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福翁自伝 2. 長崎遊学

それから長崎に出掛けました。頃は安政元年二月、即ち私の年二十一歳(正味、十九歳三箇月)の時であります。その時分には、中津の藩地に横文字を読む者がいないのみならず、横文字を見たものもなかったのです。都会の地には、洋学というものは百年も前からありながら、中津は田舎であるから、原書は扨置(さておき)、横文字さえも見たことがなかった。ところが、その頃は丁度、ペルリ(マシュー・ペリー)が来た時で、亜米利加(アメリカ)の軍艦が江戸に来たということは田舎でも皆知っていました。それと同時に、砲術ということが大変喧(やかま)しくなって来て、ソコデ砲術を学ぶものは、皆、和蘭(オランダ)流について学ぶので、その時、私の兄が申すに、

「和蘭(オランダ)の砲術を取り調べるには、如何(どう)しても原書を読まなければならぬ。」

と言うから、私には分からぬ。

「原書とは何の事です。」

と兄に質問すると、兄の答えに、

「原書というのは、和蘭(オランダ)出版の横文字の書だ。今、日本に飜訳書というものがあって、西洋の事を書いてあるけれども、真実に事を調べるには、その大本(おおもと)の蘭文の書を読まなければならぬ。それに就(つ)いては、貴様はその原書を読む気はないか。」

と言うのです。私は素(もと)より、漢書を学んでいるとき、同年輩の朋友の中ではいつも出来が好(よ)くて、読書講義に苦労がなかったから、自分を自然、頼(たのみ)にする気があったと思われます。

「人の読むものなら、横文字でも何でも読みましょう。」

と、ソコデ兄弟の間での相談は出来て、その時、丁度(ちょうど)兄が長崎に行くついでに任せ、兄のお供をして参りました。長崎に落ち付き、初めて横文字の abc というものを習ったのですが、今では日本国中、至る所にある。徳利(とくり)の貼紙(はりがみ)を見ても横文字はいくらでもあります。目に慣れて珍しくもないが、初めての時は中々難しい。二十六文字を習って覚えてしまうまでには三日も掛かりました。けれども、段々と読むうちに、また左程(さほど)でもなく、次第々々に易(やす)くなって来ました。しかし、その蘭学修業の事は扨置(さておき)、抑(そ)も、私が長崎に行ったのは、ただ田舎の中津の窮屈なのが嫌で嫌で堪らぬから、文学でも武芸でも何でも、外に出ることが出来さえすれば有難いというので出掛けたことですから、故郷を去るに少しも未練はないのです。こんな所に誰がいるものか。一度出たらば鉄砲玉で、再び帰って来はしないぞ。今日こそいい心地(こころもち)だと独り心で喜び、後ろを向いて唾(つばき)して颯々(さっさつ)と足早にかけ出したのは今でも覚えています。

活動の始まり

それから長崎に行って、桶屋町(おけやまち)の光永寺(こうえいじ)というお寺を頼りました。ちょうどその時に、私の藩の家老の倅(せがれ)で奥平壱岐という人が、そのお寺と親類で、そこに寓居(ぐうきょ)していたのです。それを幸いに、その人を使ってマアお寺の居候(いそうろう)になっているその中に、小出町(おいでまち)に山本物次郎(やまもとそうじろう)という長崎両組の地役人で砲術家がいて、そこで奥平が砲術を学んでいるという縁をもって、奥平の世話で山本の家に食客として入りこみました。抑(そ)も、これが私の生来活動の始まりです。あらん限りの仕事を働き、何でもしない事はない。その先生は、目が悪くて書を読むことができないから、私が色々な時勢論など、漢文で書いてある諸大家の書を読んで聞かせました。また、その家には、十八、九歳の倅(せがれ)の独り息子がいたのですが、あまりエライ少年ではありませんでした。けれども、本は読まなければならぬというので、その倅(せがれ)に私が漢書を教えてやらなければなりません。これも仕事のひとつ。それから、家は貧乏だけれども、活計(くらし)は大きい。借金もある様子で、その借金の云延(いいのば)しや、新たに借用の申し込みに行き、また金談(きんだん)の手紙も代筆しました。そこの家に下婢(かひ)が一人に下男がひとりいました。ところで、ややもすると、その男が病気とかなんとかいうときには、男の代わりをして水も汲むし、朝夕の掃除はもちろん、先生がお湯に入るときには背中を流したり、湯を取ったりしてやらなければなりません。また、その内儀(おかみ)さんは猫が好き、(ちん)が好き、生き物が好きで、猫も狆(ちん)も犬もいる、その生き物一切の世話をしなければなりません。上中下、一切の仕事を私一人で引き受けてやっていましたから、酷(ひど)く重宝な男でした。口数も少なく、重宝で血気な少年でありながら、その少年の行状(ぎょうじょう)も甚だよろしい。甲斐々々(かいがい)しく働くというので、ソコデもって段々その山本の家に気に入られて、しまいには先生が養子にならないかと言うのです。私は前にも言ったとおり中津の士族で、遂(つい)ぞ自分は知りはせぬが、小さい時から叔父の家の養子になっているから、そのことを言うと先生が、

「それなら尚更(なおさら)、乃公(おれ)の家の養子になれ。如何(どう)でも乃公(おれ)が世話してやるから。」

と度々言われたことがあります。

その時の一体の砲術家の有様を申せば、写本の蔵書が秘伝で、その本を貸すには相当の謝物(しゃもつ)を受け取って貸していました。本を写したいと言えば、写すための謝料を取るというのが、先ず山本家の臨時収入で、その一切の砲術書を貸すにも写すにも、先生は目が悪いから、皆私の手を経る。それで、私は砲術家の一切の元締(もとじめ)となって、何もかも一切私が取り仕切っていました。その時分の諸藩の西洋家の宇和島(うわじま)藩五島(ごとう)藩佐賀(さが)藩水戸(みと)藩などの人々が来て、出島の和蘭(オランダ)屋敷に行ってみたいとか、あるいは、大砲を鋳るから図を見せてくれとか、そんな世話をするのが山本家の仕事で、実際の仕事は全部私がやっていました。私は本来は素人で、鉄砲を撃つのも見たことはなかったですが、図を引くのは簡単にできました。颯々(さっさつ)と図を引いたり、説明を書いたり、諸藩の人が来れば、何につけても独り罷(まか)り出て、まるで十年も砲術を学んだ立派な砲術家と見られるくらいに挨拶をしたり、世話をしたりするといった調子でした。
ところで、私を山本家の居候(いすろう)に世話をしてくれた人、即ち、奥平壱岐(おくだいらいき)ですが、壱岐と私とは、まるで主客(しゅかく)の立場が入れ替わって、私が主人のようになってしまったのから可笑(おか)しい。壱岐は元来漢学者の才子で器量が狭い。小藩とはいえ大家の子だから、如何(どう)も我儘(わがまま)でした。それに、私の目的は原書を読むことにあって、蘭学医の家に通ったり、和蘭の通詞(つうじ)の家に行ったりして、一意専心(いちいせんしん)して原書を学びました。原書を読むのは初めてでしたが、五十日、百日と、おいおい日が経つにしたがって、次第に意味が分かるようになりました。ところが、奥平壱岐はお坊さんで貴公子だから、緻密な原書など読めるわけがないのです。その中に、こっちが余程エラクくなったのが、主公との不和の始まりでした。全体、奥平という人は、決して深いたくらみを持っている悪人ではありません。ただ、大家の我儘なお坊さんで、知恵も度量もないというだけです。その時にうまく私を籠絡(ろうらく)して生け捕ってしまえば、譜代(ふだい)の家来のように使えるのに、却ってヤッカミだしたとは馬鹿らしい話です。歳は私より十歳ばかり上だが、何分に気持ちは幼くて、ソコデ私を中津に帰すような計略をめぐらしたわけですが、それが私にとっての大災難となりました。

長崎に居ること難し

そうしたら、こういうことになってきたんです。奥平壱岐(おくだいらいき)には、与兵衛(よへえ)という実父の隠居がいて、私たちはその人をご隠居様と崇(あが)めていました。ソコデ、私の父は二十年前に死んでいるのですけれども、私の兄が成長した後に父と同じように大阪に行って勤番をしていたので、中津には母がひとりで他に誰もいませんでした。姉たちは皆嫁いでいて、身寄りの若い者の中には従兄の藤本元岱(ふじもとげんたい)という医者ただ一人でした。彼は良く物事が分かり、書も良く読める学者でした。そこで、中津にいるあのご隠居様が道理に外れたことをしたのです。どうやら、長崎の息子の壱岐から相談があったようで、隠居が従兄の藤本を呼びに来て、諭吉を中津に呼び戻せと言ったのです。あいつが長崎にいると、倅(せがれ)の壱岐の妨げになるから、早々に呼び戻せと言いました。そして、呼び戻すにあたっては、母が病気だと嘘をつけと隠居から直々の厳命が下ったため、言うまでもなく断ることができず、ただ畏(かしこ)まりましたと答えたそうです。母にもその話をして、それから従兄が私に手紙をよこして、母の病気につき早々に帰省致せ、という表向きの手紙と、またそれとは別に、実は隠居からこうこう云々あり、余儀なく手紙を出したが、決して母の身を案じるな、と詳(つまびらか)らかに書いてくれました。私はこれを見て、実に腹が立ちました。何だ、卑劣千万な。計略をめぐらせて母が病気とまで嘘を言わせるなど、そんな奴があるものか。モウやけになって大喧嘩をしてやろうかと思いましたが、

「イヤイヤ、左様(そう)ではない。今、アノ家老と喧嘩をしたところで負けるに決まっている。戦わずして勝負は見えている。一切喧嘩はしない。アンナ奴と喧嘩をするよりも、自分の身の始末のほうが大事だ。」

と思い直しました。それからシラバクレて、とても驚いた振りをして奥平のところに行って、中津からこのような知らせがありまして、母が突然病気になってしまいました。昔から体は丈夫な人だったのですが、わからないものです。今頃はどういう容態なのか、遠国にいて気になります、なんて心配そうな顔をしてグチャグチャと述べ立てると、奥平も大いに驚いたような顔色を作り、

「左様(そう)か。ソリャ気の毒な事じゃ。さぞ心配であろう。兎に角、早く帰国するがよかろう。しかし、母の病気が全快すれば、また長崎に再遊(さいゆう)できるようにしてやるから。」

と慰めるように言っていましたが、内心では上手に嘘をついたと得意げになっているに違いない。ソレカラまた私は言葉を続けて、

「只今、ご指示の通り早々に帰国しますが、何か御隠居様に御伝言は御座いませんか。帰れば何(いず)れお目にかかるでしょう。また、何かお渡しするものなどあれば、何でも持って帰ります。」

と言って、ひとまず別れて、翌朝また行ってみると、主公が家に送る手紙を出して、

「これを屋敷に届けてくれ。親父にこうこう伝言してくれ。」

と言い、またそれとは別に、私の母の従弟の大橋六助(おおはしろくすけ)という男にやる手紙を渡して

「これを六助のところに持って行け。そうすれば、貴様の再遊に都合がよかろう。」

と言って、わざとその手紙に封をせずに、開けてこれ見よがしにしているから、何もかも委細承知して丁寧に告別して、宿に帰って封なしの手紙を読んでみれば、

「諭吉は母の病気につき帰国するというから、その意にまかせて帰すが、修行勉強中の事ゆえ、再遊できるようにそちらで取り計らってくれ。」

と書いてありました。私はこれを読んでますます腹が立ちました。

「この猿松め!馬鹿野郎め!」

と独り、心の中で罵りました。山本先生にも本当の事は言えませんでした。もしこのことがばれて、奥平の面目がつぶれるようなことがあれば、禍(わざわい)は却って自分の身に返ってきて、どんな目に合わされるか知れません。それを恐れて、山本先生には母が病気なのでと言ってお暇をもらいました。

江戸行を志す

ちょうどその時、中津から鉄屋惣兵衛(くろがねやそうべえ)という商人が長崎に来ていて、幸い、その男が中津に帰るというから、兎(と)も角(かく)も、その男と同伴することを約束しておきました。しかしながら、私の胸算(きょうさん)では、中津に帰るつもりはありませんでした。何がなんでも、行くべきところは江戸に違いないと思っていたのです。これからまっすぐ江戸に行こうと決心はしていたのですが、まずはこのことについて誰かに相談しないといけません。ちょうど江戸から来た岡部同直(おかべどうちょく)という蘭学生がいました。彼は医者の息子で、とても面白い男で、しかもしっかりした人物だと見込んだので、彼に全ての事情を打ち明けて、

「斯(こ)う斯(こ)ういう事情で僕は長崎にいることができなくなってしまった。あまりに癪に障(さわ)るから、このまま江戸に飛び出すつもりだ。でも、実は江戸には知り合いがいないので、どこに行ったら良いのかもわからない。君の家は江戸だろう。お父さんは開業医と聞いたが、君の家に食客に置いてもらうことはできないだろうか。僕は医者ではないが、丸薬(がんやく)を丸めるくらいのことはきっとできると思う。何卒(なにとぞ)、世話をしてもらえないだろうか。」

と言うと、岡部も私の事を気の毒に思ったのか、私と一緒になって腹を立てて、容易(たやす)く私の言うことを請け合ってくれました。

「もちろんだ。とにかく江戸に行け。僕の親父は日本橋の檜物(ひもの)町で開業しているから、手紙を書いてやるよ。」

と言って、親父の名宛の手紙を書いてくれました。私は喜んでこれを受け取り、

「そこで、このことがばれたら大変なことになる。そうしたら中津に帰らなければならなくなってしまうので、このことは奥平にも山本先生にも一切言わずに、君の胸の内だけにとどめて漏らさないようにしてもらえないだろうか。僕はこれから下関に行って船に乗って先(ま)ず大阪に行く。凡(およ)そ、十日か十五日もあれば着くだろう。その頃合いを見計らって中村(当時、諭吉は中村の姓を冒(おか)していた)は始めから中津に帰る気はなく、江戸に行くと言って長崎を出たと奥平に話してくれ。」

これはきつい面当(つらあて)だと言って笑い、友人と内々の打ち合わせができたのです。

諫早(いさはや)にて鉄屋(くろがねや)と別る

それから、奥平宛の伝言や何かをすっかり手紙に認(したた)めて、例のご隠居様宛の手紙を書きました。

「私は長崎を出立(しゅったつ)して中津に帰る所存(つもり)で諫早(いさはや)まで参りましたが、その途中で不図(ふと)江戸に行きたくなりましたので、これから江戸に参ります。就(つ)いては、壱岐様からら斯様(かよう)々々のご伝言で、お手紙はこれですからお届け致します。」

と丁寧に認(したた)めて、それから封がされていなかった大橋六助(おおはしろくすけ)宛の手紙を本人に届けるために、私が手紙を書き添えた。

「この通り、封をしないのは可笑(おか)しい。こんな馬鹿げたことはないと思うのですが、このままお届け致します。もとはと言えば、奥平自身が私を呼び戻すように企てておきながら、表向きは知らぬふりをして人を欺くとは卑劣至極な奴です。私はもう中津には帰らず江戸に行きますので、この手紙をご覧ください。」

というような塩梅(あんばい)に認(したた)めました。全ての用意は整って、鉄屋惣兵衛(くろがねやそうべえ)と一所に諫早(いさはや)まで行きました。その間、大体7里(27.5キロ)くらいの距離です。ちょうど夕方に着いて、三月の中旬ごろだったか、月の明るい晩でした。

「さて、鉄屋(くろがねや)、俺は長崎を出たときは中津に帰る所存(つもり)だったが、このまま中津に帰るのは嫌になった。貴様の荷物と一緒に俺の葛籠(つづら)も序(つい)でに持って帰ってくれ。俺は着替えがもう一、二枚あれば十分だ。これから下関に出て、大阪に行って、それから江戸に行くつもりだ。」

と言うと、惣兵衛(そうべえ)殿は呆れてしまい、

「そんな途方もないことを。お前さんのような、年の若い旅慣れぬお坊ちゃんがひとりで行くなんて。」

「馬鹿なことを言うな。口があれば京に上る。長崎から江戸にひとりで行くくらいなんともない。」

「けれども、私は中津に帰ってお母さんに説明のしようがない。」

「なぁに、構うものか。俺は死んだりせんからおっ母さんによろしく伝えてくれ。ただ、江戸に行きましたと伝えてくれればそれでわかる。」

鉄屋(くろがねや)は何も言うことができなくなってしまいました。

「ところで鉄屋、俺はこれから下関に行こうと思うが、実は下関のことは良く知らぬ。貴様は諸方へ行っているが、下関で知り合いの船宿はいないか。」

「私が懇意なうちで船場屋寿久右衛門(せんばやすぐえもん)という船宿があります。そこへおいでなさればよろしい。」

抑(そ)も、なぜこんなことを鉄屋(くろがねや)に態々(わざわざ)訊かねばならぬかと言うと、実はそのとき私の懐中に金がなかったのです。実家からもらったお金が一歩(いちぶ)ありましたが、あとは和蘭(オランダ)の字引の訳鍵(やくけん)という本を売って掻(か)き集めたお金が二歩(ぶ)二朱(しゅ)か三朱しかありませんでした。それで大阪まで行くにはどうしても船賃が足らない見込みなので、そこでちょっと船宿の名前を聞いておいて、それから鉄屋(くろがねや)と別れました。諫早から丸木船という船が天草を渡ると言うので、580文払ってその船に乗ったら、明日の朝までには佐賀に着くということで、浪風(なみかぜ)もなく、朝になって佐賀に着きました。佐賀から歩いたのですが、案内もなければ、体ひとつしかなく、道筋の村の名前も知れなければ、宿々(しゅくじゅく)も知りませんでした。ただただ、東の方へ向かって歩いて、小倉にはどう行ったらよいのかと道を聞いて、筑前を通り抜けて、たぶん大宰府の近くを通ったと思いますが、三日目にやっと小倉に着きました。

贋(にせ)手紙を作る

その間の道中というものは、随分困りました。一人旅で、しかもどこの者とも知れぬ貧乏そうな若侍です。もし、行き倒れになったり、暴れたりしたら困るので、どこの宿屋も容易には泊めてくれません。もう宿の良し悪しを選んでいる余裕はなく、ただ泊めてくれさえすれば良いということで無暗(むやみ)に歩いて、どうにか二晩泊まって三日目に小倉に着きました。その道中で私は手紙を書きました。つまり、鉄屋惣兵衛(くろがねやそうべえ)が書いたことにした贋(にせ)の手紙です。

「この御方は中津の御家中で、中村なんとか様の若旦那です。私は始終この御方のお屋敷に出入りしていたので、決して間違いのないお方ですので手厚くお願いします。」

鹿爪らしい言葉で下ノ関船場屋寿久右衛門(せんばやすぐえもん)宛として、鉄屋惣兵衛(くろがねやそうべえ)の名前を書いてちゃんと封をして、明日、下ノ関に到着したらこの手紙を使おうと思っていました。そして、小倉に到着して泊まったときはおかしかった。あっちこっちマゴマゴして小倉中宿を探したのですが、どこも泊めてくれなかったのです。やっと一軒、泊めてくれるところを見つけましたのですが、薄汚い宿屋で相部屋で寝ている人がいました。すると夜中に枕元で小便をしている音がするのです。何かと思ったら、中風の病を患った老人が尿瓶に小便しているのです。恐らく客ではなくて、その家の病人だったのでしょう。その病人と並んで寝させられたので、汚らしくて堪らなかったのを覚えています。
それから、下関の渡し場を渡って、船場屋(せんばや)を探し出して、かねてから用意していた贋の手紙を持っていったところ、なるほど鉄屋と親しくしているお家ですね、と手紙を読んで早速泊めてくれました。いろいろと良く世話をしてくれて、大阪までの船賃が一分二朱(いちぶにしゅ)賄(まかない)の代金は一日いくら、そこで船賃を払ってしまうと二百分か三百分しか残りません。そこで、大阪に行けば中津の倉屋敷で賄の代金は払ってくれると言うと、これを快く承諾してくれました。悪い事ではありますが、これも贋の手紙のお陰でしょう。

馬関(ばかん)の渡海

小倉(こくら)から下関に船で渡るときに怖い事がありました。海に出たところ、風が吹いて波が立ってきました。すると、その纜(つな)を引っ張ってくれだの、そっちのところをどうしてくれだの、船頭が何か騒ぎ立てて乗客の私に言うものだから、よし来たとを引っ張ったり柱を起こしたりと、面白半分に色々と手伝ってやり、なんとか滞りなく下ノ関の宿に到着して

「今日の船はいったい何だったんだろう。これこれこういう波風で、こういう目にあって、潮をかぶって着物が濡れてしまった。」

と言うと、宿のお内儀(かみ)さんが

「それは危いことじゃ。あれは船頭だったら良いが、実はただの百姓です。今の時期は暇なものですから、内職で船頭をやったりするんです。百姓が農業の合間に慣れぬことをするから、少し波風があると毎度大きな間違いをしでかします。」

と言うのを聞いて実に怖かった。なるほど、それであいつらが一生懸命に私に手伝いを頼んだのも納得できると思いました。

馬関(ばかん)より乗船

それから、船場屋寿久右衛門(せんばやすぐえもん)のところから乗った船には、三月だったので上方(かみがた)見物の乗客が多く、それはそれは色々な人が乗っていました。間抜けな若旦那も乗っていれば、頭の禿げた老爺(じじい)も乗っている。上方あたりの茶屋女もいれば、下ノ関の安っぽい女郎もいました。坊主も百姓も、あらん限りの動物が揃(そろ)って、そいつらが狭い船の中で酒を飲み、博打を打ったりしているのです。くだらぬことで大きな声を出したり、聞いてはいられないような話をしていました。皆が楽しそうにしているなかで、私はひとり無言で取り付く縞もないような感じでいました。そうこうしているうちに、船は安芸(あき)の宮島(みやじま)に着きました。私は特に宮島には用はなかったが、取り合えず島に来たから島を見に船から降りました。他の連中はお互いに朋友だから楽しそうにお酒を飲んでいました。私も飲みたくて堪らないけれども、お金がないのでただ宮島を見ただけで、船に戻って船の飯をむしゃむしゃと食べました。船頭もこんな客は嫌だったのでしょう。妙な顔をして私を睨んでいたのを今でも覚えています。その前に岩国の錦帯橋(きんたいばし)も余儀なく見物して、それから宮島を出て、次は讃岐金比羅(こんぴら)様です。多度津(たどつ)に船が到着して金毘羅まで3里(12キロ)と言われました。行きたくないわけではなかったのですが、お金がなかったので行きませんでした。他の奴は船から出て行って、私ひとりだけで船の番をしていました。そうすると、一晩経ってどいつもこいつもグデングデンに酔って陽気になって帰ってきました。とても癪に障るのですが、こればっかりはどうしようもなかったです。

明石より上陸

そういう不愉快な船中を経て、如何(どう)やら斯(こ)うやら、十五日目に播州(ばんしゅう)明石に到着しました。朝五ツ時、つまり今でいう朝八時頃、明日順風になれば船が出ると言われました。けれども、こんな連中のお供をしていても際限がないと思い、ここから大阪まで何里あるのかと聞くと15里(59キロ)と言われました。

「よし、それじゃ乃公(おれ)はここから大阪まで歩いていく。就(つ)いては、これまでの勘定は大阪に着いたら中津の倉屋敷まで取りに来い。この荷物だけは預けていくから。」

と言うと、船頭はなかなか言うことを聞いてくれない。

「爾(そ)う旨(うま)くはいかぬ。一切の勘定を払っていけ。」

と言うが、そう言われても払う金は懐中にはない。その時に私は更紗(さらさ)の着物と絹紬(けんちゅう)の着物と二枚あって、それを風呂敷に包んで持っているから、

「茲(ここ)に着物が二枚ある。これで賄(まかない)の代金くらいはあるだろう。ほかに書籍もあるが、これはいくらにもならない。この着物を売ればそれくらいの金になるではないか。大小を預けても良いが、これは挟(さ)していかねばならぬ。いつでも良いから、船が大阪に着き次第、中津の屋敷で払ってやるから取りに来い。」

と言っても船頭は強情で承知しない。

「中津の屋敷は知ってるが、お前さんは知らぬ人じゃ。とにかく、船に乗っていきなさい。賄(まかない)の代金は大阪で受け取るという約束をしているから、それはよろしい。何日かかっても構わぬから、途中で船を降りことはできぬ。」

と言いました。こっちは只管(ひたすら)頼んで低姿勢で説明しても、船頭は何が何でも聞き入れず、強情で段々声が大きくなる。喧嘩にはならずとも、実に当惑していたところに、同じ船に乗っていた下ノ関の商人風の男が来て、

「俺が請け合う。」

と言って船頭に向かって、

「コレ、お前もそう因業(いんごう)なこと言うもんじゃない。賄代の抵当に着物があるじゃないか。このお方はお侍じゃ。貴様達を騙す所存(つもり)ではないように見受ける。若(も)し騙したら、乃公(おれ)が代わりに払う。サァ、船を降りなさい。」

船頭もこれで安心して、無理を言うのをやめました。ソレカラ、私はその下ノ関の男に厚く礼を述べて船を飛び出し、地獄に仏、とこの男を心の中で拝みました。

そこで、明石から大阪までの十五里の間は、泊まることができぬ。財布の中はモウ、六、七十文で百文にも足りない銭で、一晩泊まることはできぬから、何が何でも歩き続けなければならぬ。途中、何という所か知らぬが、左側の茶店で一合四文の酒を二合飲んで、大きな筍(たけのこ)の煮たのを一皿と、飯を四、五杯食べて、それからグングン歩きました。今の神戸辺りの先だか、後だか、どう通ってきたのか少しも分からぬ。そうして、大阪に近くなると、今の鉄道の道らしい川をいくつも渡って、ありがたいことにお侍だから船賃はタダで良かったが、日が暮れて闇夜で真っ暗になってしまいました。人に会わなければ道を聞くこともできませんが、夜中に淋しいところで変な奴に会えばかえって気味が悪い。その時、私がさしていた大小は、脇差(わきさし)は祐定(すけさだ)で丈夫の身であったが、刀は太刀作(たちづくり)の細見で役に立ちそうもなく心細かった。実を言えば、大阪近辺に人殺しなど無暗に出没するわけはないので、ソンナに怖がることはなかったのですが、独り旅の夜道で真っ暗だし、臆病神が憑いているので、ツイ腰のものに頼りたくなってしまう。後から考えてみると、かえって危ないことだったなと思う。ソレカラ、始終、道を聞くときは、幼少の時から中津の倉屋敷は大阪堂島(どうじま)玉江橋(たまえばし)の近くということを知しってるから、玉江橋(たまえばし)はどうやって行くのかと尋ねて、ヤット夜十時過ぎに中津の屋敷に到着して兄と会いました。とても足が痛かったのを覚えています。

大阪着

大阪に着いて、久しぶりに会うのは兄だけではなく、屋敷の内外に幼い時から私を知っている人が沢山います。私は三歳の時に国に帰って、二十二歳で再び行ったのですから、私が生まれたときに知っている人が沢山います。私の顔がどこか幼い時の面影があると言う人の中には、私に乳を飲ませてくれた仲仕(なかし)の内儀(かみ)さんもいれば、それに兄の供をして中津から来ている武八(ぶはち)という名前のとても質朴(しつぼく)な田舎男(いなかおとこ)は、以前、大阪の私の家に奉公して私のお守(も)りをした男でした。私が大阪に着いた翌日、この男を連れて堂島三丁目か四丁目のところを通ると、その男が

「お前が生まれる時に俺はこの横町の産婆さんのところに迎えに行ったことがある。その産婆さんは今も達者にしてる。それからお前が段々と大きくなって、俺はお前を抱っこして毎日毎日湊(みなと)の部屋(勧進元)に相撲の稽古を見に行った。その産婆さんの家はあそこで、湊の相撲の稽古場はこっちだ。」

と指さして言ったときは、私も昔を思い出して胸いっぱいになり思わず涙をこぼしてしまいました。全てがこんな感じで、私はどうも旅をしているという気分ではありませんで、故郷に帰ったという感じでとても居心地が良かったです。そして兄が、お前はどうして出し抜けにここに帰ってきたのかと聞くので、兄には正直にこういう次第で帰ってまいりましたと言うと、

「もし俺がここにいなければ良いが、道順を考えるとお前が長崎から大阪に来る前に、まずは中津を先に通るのが順序だろう。その中津を横目にお母さんのところを避けてきたではないか。それも、乃公(おれ)がここにいなければともかく、乃公(おれ)がここでお前に会っておきながら、手放しで江戸に行けと言ってしまったら兄弟共謀だ。それはただでは済まないだろう。お母さんはそれほど気にしないだろうが、どうしても乃公(おれ)の気が済まぬ。それよりか、大阪でも先生は見つけられそうなものじゃ。大阪で蘭学を学ぶがよい。」

と言うので、兄のところにいて先生を探したら、緒方という先生がいることがわかりました。

長崎遊学中の逸事

鄙事多能(ひじたのう)は私が独学で学んだことです。長崎にいる間は山本先生の家で食客生(しょっかっくせい)となり、無暗に勉強して蘭学もようやく分かるようになり、その片手間にあらん限りの先生の家の家事を勤めました。上中下の仕事なんでも引き受けて、これはできないとか、それは嫌だとか、言ったことがありませんでした。ちょうど上方辺の大地震(安政南海地震の余震だろうか?)の時には、先生の息子に漢書の素読をしてあげた後で、表の井戸端で水を汲んで、大きな荷桶にない)を担いで、一歩踏み出すとその途端にガタガタと揺れて足が滑り、とても危ないことがありました。

寺の和尚で、既に物故(ぶっこ)したそうですが、これは東本願寺末寺(まつじ)の光永寺(こうえいじ)といって、下寺(したでら)を三つも持っている長崎では名のある大寺で、そこの和尚が京に上って立身して帰ってきて、長崎の奉行所に廻勤(かいきん)に行く時に、若い従者としてお供したのですが、和尚が馬鹿に長い衣(ころも)か装束(しょうぞく)か何か妙なものを着ていて、奉行所の門で駕籠(かご)から出ると、私が後からその裾を持ってシヅシヅとついて歩いていくのです。それが、吹き出しそうに可笑しいのです。また、その和尚は正月になると大檀那(だいだんな)の家にお礼に行くので、そのお供もしました。坊さんが奥で酒を飲んでいるのを待っているあいだ、お供の人にもお雑煮などを食べさせてもらえるんです。これはありがたくいただきました。

また、節分に物貰(ものもらい)をしたこともあります。長崎の風習で節分の晩に法螺貝(ほらがい)を吹いて何かお経のような事を怒鳴ってまわるというのがあります。東京でいえば厄払いです。その厄払いをして市中の家の門に立てば、銭をくれたり、米をくれたりすることがあります。私がいた山本家の隣に杉山松三郎(杉山徳三郎の実兄)という若い男がいて、これが面白い人物でした。

「どうだ、今夜行こうじゃないか。」

と誘うので、もちろんと同意しました。ソレカラ、どこかで法螺貝を借りてきて、面(かお)を隠して二人で出かけて、杉山が貝を吹いて、私は少年の時に暗唱していた蒙求(もうぎゅう)の表題や千字文(せんじもん)で

王戎簡要(おうじゅうかんよう)天地玄黄(てんちげんこう)」

などと出鱈目(でたらめ)に怒鳴りたてて、これがとても上手くいきました。銭だの米だの、随分ともらってきて、餅と鴨を買ってお雑煮を拵(こしら)えて、タラフク食べたことがありました。

師弟アベコベ

私が初めて長崎に来て、初めて横文字を習うというときに、薩州(さっしゅう)医学生に松崎鼎甫(まつざきていほ)という人がいました。その時の藩主である薩摩守(さつまのかみ)は名高い西洋流の人物で、藩中の医者などに蘭学を勧めていて、松崎も蘭学修行を命じられて長崎に出てきて下宿にいました。そこで、彼に教えてもらうのが良いということで彼のところに行ったのですが、彼が abc を書いて仮名を付けてくれたのには驚きました。これが文字とはどういうことだ。二十何字を覚えるのに余程手間がかかりましたが、学んでいけば進むので、次第々々に蘭語の綴りもわかるようになってきました。ソコデ、松崎という男の人相を見て応対の様子を観察すると、決して天才とういほどの人間ではないと思いました。私は心の中でひそかに

「この男は大した人物ではない。今だって漢書を読めば自分のほうが数段上で先生ができるくらいだ。蘭語だろうが漢書だろうが、同じように字を読み意味を理解するということだと考えれば、この先生をそれほど恐れることもない。どうにかしてアベコベにこの男に蘭書を教えるようになってみたいものだ。」

と生意気が学生が無鉄砲な野心を抱いたのは若気の至りだったのでしょう。ソレはそれとして、その後、私は大阪に行き、長崎で一年も勉強していたから緒方のところでも上達がとても早くて、両三年の間に八、九十人の同級生の間で頭角を現しました。人のめぐり合わせは不思議なもので、その松崎という男が九州から出てきて緒方の塾に入ったのです。私はそのときずっと上級で、下級生の代表をしている会読に松崎も出席することになって、この三、四年の間に昔の師弟がアベコベになったのです。私の無鉄砲な野心が現実になって、誰にも言うことができず、また言うべきでもないことなので黙っていましたが、その時は本当に気分が良かったです。独りで酒を飲みながら得意がっていました。そんなわけで、軍人の功名手柄、政治家の立身出世、金持ちの財産蓄積などは、どれも一生懸命で、一寸(ちょい)と見ると俗な感じがして、深く考えると馬鹿なように見えますが、決して笑いものにしてはいけないです。そんなことを議論したり、理屈を述べたりする学者も同じで、世間並みに馬鹿げた野心があるというのが可笑しいものです。

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