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福翁自伝 8. 攘夷論

攘夷論の鋒先洋学者に向う

井伊掃部頭(いいかもんのかみ)は、この前殺されて、今度は老中の安藤対馬守(あんどうつしまのかみ)が浪人に疵(きず)を付けられました。その乱暴者の一人が、長州の屋敷に駈け込んだとか何とかいう話を聞いて、私はその時、初めて心付きました。なるほど、長州藩もやはり攘夷の仲間に入っているのかと、こう思ったことがります。兎(と)にも角(かく)にも、日本国中、攘夷の真っ盛りで、どうにも手の付けようがないのです。ところで、私の身にしてみると、これまでは世間に攘夷論があるというだけの事で、自分の身について危ういことは覚えませんでした。大阪の塾にいる中に、もちろん暗殺などということのあろうはずはありません。また、江戸に出て来たからといって怖い敵もなければ、何でもないとばかり思っていたところが、サア今度は欧羅巴(ヨーロッパ)から帰って来たその上は、なかなかそうではありません。段々と喧(やかま)しくなって、外国貿易をする商人が、にわかに店を片付けてしまうなどというような事で、浪人と名づくる者が盛んに出て来て、どこにいて何をしているのか分かりません。丁度、今の壮士(そうし)というようなもので、ヒョコヒョコと妙なところから出てきます。外国の貿易をする商人さえ店をしまうというのでありますから、まして外国の書を読んで欧羅巴(ヨーロッパ)の制度文物をそれこれと論ずるような者は、どうもあいつは不埒(ふらち)な奴じゃ、畢竟(ひっきょう)、あいつらは嘘をついて世の中を瞞着(まんちゃく)する売国奴(ばいこくど)だ、というような評判がソロソロ行われて来て、ソレから浪士の鋒先(ほこさき)が洋学者の方に向いて来ました。これは誠に恐入(おそれい)った話で、何も私共は罪を犯した覚えはないのです。これはマア、どこまで小さくなれば免れるかというと、いくら小さくなっても免れることはできません。到頭(とうとう)終いには、洋書を読むことをやめてしまって攘夷論でも唱えたらば、ソレはでお詫(わび)が済むだろうが、マサカそんな事も出来ません。こっちが無頓着(むとんじゃく)に思う事をやろうとすれば、浪人共は段々きつくなってきます。既に、私共と同様、幕府に雇われている飜訳方(ほんやくがた)の中に手塚律蔵(てづかりつぞう)という人がいて、その男が長州の屋敷に行って何か外国の話をしたら、屋敷の若者等が斬ってしまうというので、手塚はドンドン駈け出す、若者等は刀を抜いて追っかける、手塚は一生懸命に逃げたけれども逃げ切れずに、寒い時だが日比谷外の濠の中へ飛び込んで、漸(ようや)く助かった事もあるとのことでした。それから、同じ長州の藩士で東条礼蔵(とうじょうれいぞう)という人も、やはり私と同僚飜訳方(ほんやくがた)で、小石川のもと蜀山人(しょくさんじん)の住まいという家に住んでいました。ところが、その家に所謂(いわゆる)浮浪の徒が暴れ込んで、東条は裏口から逃げ出して、やっと助かったというようなわけで、いよいよ洋学者の身が甚だ危うくなって来て油断がならなくなりました。だからといって、自分の思うところ、なす仕事はやめられるものじゃありません。それから、私は構わない、構おうといったところが構われもせず、やめようといったところが、やめられるわけでもありません。マアマア、言語挙動を柔らかにして、決して人に逆らわないように、社会の利害というような事はまず気の知れない人には言わないようにして、慎めるだけ自分の身を慎んで、ソレと同時に、私は専(もっぱ)ら著書飜訳の事を始めました。その著訳の一条については、今ココで別段に言う事はありません。私の今年開版(かいはん)した福澤全集緒言(ちょげん)に詳(つまび)らかに書いてありますから、これは見合わせるとして、その著訳事業中、すなわち攘夷論全盛の時代に洋学生徒の数は次第々々に増えるから、その教授法に力を尽くし、また家の暮らしは幕府に雇われて扶持米(ふちまい)をもらって、ソレで結構暮らせるから、世間の事には頓(とん)と頓着(とんじゃく)せず、怖い半分、面白い半分に歳月(としつき)を送っていました。

あるとき、可笑(おか)しい事がありました。私が`新銭座にちょっと住んでいた時(新銭座塾に非(あら)ず)、どなたか知らないが御目に掛かりたいといってお侍(さむらい)が参りました、と下女が取次ぎするから、

「ドンナ人だと。」聞くと、

「大きな人で、眼が片眼(かため)で、長い刀を挟(さ)しています。」というから、

「コリャ物騒な奴だ。名は何という。」

「名はお尋ね申したが、お目に掛かれば分かる、と言っておっしゃいません。」

どうも気味の悪い奴だと思って、それから私はそっと覗いて見ると、何でもない、筑前の医学生で原田水山(はらだすいざん)で、緒方の塾に一緒にいた親友だ。思わず罵(ののし)った。

「この馬鹿野郎、貴様は何だ、なぜ名を言ってくれんか。乃公(おれ)は怖くて堪らなかった。」

と言って、奥に通して色々世間話をして、共々に大笑いした事がありました。そういう世の中で、洋学者もつまらぬ事に驚かされていました。

英艦来る

それから、攘夷論というものは次第々々に増長して、徳川将軍家茂(いえもち)公の上洛となり、続いて御親発(ごしんぱつ)として長州征伐に出掛けるというような事になって、全く攘夷一偏の世の中となりました。ソコで、文久三年の春、英吉利(イギリス)の軍艦が来て、

「去年生麦にて日本の薩摩の侍(さむらい)が英人を殺したその罪は、全く日本政府にある。英人は、ただ懇親(こんしん)をもって交ろうと思って、これまでも、あらん限り柔らかな手段ばかりをとっていた。しかるに日本の国民が乱暴をして剰(あまつさ)え人を殺した。いかにしても、その責めは日本政府にあって、免れるべからざる罪であるから、この後二十日を期して決答せよ。」

という次第は、政府から十万磅(ポンド)の償金を取り、尚(なお)、二万五千磅(ポンド)は薩摩の大名から取り、その上、罪人を召捕(めしと)って、眼の前で刑に処せよとの要求。その手紙が来たのがその年の二月十九日で、長々とした公使の公文(こうぶん)が来ました。その時に私共が飜訳(ほんやく)する役目に当たっているので、夜中に呼びに来て、赤坂に住んでいる外国奉行、松平石見守(まつだいらいわみのかみ)の宅に行ったのが、私と杉田玄端(すぎたげんたん)、高畑五郎(たかばたけごろう)、その三人で出掛けて行って、夜の明けるまで飜訳したが、これはマアどうなる事だろうか、大変な事だとひそかに心配したところが、その翌々二十一日には将軍が危急存亡(ききゅうそんぼう)の大事を眼前(がんぜん)に見ながら、それを棄てておいて上洛してしまった。そうすると、サア二十日の期限がチャント来てしまった。十九日に手紙が来たのだから、丁度翌月十日、ところが、もう二十日待ってくれ、ソレは待つの、待たないのと捫着(もんちゃく)の末、どうやら、こうやら、待って貰うことになりました。ところで、いよいよ償金を払うか、払わないか、という幕府の評議がなかなか決っしないのです。その時の騒動というものは、江戸市中そりゃモウ今に戦争が始まるに違いない、何日に戦争があるなどという評判で、その二十日の期間も既に過ぎ去って、また十日ということになって、始終十日と二十日の期限をもって次第々々に返辞(へんじ)を延ばして行きました。私はその時に新銭座に住んでいたから、とてもこりゃ戦争になりそうだ。なればどうも逃げるよりほかにしようがないと、ソロソロ逃げ仕度をするというような事で、ソコで、いよいよ期日も差し迫って、今度はもう掛値なしに一日も負からないという日になった、というのを私は政府の飜訳局にいて詳(つまびら)かに知っているから、なお堪りませんでした。

仏国公使無法に威張る

その飜訳をする間に、時の仏蘭西(フランス)のミニストル・ベレクルという者が、どういう気前だか知らないが、大層な手紙を政府に出して、今度の事について仏蘭西(フランス)は全く英吉利(イギリス)と同説だ。愈(いよ)よ戦端(せんたん)を開く時には、英国と共々に軍艦をもって品川沖を暴れまわると、乱暴な事を言ってきました。誠に謂(いわ)れのない話で、まるで、その趣きは今の西洋諸国の政府が支那人(しなじん)を脅すのと同じ事で、政府はただ英仏人の剣幕を見て心配するばかりでした。私にはよくその事情が分かわかりました。分かれば分かるほど気味が悪かったのです。

事態いよいよ迫る

これは、いよいよやるに違いないと鑑定(かんてい)して、内の方の政府を見れば、いつまでも説が決しないのです。事が喧しくなれば、閣老は皆、病気と称して出仕する者がないから、政府の中心はどこにあるか、わけが分からず、ただ役人達が思い思いに小田原評議のグヅグヅで、いよいよ期日が明後日というような日になって、サア荷物を片付けなければならぬとなりました。今でも私のところに疵(きず)の付いた箪笥(たんす)があります。愈(いよ)よ荷物を片付けようというので、箪笥(たんす)を細引(ほそびき)で縛って、青山の方へ持って行けば大丈夫だろう、何もただの人間を害する気遣いはないからというので、青山の穏田(おんでん)という所に呉黄石(くれこうせき)という芸州(げいしゅう)の医者がいて、その人は箕作の親類で、私は兼ねてから知っているから、呉(くれ)のところに行って、どうか暫くここに立退場(たちのきば)を頼むと相談も調(ととの)い、愈(いよ)よ、青山の方と思って荷物は一切拵(こしら)えて、名札を付けて担ぎ出すばかりにして、そうして新銭座の海浜にある江川の調練場に行って見れば、大砲の口を海の方に向けて撃つような構えにしてありました。これは、今明日(こんみょうにち)の中にいよいよ事は始まると覚悟を定めました。その前に、幕府から布令(ふれ)が出ていました。愈(いよいよ)、兵端(へいたん)を開く時には浜御殿(はまごてん)、今の延遼館(えんりょうかん)で、火矢(ひや)を挙げるから、ソレを合図にに用意致せという市中に布令が出ました。江戸ッ子は口の悪いもので、

「瓢箪(ひょうたん)(兵端)の開け初めは冷(火矢)でやる」

と川柳がありましが、これでも時の事情は分かります。

米と味噌と大失策

それから、また可笑(おか)しい事がありました。私の考えでは、これは何でも戦争になるに違いないから、マア米を買おうと思って、出入りの米屋に申し付けて米を三十俵買って米屋に預け、仙台味噌を一樽買って納屋(ものおき)に入れておきました。ところが、期日が切迫するに従って、切迫すればするほど役に立たないものは米と味噌なのです。その三十俵の米をどうするといったところが、担いで行かれるものでもなければ、味噌樽を背負って駈けることもできません。これは可笑しい。昔は戦争のとき米と味噌があればいいと言いましたが、戦争の時ぐらい米と味噌の邪魔になるものはないのです。これはマア逃げる時はこの米と味噌樽は棄てていくよりほかはないといって、その騒動の真っ盛りに大笑いをもよおした事があります。その時にも新銭座の家に学生が幾人かいて、私はその時二分金(にぶきん)で百両か百五十両持っていたから、この金をひとりで持っていてもしようがない。イザとなれば、誰がどこにどう行くか分らないのです。金があればまず餒(かつ)えることはないから、この金は私が一人で持っているよりか、家内が一人で持っているよりか、これは銘々(めいめい)に分けて持つのが良かろうというので、その金を四つか五つに分けて、頭割りにして銘々ソレを腰に巻いて行こうと、用意金の分配まで出来て、明日か明後日は愈(いよいよ)戦争の始まり、ほかに道はないと覚悟したところが、ここに幸いな事がおこりました。その時に唐津の殿様で小笠原壹岐守(おがさわらいきのかみ)という閣老がいました。それから、横浜に浅野備前守(あさのびぜんのかみ)という奉行がいました。

小笠原壱岐守

ソレらの人が極秘密に言い合わせた事と見えて、五月の初旬、十日前後だったと思いますが、いよいよ今日という日に、前日まで大病だと言って寝ていた小笠原壹岐守(おがさわらいきのかみ)がヒョイとその朝起きて、日本の軍艦に乗って品川沖を出て行きました。スルト、英吉利(イギリス)の砲艦(ガンボート)が壹岐守の船の尻に尾(つ)いて走るというのは、壹岐守は上方(かみがた)に行くと言って品川湾を出発したから、もし本当にその方針を取って本牧(ほんもく)の鼻を廻れば英人は後から砲撃するはずであったということです。ところが、壹岐守は本牧を廻らずに横浜の方へ入って、自分の独断で即刻に償金を払ってしまいました。十万磅(ポンド)を時の相場にすればメキシコ弗(ドル)で四十万になるその正銀(しょうぎん)を、英公使セント・ジョン・ニールに渡して、まず一段落を終りました。

鹿児島湾の戦争

幕府に要求した十万磅(ポンド)の償金は、五月十日に片付けて、それから今度は、その英軍艦が鹿児島に行って、被害者遺族の手当として二万五千磅(ポンド)を要求し、且(か)つ、その罪人を英国人の見ている所で死刑に処せよという掛合のために、六艘の軍艦は鹿児島湾にまわって錨(いかり)を下ろしました。スルト、薩摩藩から直ちに来意訪問の使者が来ました。英の旗艦(きかん)の水師提督クーパー、司令長官はウィルモット、船長はジヨスリングという人で、書翰(しょかん)を薩摩の役人に渡し、応否の返答如何(いかん)と待っていました。ところが、なかなか容易な事に返事がきません。ソレコレするうちに薩摩に西洋形の船、すなわち、西洋から薩摩藩が買い取った船が二艘あり、その二艘の船を談判の抵当に取るという趣旨で、桜島の側に碇泊(ていはく)してあった三艘の船を英の軍艦が引張って来るという手詰めの場合になりました。スルト、陸の方からこの様子を見ていよいよ発砲し始めて、陸から発砲すれば海からも発砲して、ドンドン大合戦になりました。と言うのが、丁度文久三年五月下旬、何でも二十八、九日頃でありました。その時に、英の旗艦はマダ陸からは発砲しないことと思って錨を上げずにいたところが、にわかに陸の方から撃ち始めたものだから、サア錨を上げようとすると、生憎(あいにく)その時は大変な暴風、加えて海が最も深いからドウも錨を上げる(いとま)がないというので、錨の鎖を切って、それから運動するようになりました。これが、例の英吉利(イギリス)の軍艦の錨が薩摩の手に入った由来であります。ソコで陸から打つ鉄砲もなかなかエライのです。もっぱら、旗艦を狙って命中するものも多いその中に、大きな丸い破裂弾がうまく発っして怪我人が出来たうちに、司令長官と甲比丹(カピテン)と二人の将官が即死して船中は騒動でした。また、船から陸に向かっての砲撃もなかなか激しく、海岸の建物は大抵、焼払ってこれも容易ならぬ損害でありましたが、詰まるところ、勝負なしの戦争でした。薩摩のほうは英吉利(イギリス)の軍艦を撃って二人の将官まで殺したけれども、その船をどうすることも出来ないのです。また、軍艦の方でも陸を焼払って随分荒らしたことは荒らしたけれども、上陸することは出来ませんでした。双方、共に勝ちも負けもせずに、英の軍艦が横浜に帰ったのは、六月十日前の頃でありました。その時に面白い話があります。戦争の済んだ後で、その旗艦に命中した破裂弾の砕片を見て、船中の英人らがしきりに語り合うに、

「こんな弾丸が日本で出来るわけはない。イヤ、よく見れば露西亜(ロシア)製のものじゃ。露西亜(ロシア)から日本に送ったのであろう。」

などと、評議区々(まちまち)なりしということでした。当時、クリミヤ戦争の当分ではあったし、元来、英吉利(イギリス)と露西亜(ロシア)との間柄は犬と猿のようで、相互に色々な猜疑心がありました。今日に至るまでも仲は良くないように見えます。

松木、五代、英艦に投ず

それはさておき、ここに薩摩の船を二艘こちらに引っ張って来るという時に、その船長の松木弘安(まつきこうあん、後に寺嶋陶蔵 てらじまとうぞう、また後に宗則 むねのり)、五代才助(ごだいさいすけ、後に五代友厚 ともあつ)の両人が、船奉行という名義の、いわば船長でありました。ソコで、英の軍艦が二艘の船を引張って来ようというその時に、乗込みの水夫などはそこから上陸させたのですが、船長二人だけは英艦の方に投じました。投じたけれども自分の船から出るときに、実は松木と五代と申し談じて、ひそかにその船の火薬車に導火点つけておいたから、間もなく船は二艘とも焼けてしまいました。それはそれとして、さて松木に五代というものは捕虜でもなければ、御客でもないのです。何しろ英の軍艦に乗り込んだ後に、そのまま横浜に行ったのは間違いないのです。その事は、横浜の新聞紙にも出ていたのですが、ソレきり少しも消息が分りませんでした。私はその前年、松木と欧羅巴(ヨーロッパ)に一緒に行ったのみならず、以前から私と箕作(みつくり)と松木とは、甚だ親しい朋友の間柄で、ソコで松木が英船に乗ったというが、どうしたろうかと、ただその噂をするばかりで、尋ねるところもありませんでした。英人が、もしこの両人を薩摩の方へ返せば、ソリャもう若武者共がすぐに殺すに決まっています。さればといいて、これを幕府の方に渡せば、殺さぬまでも、マア嫌疑の筋があるとか、取調べる(かど)があるとかいって、取り敢えず牢には入れたでしょう。ところが、今日まで薩摩に返したという沙汰もなければ、幕府に引渡したという様子もないのです。どうしたろうか、如何(いか)にも不審な事じゃとただ、箕作(みつくり)と私と始終その話をしていました。ところが、およそこの事が済んで一年ばかり経ってから、不意にその松木を見付け出したことこそ不思議の因縁であります。

薩人、英人と談判

松木の話は次にしておいて、横浜に英吉利(イギリス)の軍艦が帰って来た後で、薩摩から談判のために江戸に人が出て来ました。その江戸に出て来た人というのは、岩下佐治右衛門(いわしたさじうえもん)、重野孝之丞(しげのこうのじょう、後に安繹 あんえき)、その外ほかに黒幕みたいな役目を帯びて来たのが大久保市蔵(おおくぼいちぞう、後に利通 としみち)、その三人が出て来たところで、第一番に薩摩の望むところは、兎(と)にも角(かく)にも、この戦争が始まるのを暫く延引(えんいん)してもらいたいという注文なれども、その周旋(しゅうせん)を誰に頼むかという手掛かりもなく、当惑の折柄(おりから)、ここに一人の人が現れました。その一人というのは、清水卯三郎(しみずうさぶろう、瑞穂屋 みずほや卯三郎)という人で、この人は商人ではあるけれども英書も少し読み、西洋の事については至極(しごく)熱心な人でした。まず当時においては、その身分に不似合いな有志者でありました。始め、英艦が薩摩に行こうというときに、もし薩摩の方から日本文の書翰(しょかん)を出されたときには、これを読むのに困ってしまいます。通弁(つうべん)にはアレキサンドル・シーボルトがあるから差し支えないけれども、日本文の書翰(しょかん)を颯々(さっさつ)と読む人がいませんでした。というので、清水が英人から同行を頼まれました。清水は平生(へいぜい)勇気もあり、随分そんな事の好きな人で、それは面白い、行ってみようと容易(たやすく)承諾しました。横浜税関の免状を申し受けて、旗艦(きかん)に乗り込み、先方に着(ちゃく)して親しく戦争をも見物したその縁があるので、今度、薩州の人が江戸に来て英人との談判に付き、黒幕の大久保市蔵(おおくぼいちぞう)は、取り敢えず清本卯三郎(しみずうさぶろう)を頼み、とにかく、この戦争が始まるのを暫く延引(えんいん)して貰いたい、という事を在横浜の英公使ジョン・ニールに掛け合うことにしました。ソコで、清水は大久保の依託を受けて横浜の英公使館に出掛けて、その話を申し込んだところが、取次の者の言うに、

「かかる重大事件を談ずるに、商人などでは不都合なり、モット大きな人が来たらよかろう。」

と言うから、清水はこれを押し返し、

「人に大小軽重はない。談判の委任を受けていれば沢山(たくさんだ)。それでも拙者(せっしゃ)と話は出来ないか。」

と少しく理屈を言ったところが、そういうわけならすぐに会うと言うので、それから公使に面会して、戦争中止の事を話し掛けると、なかなか聞きそうにもないのです。イヤ、もう既に印度洋から軍艦を増発して、何千の兵士がただ今支度最中なのだ。しかるに、この戦争の時期を延ばして待つなどとは、謂(いわ)れのない話だ云々(うんぬん)と、思うさま脅して聞きそうな顔色がないのです。ソコで、清水はその挨拶を承って薩人に報告すると、重野が、

「とてもこりゃ難しそうだ。とにかくに、自分達が自ら談判してみよう。」

と言って、遂に薩英談判会を開き、種々様々問答の末、とうとう要求通りの償金を払う事になりました。高(たか)は二万五千磅(ポンド)で、時の相場にしておよそ七万両ぐらいに当たります。その七万両の金は内実幕府から借用して、そうして島津薩摩守(しまずさつまのかみ)の名義では払われないというので、分家の島津淡路守(あわじのかみ)の名をもって金を渡すことにして、且(か)つ、またリチャルドソンを殺した罪人は何分にも何処かに逃げて分からないから、もし分かったらば死刑にするということでもって事が収まりました。その談判の席には、大久保市蔵(おおくぼいちぞう)は出ませんでした。岩下(いわした)と重野(しげの)の両人、それから幕府の外国方から鵜飼弥市(うかいやいち)、監察方から斎藤金吾(さいとうきんご)という人が立ち会い、いよいよ書面を取り交わして、事のすっかり収まったのが、文久三年の十一月の朔日(ついたち)か二日頃でした。

松木、五代、埼玉郡に潜む

さてそれから、私の気になる松木(まつき)、すなわち寺島(てらしま)の話はこういう次第であります。松木、五代(ごだい)が薩摩の船から英の軍艦に乗り移ったところが、清水がいたので松木も驚きました。清水という男は、以前、江戸にて英書の不審を松木に聞いていたこともある、至極(しごく)懇意(こんい)な間柄で、その清水が英の軍艦にいるから松木が驚くのも無理はないのです。

「イヤ如何(どう)してここに居るか。」

「お前さんは如何(どう)してまた此処(ここ)に来た。」

というような訳(わけ)で、大変好都合でありました。ソコで横浜に来たけれども、このままに何時(いつ)までもこの船の中にいられるものでもないので、マア如何(どう)にかして上陸したいという事で、それを清水卯三郎が一切(いっさい)引き受けました。それは、松木と五代は極々日蔭者(ひかげもの)で、青天白日の身というのは清水一人なわけです。そこで、清水がまず横浜に上がって、それから亜米利加(アメリカ)人のヴエンリートという人にその話をしたところが、どうでも周旋(しゅうせん)しよう。とにかく、艀船(はしけぶね)に乗って神奈川の方に上がる趣向にしよう。その船も何も世話をしてやろうということになりました。ところで、アドミラルがどういうか、ソレを聞いてみなければならぬので、アドミラルにその事を話すと至極寛大で、上陸は差し支えないというので、ソレカラ一切万事、清水とヴエンリートと示し合わせて、落人(おちうど)両人の者は夜分に密かにその艀船(はしけ)に乗り移り、神奈川以東の海岸から上がるつもりに用意したところが、その時には横浜から江戸に来る街道一町か二町目毎に今の巡査交番所みたいなものがずっと建っていて、一人でも径しいものは通行を咎(とが)めるということになっているから、なかなか大小などを挟(さ)して行かれるものでありません。ソコで、大小も陣笠(じんがさ)も一切の物はヴエンリートの家に預けて、まるで船頭か百姓のような風をして、小舟に乗り込み、舟は段々東に下ってとうとう羽根田(はねだ)の浜から上陸しました。ソレカラ道中は、忍び忍んで江戸に入るとしたところで、マダ幕府の探偵が甚だ恐ろしい。ただの宿屋には泊まれないから、江戸に入ったらば堀留(ほりどめ)の鈴木(すずき)という船宿に清水が先に行って待っているから、そこへ来いという約束がしてありました。ソコで両人は、夜中に勝手も知れぬ海浜に上陸して、探り探りに江戸の方に向かって足を進めるうちに夜が明けてしまい、コリャ大変とそれから駕籠(かご)に乗って面(かお)を隠して堀留の船宿に来たのがその翌日の昼でありました。清水は昨夜から待っているので万事の都合よろしく、その船宿に二晩、密かに泊まって、それから清水の故郷武州(ぶしゅう)埼玉郡(ごおり)羽生村(はにゅうむら)まで二人を連れて来ましたが、そこも何だか気味が悪いというので、またその清水(しみず)の親類で奈良村吉田一右衛門(よしだいちえもん)という人がいました。その別荘に移して、ここはごく淋しいところで、見付かるような気遣(きづか)いはないと安心して二人とも収め込んでしまい、五代(ごだい)はその後、五、六ヶ月して密かに長崎の方に行き、松木(まつき)はおよそ一年ばかりもそこにいるうちに、本藩の方でも松木の事を心頭(しんとう)に掛けてその所在を探索し、大久保(おおくぼ)、岩下(いわした)、重野(しげの)を始めとして、江戸の薩州屋敷には肥後七左衛門(ひごしちざえもん)、南部弥八(なんぶやはち)などいう人が様々周旋の末、これは清水卯三郎(うさぶろう)が知っていはしないかと思い付いて、清水のところに尋ねに来ました。ところが、清水はドウも怖くていわれないのです。不意と捕まえられて首を斬られるのではなかろうかと思って真実が吐かれないのです。一応は、ただ知らぬと答えたけれども、薩摩の方では中々疑っている様子でした。そうかと思うと、時としては幕府の方からも清水の家に尋ねに来ます。ソコで清水も当惑して、どうしようとも考えが付かない。殺さないなら早く出してやりたいが、殺すような事なら今まで助けておいたものだから出したくないと、自分の思案に余って、それから江戸の洋学の大家、川本幸民(かわもとこうみん)先生は松木の恩師であるから、この大先生の意見に任せようと思って相談に行ったところが、先生の説に、

「ソリャ出すがよかろう。薩藩人がそう言うなら、ありのままに明かして渡してやるがよかろう。マサカ殺しもしなかろう。」

と言うので、ソコで始めて決断して清水の方から薩人に通知して、実は始めから何もかも自分が世話をした事で、一切を知っている。早速御引渡し申すが、ただ約束は決っして本人を殺さぬように、と念を押して、ソコデ松木(まつき)が初めて薩人に面会して、この時から松木弘安(こうあん)を改めて寺島陶蔵(てらしまとうぞう)と化けたのです。右の一条は薩州の方でも甚だに秘密にして、事実を知っている者は藩中にただ七人しかないと清水が聞いたそうですが、その七人とは多分、大久保(おおくぼ)、岩下(いわした)なぞでしょう。

始めて松木に逢う

その時は既に文久四年となり、四年の何月かドウモ覚えていないのですが、寒い時ではなかったので、夏か秋だと思います。ある日、肥後七左衛門(ひごしちざえもん)が不意(ふい)と私のところに来て、松木がいるが、お前のところに来ても差し支えはないかというのです。私は実に驚きました。去年からモウ気になっていて、箕作(みつくり)と会えばその噂をしていましたが、生きていたか。

「確かに生きている。」
「何処どこに居るか。」
「江戸に居る。兎に角に、此処(ここ)に来てよいか。」
「宜(よ)いとも。大宜(おおよし)だ。何も憚(はばか)ることはない。少しも構わない。すぐに逢いたい。」

と言うと、その翌日に松木が出て来ました。誠に冥土(めいど)の人に会ったような気がして、ソレカラいろいろな話を聞いて、清水と一緒になったということが分かれば、何もかも分かってしまいました。その時、私は新銭座(しんせんざ)にいましたが、マア久振りに飲食を共にして、どこにいるかと聞けば、白銀台町(しろかねだいまち)に曹(そう)某(なにがし)という医者がいて、その家は寺島の内君の里なので、その縁で曹(そう)の家に潜んでいるというのです。その日は、まずそのまま別れて、それから私はすぐに箕作(みつくり)のところに事の次第を言ってやって、箕作(みつくり)もすぐその翌日出て来て、両人同道して白銀(しろかね)の曹(そう)の家に行き、三友団座、昼から晩までいろいろな事を話すその中に、例の麑島(かごしま)戦争の話などもあって、その戦争の事についてはマダマダいろいろ面白い事があるけれども、長くなるからここでこれは省略します。さて、寺島の身の上はどうだと聞くと、薩摩の方は大抵これでよろしいが、マダ幕府の意向が分からない。けれども、これとても別段に幕府の罪人でもないから、そう恐れる事もないわけです。ソコで、寺島は何をして食っているかと聞くと、今は本藩の飜訳(ほんやく)などしているというのです。それこれの話の中に寺島が言うには、モウモウ、鉄砲は嫌だ嫌だ。今でも、乃公(おれ)は鉄砲の音がドーンと鳴ると頭の中がズーンとして来る。モウ嫌だぜ、嫌だぜ。乃公(おれ)は思い出しても身がブルブルッとする。それからまた、その船の火薬庫に導火(みちび)を点けるときは。随分気味の悪い話だった。だが命拾いをしたその時、懐中に金が二十五両あったから、その金を持って上陸したと言いました。いろいろの話の中に英人が薩摩湾に碇泊(ていはく)中、菓物(くだもの)が欲しいというと、薩摩人がこれを進上する風をして、その機に乗じて斬り込もうとして、出来なかったというような種々(しゅじゅ)様々な話がありますが、それはマア止めにして錨(いかり)の話をしましょう。

夢中で錨を還す

その錨(いかり)を切ったということは、清水卯三郎(しみずうさぶろう)が船に乗って見ていたばかりで、薩摩の人は多分知らないのです。ソレカラ、清水が薩摩の人に会って、あの時に英艦の方では、錨を切ったのだから拾いあげておいたらよかろうと言ったところが、薩摩でも余り気にとめなかったと見えて、その錨は何でも漁夫が上げたという話です。ソレで錨は薩摩の手に入ったのですが、二万五千磅(ポンド)の金を渡して和睦(わぼく)をしたその時に、英人が手軽に錨(いかり)を返してもらいたいと言うと、易(やす)い事だといって何とも思わずに古鉄(ふるがね)でも渡すつもりで返してしまった様子ですが、前にも言った通り、戦争の負勝(まけかち)は分からなかったのです。どっちが勝ったでもない、錨(いかり)を切って、将官が二人死んで、水兵は上陸も出来ずに帰ったと言えば、マア負師(まけいくさ)です。それから、また薩摩の方も陸を荒らされていながら、帰って行く船を追っかけて行くこともせず打遣(うちや)っておいたのみならず、戦争の翌朝、英艦から陸に向かって発砲しても陸から応砲もせぬといえば、こりゃ薩摩の負師(まけいくさ)のように当たる。勝ったといえばどちらも勝った。負けたといえばどちらも負けた。つまり、勝負なしとしたところで、何でも錨(いかり)というものは大事な物である。ソレをうかうかと返してしまったというのは、誠に馬鹿げた話だけれども、当時の日本人が国際法ということを知らないのは、マアこの位なものです。加之(しかのみ)ならず、本来今度の生麦事件で英国が一私人殺害のために大層な事を日本政府に言い掛かりをつけて、到頭(とうとう)十二万五千磅(ポンド)取ったというのは理か非か、甚だ疑わしいのです。三十余年前の時節柄とはいえ、吾々(われわれ)日本人は今日に至るまでも不平であります。それから、薩摩から戦の日延べを言い出したその時に、英公使の言い振りが威嚇(おど)したにも威嚇(おど)さぬにも、マア大変な剣幕で、悪く言えば日本人はその威嚇(おど)しを食ったようなものです。必竟、何も知らずに夢中でこの事が終ってしまったのです。今ならば、こんな馬鹿げた事はもちろんないでしょうが、既にその時にも亜米利加(アメリカ)人などは日本政府は払わなければいいと言っていたことがあります。英公使は威嚇(おど)し抜いて、その上に仏蘭西(フランス)のミニストルなどが横合いから出て威張るなんというのは、まるで狂気の沙汰でわけが分からないことです。ソレで事が済んだのは、今更何とも評論のしようがありません。

緒方先生の急病村田蔵六の変態

ところで、京都の方では愈々(いよいよ)五月十日(文久三年)が攘夷の期限だということになっていました。ソレで、和蘭(オランダ)の商船が下ノ関を通ると、下ノ関から鉄砲を打ち掛けました。けれども、幸いに和蘭(オランダ)船は沈みもせずに通ったのですが、ソレがなかなか大騒ぎになって、世の中は益々恐ろしい事になってきました。ところで、その年の六月十日に緒方洪庵先生の不幸がありました。その前から江戸に出て来て下谷(したや)にいた緒方先生が、急病で大層吐血(とけつ)したという急使(きゅうつか)いに、私は実に胆(きも)を潰しました。その二、三日前に先生のところへ行って、チャント様子を知っていたのに、急病とは何事であろうと、取るものも取敢(とりあ)えず、即刻に自宅を駈け出して、その時分には人力車も何もありはしないから、新銭座から下谷(したや)まで駈詰(かけづめ)で緒方の家に飛び込んだところが、もう縡切(ことき)れてしまった後でした。これはマアどうしたらよかろうかと、まるで夢を見たようなわけでした。道の近い門人共は疾(と)く先に来て、後から来る者も多かったです。三十人も五十人も詰め掛けて、ほかに用事もなかったので、今夜はまずお通夜として皆起きていました。ところが、狭い家だから大勢が座るところもないような次第で、その時は恐ろしい暑い時節で、坐敷(ざしき)から玄関から台所まで一杯人が詰めて、私は夜半玄関の敷台(しきだい)の処に腰を掛けていたら、その時に村田蔵六(むらたぞうろく、後に大村益次郎 おおむらますじろう)が私の隣に来ていたから、

「オイ村田君――君はいつ長州から帰って来たか。」

「この間帰った。」

「ドウダエ馬関(ばかん)では大変な事をやったじゃないか。何をするのか気狂い共が、呆(あき)れ返った話じゃないか。」と言うと、村田が眼に角を立て、

「何だと、やったからどうだというのか。」

「どうだッて、この世の中に攘夷なんて、まるで気狂いの沙汰じゃないか。」

「気狂いとは何だ。けしからん事を言うな。長州ではチャント国是(こくぜ)が決まってある。あんな奴原(やつばら)に我儘(わがまま)をされて堪るものか。ことに和蘭(オランダ)の奴が何だ。小さい癖に横風な面(つら)をしている。これを打攘(うちはら)うのは当然だ。モウ防長の士民が、悉(ことごと)く死に尽くしても許しはせぬ。どこまでもやるのだ。」

と言うその剣幕は、以前の村田ではありませんでした。実に、思い掛けない事で、これは変なことだ。妙なことだと思ったから、私は宜加減(いいかげん)に話を結んで、それから箕作(みつくり)のところに来て、大変だ大変だ、村田の剣幕はこれこれの話だ、実に驚いた。というのは、その前に村田が長州に行ったということを聞いて、朋友は皆心配して、あの攘夷の真っ盛りに村田がその中に呼び込まれては身が危い。どうにか径我などなければよいのだがと寄ると触ると噂をしているそこに、本人の村田の話を聞いてみれば今の次第で、実にわけが分かりませんでした。一体、村田は長州に行って、いかにも怖いということを知って、そうして攘夷の仮面を被ってわざとりきんでいるのだろうか、まさか本心からあんな馬鹿を言う気遣いはあるまい。どうもあれの気が知れない。

「そうだ、実に分らない事だ。兎にも角にも、一切あの男の相手にはなるな。下手な事を言うとどんな間違いになるか知れぬから。暫く別ものにしておくがいい。」

と、箕作(みつくり)と私と二人で言い合わして、それからほかの朋友にも、村田は変だ、滅多な事を言うな。何をするか知れないからと気を付けさせました。これがその時の実事談で、今でも不審が晴れません。当時、村田は自身防禦(ぼうぎょ)のために攘夷の仮面を被っていたのか、または長州に行って、どうせ毒を舐めれば皿までというようなわけけで、本当に攘夷主義になったのかは分かりませんが、何しろ私を始め、箕作秋坪(みつくりしゅうへい)、そのほかの者は、一時彼に驚かされてそのままソーッと棄置(すてお)いたことがあります。

外交機密を写取る

文久三年、癸亥(みずのとい)の年は、一番喧しい年で、日本では攘夷をするといい、また英の軍艦は生麦一件についてたいそうな償金を申出して幕府に迫るという、外交の難局といったらば、恐ろしい怖い事でありました。その時に私は幕府の外務省の飜訳局(ほんやくきょく)にいたから、その外国との往復書翰(しょかん)は皆見て悉(ことごと)く知っていました。すなわち、英仏その他の国々からこういう書翰(しょかん)が来て、ソレに対して幕府からこう返辞(へんじ)をやったというようなことです。また、こっちからこういう事を諸外国の公使に掛け合い付けると、あっちからこう返答して来たという次第です。すなわち、外交秘密が明らかに分かっていなければならぬはずなのです。もちろん、その外交秘密の書翰(しょかん)を宅に持って帰ることは出来ません。けれども、役所に出て飜訳するか、あるいはまた外国奉行の宅に行って飜訳するときに、私はちゃんとソレを諳記(あんき)しておいて、宅に帰ってからその大意を書いておきました。例えば、生麦の一件について英の公使から来たその書翰の大意は斯様(かよう)々々、ソレに向かってこっちからこう返辞を遣(つか)わしたというその大意、一切外交上往復した書翰(しょかん)の大意を、宅に帰っては薄葉(うすよう)の罫紙けいしに書き記しておきました。ソレは、勿論(もちろん)ザラに人に見せられるものではありません。ただ、親友間の話の種にする位の事にしておきましたが、随分(ずいぶん)面白いものであります。ところが、私はその書き付けをあるひ不意と焼いてしまいました。

脇屋卯三郎の切腹

焼いてしまったということについて話があります。その時に、何ともいわれぬ恐ろしい事が起きました。と言うのは、神奈川奉行組頭、今でいえば次官というような役で、脇屋卯三郎(わきやうさぶろう)という人がいました。その人は、次官であるから随分身分のある人で、その人の親類が長州にいて、これに手紙をやったところが、その手紙を不意(ふい)と探偵に取られてしまいました。その手紙は、普通の親類にやる手紙であるから何でもない事で、その文句の中に、誠に穏やかならぬ御時節柄(ごじせつがら)で心配の事だ。どうか、明君(めいくん)賢相(けんしょう)が出て来て、何とか始末をしなければならぬ云々(うんぬん)と書いてありました。ソコで、幕府の役人がこの手紙を見て、何々、天下が騒々敷(そうぞうし)い、ドウカ明君が出て始末を付けて貰うようにしたいといえば、これは公方様くぼうさま)を蔑(ないがし)ろにしたものだ。すなわち、公方様(くぼうさま)を無きものにして、明君を欲するという、所謂(いわゆる)謀反人(むほんにん)だという説になって、すぐに脇屋(わきや)を幕府の城中で捕縛(ほばく)してしまいました。丁度、私が城中の外務省に出ていた日で、大変だ、今、脇屋が捕縛(ほばく)されたという中に、縛られてはいないが、同心のような者が付いて脇屋(わきや)と廊下を通って行きました。いずれも皆、驚いて、神奈川の組頭が捕まえられたというのは何事だと言っていました。その翌日になって聞いたところ、今の手紙の一件で、こうこういう嫌疑(けんぎ)だそうだということでした。それから、脇屋(わきや)を捕まえると同時に、家捜(やさが)しをして、そうしてそのまま当人は伝馬町に入牢(にゅうろう)を申し付けられ、何かタワイもない吟味(ぎんみ)の末、牢中で切腹を申し付けられました。その時に検視に行った高松彦三郎(たかまつひこさぶろう)という人は御小人目付おこびとめつけ)で私の知人でありました。伝馬町へ検視には行きましたが、誠に気の毒であったと、後で高松彦三郎が私に話しました。ソコで私も脇屋卯三郎(うさぶろう)がいよいよ殺されたということを聞いて酷(ひど)く恐れました。その恐れたというのは、ほかではない、明君云々(うんぬん)と言っただけの話で、彼が伝馬町の牢に入れられて殺されてしまった。そうすると、私の書き記しておいたものは、外交の機密にかかる恐ろしいものであります。もし、これが分かりでもすれば、すぐに牢に打(ぶ)ち込まれて首を斬られてしまうに違いないと、こう思ったからです。その時は、私は鉄砲洲にいましたが、早々その書き付けを焼いてしまったけれども、何分気になって堪らなかったのは、私がその書き付けの写しか何かを親類の者にやったことがあるのです。それからまた、肥後(ひご)の細川藩の人にソレを貸したことがあります。貸したその時に、アレを写しはしなかったろうかと、どうも気になって堪らなかったのです。かといって、今頃からソレを荒立てて聞きにやれば、またその手紙が邪魔になります。既に原本は焼いてしまったが、その写しなどが出てくれなければよいが、出て来られた日には、大変な事になると思って誠に気がかりでした。ところが、幸いに何事もなく王政維新になったので、大いに安堵(あんど)して、今では颯々(さっさつ)とそんな事を人に話したり、この通りに速記することも出来るようになりましたけれども、幕府の末年には決してそうではありませんでした。自分から作った災いで、文久三年亥歳(いどし)から明治元年まで五、六年の間というものは、時の政府に対して、あたかも首の負債を背負いながら、他人に言われず家内にも語らず、自分で自分の身を苦しめていたのは、随分(ずいぶん)悪い心持ちでした。脇屋(わきや)の罪に較べて五十歩百歩でない、外交機密を漏らした奴の方が、余程の重罪なるに、その罪の重い方は旨く免れて、何でもない親類に文通した者は首を取られたということこそ気の毒ではないか、無惨(むざん)ではないか。人間の幸不幸はどこにあるか分からない。所謂(いわゆる)、因縁(いんねん)でしょう。この一事でも、王政維新は私の身の為に難有(ありがた)い。それはさて置き、今日でもあの書いたものを見れば、文久三年の事情はよく分かって、外交歴史の材料にもなり、すこぶる面白いものではありますが、何分にも首には代えられず焼いてしまいましたが、もしも今の世の中に誰か持っている人があるなら見たいものだと思います。

下ノ関の攘夷

それから、世の中はもう引続き攘夷論ばかりで、長州の下ノ関では、ただ和蘭(オランダ)船を撃つばかりでなく、その後(のち)亜米利加(アメリカ)の軍艦にも発砲すれば、英吉利(イギリス)の軍艦にも発砲するというようなわけで、とうとうその尻というものは、英仏蘭米四ヶ国から幕府に捻じ込んで、三百万円の償金を出せということになって、捫着(もんちゃく)の末、ついにその償金を払うことになりました。けれども、国内の攘夷論はなかなか収まりが付かなくて、到頭(とうとう)終いには鎖国攘夷ということを言わずに新たに鎖港という名を案じ出して、ソレで幕府から態々(わざわざ)池田播磨守(いけだはりまのかみ)という外国奉行を使節として仏蘭西(フランス)まで鎖港の談判に遣わすというような騒ぎになりました。一切、滅茶苦茶、暗殺は殆(ほとん)ど毎日のことで、実に恐ろしい世の中になってしまいました。そういう時勢であるから、私はただ一身を慎しんで、ドウにかして災いを逃れさえすれば良いということに心掛けていました。

剣術の全盛

兎に角に、癸亥(みづのとい)の前後というものは、世の中はただ無闇に武張(ぶば)るばかりでした。その武張(ぶば)るというのも、自(おの)ずから由来があります。徳川政府は行政外交の局に当たっているから、拠(よんどころ)なく開港説――開国論を言わなければなりません。また、行わなければなりません。けれども、その幕臣全体の有様はドウかというと、ソリャ鎖国家の巣窟(そうくつ)と言ってもよい有様(ありさま)で、四面八方ドッチを見ても洋学者などの頭をもたげる時代でありませんでした。当時、少しでも世間に向くような人間は、悉(ことごと)く長大小(ながだいしょう)を横たえました。それから、江戸市中の剣術家は、幕府に召し出されて巾(はば)を利かせて、剣術大流行の世の中になると、その風は八方に伝染して、坊主までもが態度を改めて来ました。元来、その坊主というものは城内に出仕して大名旗本(はたもと)の給仕役を勤める所謂(いわゆる)茶道坊主でありますから、平生(へいぜい)は短い脇差(わきざし)を挟(さ)して、大名に貰った縮緬(ちりめん)の羽織を着てチョコチョコ歩くというのが、これが坊主の本分であるのに、世間が武張(ぶば)ると、この茶道坊主までが妙な風になって、長い脇差を挟(さ)して坊主頭を振り立てている奴がいました。また、当時流行の羽織はどうだというと、御家人(ごけにん)旗本の間には黄平(きびら)の羽織に漆紋(うるしもん)を身に着けていました。それは昔し昔し、家康公が関ヶ原合戦の時に着て、それから水戸の老公が始終ソレを召していたとかというような言い伝えで、ソレが武家社会一面の大流行でした。ソレカラ、江戸市中七夕(たなばた)の飾りには、笹に短冊を付けて西瓜(すいか)の切れとか、瓜(うり)の張子(はりこ)とか団扇(うちわ)とかいうものを吊るすのが江戸の風でありました。ところが、武道一偏、攘夷の世の中であるから、張子の太刀(たち)とか兜(かぶと)とかいうようなものを吊るすようになって、全体の人気がすっかり昔の武士風になってしまいました。とてもこれでは寄り付きようがありませんでした。

刀剣を売払う

ソコで私はただ独りの身を慎しむと同時に、これはドウしたって刀は要らない。馬鹿々々(ばかばか)しい、刀は売ってしまえと決断して、私のところにはそんなに大小などは大層もありはしないが、ソレでも五本や十本はあったと思います。神明前(しんめいまえ)の田中重兵衛(たなかじゅうべえ)という刀屋を呼んで、ことごとく売り払ってしまいました。けれども、その時分はマダ双刀(だいしょう)を挟(さ)さなければならぬ時であるから、私の父の挟(さ)していた小刀(ちいさがたな)、すなわち、(かみしも)を着るときに挟(さ)す脇差の鞘(さや)を少し長くして刀に仕立て、それから、神明前の金物屋で小刀(こがたな)を買って、短刀作りにこしらえて、ただ印(しるし)だけの脇差に挟(さ)すことにして、アトは残らず売り払って、その代金は何でも二度に六、七十両受け取ったことは今でも覚えています。即ち、家に伝わる長い脇差の刀に化けたのが一本、小刀でそろえた短い脇差が一本、それぎりで、ほかには何もありませんでした。そうして小さくなっているばかりです。私は少年の時から大阪の緒方の塾にいるときも、戯れに居合いを抜いて、随分、好きであったけれども、世の中に武芸の話が流行すると同時に、居合(いあい)刀(がたな)はすっかり奥にしまい込んでしまいました。刀なんぞは、生まれてから挟(さ)すばかりで、抜いたこともなければ、抜く法も知らぬというような風(ふう)をして、ただ用心に用心して夜分は決っして外に出ず、およそ文久年間から明治五、六年まで十三、四年の間というものは、夜分外出したことはありません。その間の仕事は何かというと、ただ著書、飜訳(ほんやく)にのみ屈託(くったく)して歳月を送っていました。

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