末書」を覚悟でやることにしています。そして、ここだけではとても食っていけないので、もう一つ、より頻繁に活動する場所があります。

ここは交番からは死角にあたり、人通りも多いのですが、残念ながらあまり広くありません。早い時間にやると人だかりが大きくなり過ぎ、一般歩行者の通行の妨げになるなど、大道芸広場としては欠陥をもっています。ですから、私はここではたいてい夜一〇時、一一時、あるいは一二時近くに、正味二〇分ほどの芸を、一日に一回だけやることにしています。歩行者の通路を確保するために度々演技を中断し、お客さんたちを整理し直さなければならないこともあります。これが結構、大変です。皆さんなかなかすんなりとは言うことを聞いて下さいません。

「大道芸人」が恐ろしいのか、珍しいのか、遠巻きに中途半端に立ち止まられるのが一番困ります。変なところに人垣ができてしまうのです。この場合は、寄るか去るかに決めていただきたいのです。通行に困難が生じると、目の不自由な方が私の舞台を横切るようなことも起こり得ます。それに私が気づかないこともあるでしょう。そういう時、気づかれた皆さんが気をきかせてくださると助かります。〈大道芸に対して寛容でない社会では、見て楽しむ側の配慮も大切だと思います〉。

十分配慮をしたつもりでもなお、苦情を言ってくる人はいます。こういう人は当然、大道芸に対して好意的でなくなります。残念なことです。これらは皆、大道芸に適した広場が大道芸に対して開かれていないために起きることなのです。こうして、〈大道芸に対し寛容でない社会では、大道芸人の社会に対するモラルのようなものも怪しくなってくる。すると社会の大道芸に対する目もますます厳しくなってしまう〉のです。

夜遅くに二〇分だけの芸をするために、夕方六時台に現場に到着しなければならないこともあります。でないと、他の外国人音楽家が先に来ていて、たった二〇分の時間を譲ってもらえないこともあるのです。喧嘩口論などのトラブルも起こります。しかし最近では、少し遅れて行っても、一時間半後にやらせてくれ、など交渉をするよう心がけています。彼らの方も私の芸を見知るようになり、私が約束通りの時間に撤収することを知ると安心して、私のために、と休憩をとってくれるようになりました。音楽家同士の間でも、かち合った者同士、時間を決めてやるようになってきたと見受けます。私が見たところが正しいとするなら、ここには一種のルール〔モラル〕の芽生えがあるのです。

しかし、私がこの旅の四カ月間のブランクの後にこの現場に立ち戻った時、警察の一斉取り締まりなど、何らかの事情で芸人の顔触れが全部入れ替わっているとしたら、また一から始めなければなりません。〈大道芸に対し寛容でない社会では、大道芸人同士の間に自発的なルールが成立しにくい〉と申し添えておきます。

一昨年、アムステルダムを訪れた際、現地の芸人からそこでのルールの説明を受けました。この広場には二カ所、同時進行で芸をやれる空間を設定してある。早く来た者から順に、一回三〇分見当で芸をやる、三〇分のセットに芸を収めきれない場合には、この広場でなく、この先の電車通りの方でやる……。

アムステルダムは大道芸地図の上では英語圏です。観光地ですから、商店の売り子、ホテルの従業員、そして大道芸の口上も英語になります。英語を武器とする英米加豪等の芸人がヨーロッパ大陸で最初に上陸するのは、ここが多いのだろうと思います。ヨーロッパ大陸の大道芸文化と英語圏の大道芸文化の接点の役割を果たしているのかもしれません。それで、色んな大道芸人が行き交うここでは、早くからこのようなルールが生まれたのかと推察されます。

大道芸人たちの間にこのようなしっかりとしたルールがあること、しかし一番感心したのは、「このルールは法律ではない、自分たちで勝手に取り決めたことだ、このルールを守らなくても君を罰しはしない、君がこのルールを尊重してくれることを期待するのみだ」、そして「自分たちは警察官ではない」という結びの文句でした。ここに私は、ヨーロッパの大道芸人のモラルの高さを見た気がしました。

それでも、この夜遅くにやっと私の番がきたとき、当地の若い二人組が、まだ押しのきかない私の順番に割り込んできて、延々と芸をやって帰るということがありました。芸の良し悪しとモラルの高さとは、何か関係があるのかも知れません。この日、私にアムステルダムの大道芸人たちの間のルールを教えてくれたのが、後に野毛で再会し、静岡で「ワールドカップ」を共に戦い、高い人気を博すことになるフライング・ダッチマンの一人だったのです。

実は、このフライング・ダッチマンが、先日二日間だけアヴィニヨンに立ち寄りました。アヴィニヨンは初めてだそうです。二組同時に、はす向かい合わせで芸をして、客の奪い合い、「金の奪い合い」をしました。これが本当のコンペティション(real competition)です。私たちのコンペティションに審査員は必要ありません。結果、私が負けはしませんでしたが、六—四でフライング・ダッチマンに分があるようでした。しかし、相手は二人組です。頭数で割れば私の勝ち、といったところです。

日本にのびのびと大道芸のできる広場や散歩道のできることを、私は願っています。響きの良い地下道や街角が音楽家たちのために開放されることを願っています。しかし、本当は、そこから先が長いのだろうと思います。

大道芸をやる人、大道芸人を名乗る人の数は急速に増えるでしょう。しかし、そのために、私たちがこれまで十分な闘いを積んできたのでしょうか?そうではなくて、それは別の第三者の別な思惑、「企画」によって生まれた、根の浅いものなのではないでしょうか? 私たちはまだ十分に闘い、訓練されてはいないのです。

そういう私たちが、人から与えられた自由を本当に自らのものとして、大切に守っていけるでしょうか?

大道芸人同士の本当の連帯意識がそこで育つでしょうか?

外国人大道芸人たちと仲良くやっていけるでしょうか? あるいは、外国人大道芸人たちと格式のある喧嘩ができるでしょうか?

私たちの間にしなやかなルールが芽生えるでしょうか?

さらに、大道芸人たちの社会に対するモラルは、そこで保てるでしょうか?

本当に人々の生活に根づいた大道芸文化が、そこに生まれるでしょうか? 等々、考えればきりがありません。

毎年、夏の旅を終え帰途に着くときには、ホッとすると同時に、東京の街はどうなっているだろうか、また一段と取り締まりが厳しくなっているのではないか、この秋、冬、春をなんとかくぐり抜け、生き延びていけるだろうか、そして、来年もまた無事ニューヨークに向け旅立てるだろうか等々、憂鬱な思いが伴います。私はいま三四歳で、まだ長い人生を大道芸人としてやっていかねばなりません。いつか希望に満ち、意欲に満ちて、我が地元「日本」ヘの帰途に着けるような日のくることを、願ってやみません。

《大道芸人宣言 一九九三~二〇〇三 ⑤/五分割》に続く。

《大道人宣言 オリジナル 1993年夏⑩/十一分割》に繋げる。
https://note.com/tarafu/n/n193c4decdf0a

《大道芸人雪竹太郎文庫》目次、に戻る。
https://note.com/tarafu/n/n6db2a3425e5c

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大道芸人・雪竹(ゆきたけ)太郎(たろう)
1959年1月、福岡生。83年秋より、東京及び近郊の路上で大道芸活動を開始。88年夏以降、先ずアメリカ、次いでヨーロッパ、さらにその他、海外の諸都市の路上でも活動。90年7月、フランス、シャーロン・スュル・ソーヌの大道芸人祭にて、最優秀外国作品賞(賞金なし)を受賞。他受賞歴若干。