福翁自伝 10. 王政維新
その年も段々と迫って、とうとう慶応三年の暮れになって、世の中が物騒になって来たから、生徒も自然にその影響を被(こうむ)らなければなりませんでした。国に帰るもあれば、方々(ほうぼう)に行くもあるというようなわけで、学生は次第々々に少なくなると同時に、今まで私の住んでいた鉄砲洲(てっぽうず)の奥平(おくだいら)の邸(やしき)は、外国人の居留地になるので幕府から上地(じょうち)を命ぜられ、既に居留地になれば私もそこにいられなくなります。ソコで、慶応三年十二月の押詰めに、新銭座(しんせんざ)の有馬(ありま)という大名の中屋敷を買い受けて、引移(ひきうつ)るやいなや、鉄砲洲は居留地になり、明くれば慶応四年、すなわち明治元年の正月早々、伏見(ふしみ)の戦争が始まって、将軍慶喜(よしのぶ)公は江戸へ逃げて帰り、サアそこでまた大きな騒ぎになってしまいました。即(すなわ)ち、これが王政維新の始まりです。その時に私は少しも政治上に関係していません。抑々(そもそも)、王政維新が政治の始まりであるから、話が少し前に戻って長くなりますけれども、一通り私が少年のときからの話をして、政治に関係しない顛末(てんまつ)を明らかにしなければなりません。
維新の際に一身の進退
元々、私は小士族の家に生まれ、その頃は封建時代の事で日本国中いずれも同様、藩の制度は守旧(しゅきゅう)一偏(いっぺん)の有様で、藩士銘々(めいめい)の分限がチャント決まっていて、上士(じょうし)は上士、下士(かし)は下士と、箱に入れたようにして、その間に少しも融通(ゆうづう)はありません。ソコで、上士族の家に生まれた者は親も上士族であれば子も上士族、百年経ってもその分限は変わりません。したがって、小士族の家に生れた者は、自(おの)ずから上流士族の者から常に軽蔑を受けるのです。人々の智愚(ちぐ)賢不肖(けんふしょう)にかかわらず、上士は下士を目下に見下すという風が専(もっぱ)ら行われていて、私は少年の時からソレについていかにも不平で堪たまらなかったのです。
門閥の人を悪まずしてその悪習を悪む
ところが、その不平の極みは、人から侮辱されるその侮辱の事柄を憎み、遂には人を忘れて、ただその事柄を見苦しきことと思うようになりました。門閥(もんばつ)のゆえをもってみだりに威張ることは、男子の恥ずべき事であり、見苦しきことであるという観念が生じたのです。例えば、上士、下士相対(あいたい)して上士が横風(おうふう)であったとします。私はこれを見て、その上士の傲慢無礼(ごうまんぶれい)に憤(いきどお)ると同時に、心の中では思い直して、
「この馬鹿者めが、何も知らずに夢中に威張っている。見苦しい奴だ。」
と却(かえ)って気の毒に思って、心の中では却(かえ)ってこっちから軽蔑(けいべつ)していました。私がその時、老成人(ろうせいじん)であるか、または仏者(ぶっしゃ)であったら、人道世教(せきょう)のためにどうとか、または、平等を愛して差別を排するとか何とかいう説もあったでしょう。しかし、十歳以上、十九か二十歳の少年にそんな難しい、奥ゆかしい考えがあるべき筈はなかったのです。ただ、人間の殻威張(からいばり)は見苦しいものだ。威張る奴は恥知らずの馬鹿だとばかり思っていましたから、それゆえ、藩中にいて人に軽蔑されても侮辱されても、その立腹を他に移して他人を辱めるということは、ドウしても出来ませんでした。例えば、私は小士族の身分で、上流に対しては小さくなっていなければならぬけれども、順を言えば、また私より以下の者が幾らでもいるから、その以下の者に向かって自分が軽蔑されただけ、ソレだけ軽蔑してやれば、所謂(いわゆる)、江戸の敵(かたき)を長崎で討って、勘定の立つようなものですが、ソレは出来ません。出来ないどころではなく、その反対に、私は下の方に向かって大変丁寧にしていました。
父母の遺伝
これは、私独りの発明ではありません。私の父母、共にそういう風があったと推察が出来ます。前にも言った通り、私の父は漢学者で、勿論(もちろん)身分は私と同じ事でありますから、定(さだ)めて上流士族から蔑視(べっし)されていたでしょう。ところが、私の父は決っして他人を軽蔑しませんでした。例えば、江州(ごうしゅう)水口(みなくち)の碩学(せきがく)、中村栗園(なかむらりつえん)とは、父の実弟のように親しくしていましたが、元来、栗園(りつえん)の身分は豊前(ぶぜん)中津(なかつ)の染物屋(そめものや)の息子で、所謂(いわゆる)素町人(すちょうにん)の子ですから、藩中士族は誰も相手になるものがないのです。けれども、私の父はその人物を愛して、身分の相違を問わず、大層(たいそう)丁寧に取り扱って、大阪の倉屋敷の家に寄寓(きぐう)させて、尚(なお)種々(しゅじゅ)に周旋して、とうとう水口(みなくち)の儒者になるように取り持ちました。その間柄というものは、真(まこと)に骨肉の兄弟にも劣らず、父の死後、私の代になっても、栗園(りつえん)先生は、福澤の家を第二の実家のような塩梅(あんばい)にして、死ぬまで交際していました。シテ見ると、これは決して私の発明ではありません。父母から譲られた性質であると思います。ソレで私は、中津(なかつ)にいて上流士族から蔑視(べっし)されていながらも、私の身分以下の藩士は勿論(もちろん)、町人百姓に向かっても、仮初(かりそめ)にも横風(おうふう)に構えてその人々を目下に見下して、威張るなどということは、一寸(ちょい)ともしたことがありません。勿論(もちろん)、上の者に向かって威張りたくても威張ることは出来ません。出来ないから、ただモウ触らぬように、相手にならぬようにと、独り自ら安心決定(あんじんけつじょう)していました。
本藩に対して功名心なし
既に心に決定していれば、藩にいて功名心(こうめいしん)というものは更にありません。立身出世して高い身分になって錦を故郷に着て人を驚かすというような野心は少しもないのみか、私にはその錦が却って恥ずかしくて着ることが出来ないくらいです。グヅグヅ言えば、この藩を出てしまうだけの事だというのが若い時からの考えで、人にこそ言いませんが、私の心では眼中に藩なしとこう安心を決めていました。それから長崎に行き、大阪に出て修業しているその中に、藩の御用で江戸に呼ばれて、藩中の子弟を教えるということをしていながらも、藩の政庁に対しては誠に淡泊(たんぱく)で、長い歳月の間、ただの一度も建白(けんぱく)なんということをしたことはありません。よく世間にある事で、イヤどうも藩政を改革して洋学を盛んにするがよいとか、兵制を改革するがよいとか言うことは、書生のよくやることです。けれども、私に限って、ただの一度も言い出したことはありません。ソレと同時に、自分の立身出世を藩に向かって求めたことはありません。ドウいうように身分を取り立ててもらいたい。ドウいうようにして禄を増やしてもらいたいというような事は、陰にも陽にも、どんな事があっても藩の長老に内願などしたことはありません。ソコで、江戸に参ってからも、本藩の様子を見れば、種々(しゅじゅ)な事を試みました。兵制で申せば、西洋流の操練(そうれん)を採用したことがあります。けれども、私はソレをよいといって誉めもしなければ、悪いといって止めたこともありません。また、あるいは、大に漢学を盛んにするといって、頻(しき)りに学校の改革などを企てたこともあります。あるいは、兵制は甲州流がいいといって法螺(ほら)の貝を吹いて藩中で調練をしたこともあります。ソレも私はただ目前に見ているばかりで、良いとも悪いとも一寸(ちい)とも言ったことはありません。ある時に、家老の隠居があって、大層政治論の好きな人でした。私が家老の家に行ったらば、その隠居が、ドウも公武(こうぶ)の間が甚だ穏かでない。全体、どうも近衛様(このえさま)がそうもありそうもない事だとか、あるいは、江戸の御老中がつまらないとかいうような慷慨(こうがい)談を頻りにいっている。そう言われると私も何か言いそうな事だ。ところが、私は決して言いません。いかにもそうでしょう。ソリャ成程、近衛様もそうだろう、御老中もそうだろうが、さて、ソレが実地になると傍観者の思うようにはならぬもので、近くはこの奥平様の屋敷でも、マダしていいこともあるだろう。しなくていいこともあるだろう。傍観者からこれを見たらば、さぞ堪え難いことに思うでありましょうけれども、当局の御家老の身になってみれば、またそう思う通りに行かないもので、矢張()り今の通りよりほかにしようがないのです。余り人の事を批評してもつまらぬ事です。私は一体そんな事については、何を議論しようとも思わぬといって、少しも相手になりませんでした。
拝領の紋服をその日に売る
そういう風に構えて、一切(いっさい)政治の事について口を出そうとは思いませんでした。思わないから奥平の邸(やしき)で立身出世しようとも思いませんでした。立身出世の野心がなければ人に依頼する必要もありません。眼中人もなければ藩もなし。さればとて、藩の邪魔をしようとも思わず、ただ屋敷の長屋を借りて安気に住居するばかりでした。誠に淡泊なもので、あるとき私が何かの事について御用があるから出て来いと言うから、上屋敷の御小納戸(おこなんど)のところへ参ったところが、これを貴様に下さると言って、奥平家の御紋の付いている縮緬(ちりめん)の羽織をくれました。すなわち、御紋服(ごもんぷく)拝領(はいりょう)です。そこまで喜びもしなければ、品物が粗末だといって苦情も言わず、ただありがとうございますと言って拝領(はいりょう)して、その帰りに屋敷内に国から来ている亡兄(ぼうけい)の朋友、菅沼孫右衛門(すがぬままごえもん)という人の勤番(きんばん)長屋に何か用があって寄ったところ、そこに出入りの呉服屋か知らん、古着屋か知らん呉服商人が来て何か話をしていました。ソレを聞いていると、羽織をこしらえるというような様子でした。それから私が、
「アア孫右衛門さん、羽織をお拵(こしら)えですか。」
「左様(さよう)さ。」
「そうか、羽織にはいい縮緬(ちりめん)の売り物があるが買いなさらんか。」
「そうか、ソリャ幸いだが、紋所(もんどころ)は。」
「紋所は御紋付(ごもんつき)だから誰にでも着られる羽織だがドウだ。」
「ソリャいい。そういう売り物があるなら、ともかくも見たいものだ。」
「買うと言いなされば、ここに持っているこの羽織だがドウ
だ。」
「成程(なるほど)、御紋付だから差し支えない。買おう。ついては、ここに呉服屋が来ているが、価(あたい)はドウだ。」
「値は呉服屋に付けてもらえばいい。」
と言って、それから、どのくらいの価(あたい)か、と言ったら、単(ひとえ)羽織の事だから、一両三分だと言いました。スグ相談が出来て、その羽織を売って、一両三分の金を持って、私は鉄砲洲(てっぽうず)の中屋敷に帰ったことがあるというような次第で、全体藩の一般の習慣にすれば、拝領の御紋服というものは、その拝領した年月を系図にまで認(したた)めて家の名誉にするというくらいのものなれども、私はその御紋服の羽織を着ても着なくても何ともないのです。それよりか、金の方がいい。一両三分あれば、昨日見たあの原書も買うことができる。原書を買わなければ酒を飲むというような、至極(しごく)無邪気な事でありました。
主従の間も売言葉に買言葉
そういう風であるから、藩に対しても甚だ淡白でした。淡白と言えば言葉がいいけれども、同藩士族の眼から見れば不親切な薄情な奴と見えるのも道理で、藩中の若い者等が酒席などで毎度議論を吹っ掛けることがあるその時に、私は答えて
「不親切、薄情と言うけれども、私は何も奥平様に向かって悪い事をしたことはない。一寸(ちょい)とでも藩政の邪魔をしたことはない、ただ、命令のままに堅く守っているのだ。この上に親切といってドウいうことをするのか。私は厚かましい事は出来ない。これを不親切といえば仕方がない。今も申す通り、私は藩に向かって悪い事をしないのみか、一寸(ちょい)とでも求めたことがなかろう。あるいは、身分を取り立てくれろ、禄を増やしてくれろ、というような事は、蔭にも日向にも一言でも言ったことがあるか。その言葉を聞きいた人がこの藩中にあるかドウか、御家老以下の役人に聞いて見るがいい。厚かましく親切をつくして、厚かましく泣き付くということは、自分の性質において出来ない。これで悪いと言うならば、追い出すよりほかにしかたはあるまい。追い出せば、謹んで命を奉(ほう)じて出て行くだけの話だ。およそ、人間の交際は売り言葉に買い言葉で、藩の方から数代(すだい)御奉公を仰せ付けられてありがたい幸せであろうと酷く恩に着せれば、失敬ながらこっちにも言葉がある。数代(すだい)家来になって正直に勤めたぞ。そんなに恩に着せなくてもよかろう、と言わねばならぬ。これに反して藩の方から手前達のような家来が数代(すだい)神妙に奉公してくれたから、この藩も行き立つとこう言えば、こっちもまた言葉を改め、数代(すだい)御恩を蒙(こうむ)ってありがたい幸せに存じ奉(たてまつ)ります。累代の間には役に立たぬ小供もありました。病人もありました。ソレにもかかわらず、くださるだけの家禄はチャンとくださって、家族一同安楽に生活しました。主恩海より深し、山より高しと、こっちも小さくなってお礼を申し上げる。これが即(すなわ)ち売り言葉に買い言葉だ。ソレだけの事は、私もよく知っている。そう無闇(むやみ)に恩に着せる事ばかり言って、ただ漠然と不親切というような事を言ってもらいたくない。」
というような調子で、始終問答をしていました。
長州征伐に学生の帰藩を留める
それから、長州藩が穏かでない。朝敵と銘(めい)が付いて、ソコで将軍御親発(ごしんぱつ)となり、また幕府から九州の諸大名にも長州に向かって兵を出せという命令が下って、豊前(ぶぜん)中津(なかつ)藩からも兵を出すことになりました。ついては、江戸に留学している学生は、小幡篤次郎(おばたとくじろう)を始め十人もいました。ソレを出兵の御用だから帰れと言って呼び返しに来たその時にも、私は承知できませんでした。この若い者が戦争に出るとは誠に危ない話で、流丸(りゅうがん)に当たったら死んでしまわなければなりません。こんな分からない戦争に鉄砲を担がせるというならば、領分中の百姓に担がせても同じ事です。この大事な留学生に帰って鉄砲を担げなんて、ソンな不似合な事をするには及ばないのです。仮令(たと)い弾丸に当たらないでも、足に踏み抜きしても損です。構うことはない、病気と言って断わってしまえ。一人も帰さない。ソレがまかり間違えば、藩から放逐(ほうちく)されるだけの話だ。長州征伐という事の理非曲直(りひきょくちょく)はどうでもよろしい。とにかくに、学者書生の関係すべき事でないから決して帰らせない、と頑張ったところ、藩の方でも因循(いんじゅん)であったのか、強いて呼び返すということもせずに、その罪は中津(なかつ)にいる父兄の身に降り来たって、その方共の子弟が命に背いて帰藩せぬのは平生の教訓よろしからざるによる云々(うんぬん)の文句で、何でも五十日か六十日の閉門を申し付けられたことがあります。およそ、私の心事はこんな風で、藩に仕えて藩政をどうしようとも思わず、立身出世して威張ろうとも思わず、世間でいう功名心は腹の底から洗ったように何にもなかったのです。
幕府にも感服せず
藩に対しての身の成り行き、心の置きどころは先ほどの通りで、さて江戸に来ている中に幕府に雇われて、後にはいよいよ幕府の家来になってしまえというので、高百五十俵、正味百俵ばかりの米をもらって一寸(ちょい)と旗本(はたもと)のような者になっていたことがあります。けれども、これまた、藩にいるときと同様、幕臣になって功名手柄をしようというような野心はないから、したがって自分の身分が何であろうとも気に留めたことがないのです。一寸(ちょい)とした事だが、おかしい話があります。その次第は、江戸で御家人(ごけにん)の事を旦那(だんな)といい、旗本(はたもと)の事を殿様(とのさま)というのが一般の慣例であります。ところが、私は旗本になったけれども、もとより自分で殿様なんて馬鹿気たことを考えるわけもなければ、家内の者もその通りで、平生と少しも変わった事はありません。そうするとある日、知己の幕人(たしか福地源一郎であったかと覚ゆ)が玄関に来て殿様はお内か。
「イーエそんな者はいません。」
「お内においでなさらぬか、殿様は御不在か。」
「そんな人はいません。」
と、取次の下女としきりに問答をしている様子でした。狭い家だから、スグ私が聞き付けて、玄関に出てその客を座敷に通したことがありますが、なるほど殿様と言って、下女に分かるわけはないのです。私の家の中で言う者もなければ、聞いた者もない言葉ですから。
洋行船中の談話
それでも私に全く政治思想がないわけではありません。例えば、文久二年欧行の船中で松木弘安(まつきこうあん)と箕作秋坪(みつくりしゅうへい)と私と三人、色々日本の時勢論を論じて、その時私が
「ドウだ、とても幕府の一手持(いってもち)は難しい。まず、諸大名を集めて独逸(ドイツ)聯邦(れんぽう)のようにしてはどうだ。」
と言うに、松木(まつき)も箕作(みつくり)も、マアそんな事が穏かだろうと言いました。それから、段々身の上話に及んで、今日、吾々(われわれ)共の思う通りを言えば、正米(しょうまい)を年に二百俵もらって、親玉(将軍の事)の御師匠番(ししょうばん)になって、思うように文明開国の説を吹き込んで、大変革をさせてみたいと言うと、松木が手を打って、そうだ、そうだ。これはやってみたいと言ったのは、松木の功名心もその時には二百俵の米をもらって将軍に文明説を吹き込むぐらいの事で、当時の洋学者の考えは、大抵皆大同小異、一身のために大きな事は考えないというものでした。後に、その松木が寺島宗則(てらしまむねのり)となって、参議(さんぎ)とか外務卿(がいむきょう)とかいう、実際の国事に当たったのは、実は本人の柄において商売違いであったと思います。
それはさて置き、世の中の形勢を見れば、天下の浮浪、即ち有志者は京都に集っていました。それから、江戸の方ではまた幕府というものが、勿論(もちろん)時の政府でリキンでいるというわけで、日本の政治が東西二派に相分かれて、勤王、佐幕という二派の名が出来ました。出来たところで、サアそこに至って、私がどうするかと言うに、
第一、私は幕府の門閥圧制、鎖国士族が極々嫌いで、これに力を尽くす気はない。
第二、さればとて、彼(か)の勤王家という一類を見れば、幕府より尚(なお)一層甚だしい攘夷論で、こんな乱暴者を助ける気はもとよりない。
第三、東西二派の理非曲直(りひきょくちょく)はしばらくさておき、男子が所謂(いわゆる)宿昔(しゅくせき)、青雲の志を達するは乱世にあり、勤王でも佐幕でも試みに当たって砕けるというが書生の事であるが、私にはその性質習慣がない。
今その次第を語りましょう。抑々(そもそも)私が初めて江戸に来た時からして幕府の人には感服しませんでした。一寸(ちょい)と旗本(はたもと)御家人(ごけにん)に出会うところが、応接振りは上品で、田舎者と違い弁舌もよく、行儀も立派ではありますが、何分にも上辺ばかりで、物事を微密に考える脳力もなければ、また腕力も弱そうに見えました。けれども、先方は幕府の御直参(じきさん)で、こちらは見る影もない陪臣だから手の着けようもなく、旗本などに対してはその人のいないところでも、何様々々と尊敬しているその塩梅(あんばい)式は、京都の御公卿様(おくげさま)を取り扱うように、ただ見たところばかりを丁寧にして、心の中では見くびり抜いていました。
葵(あおい)の紋の御威光
ところが、その無脳力、無腕力と思える幕府人の剣幕は中々大造(たいそう)なものであります。些細な事のようですが、当時最も癪(しゃく)に障るのは旅行の道中で、幕人の威張り方というものは、とても今時の人には想像出来ないでしょう。私などは譜代大名の家来だから、まるで人種違いの蛆虫(うじむし)同様、幕府の役人は勿論(もちろん)、およそ葵(あおい)の紋所の付いている御三家といい、それから徳川親藩の越前家というような大名か、またはその家来が道中をしているところにぶつかろうものなら、ソリャ堪らないのです。寒中朝寒い時に宿屋を出て、河を渡ろうと思って寒風の吹くところに立って、一時間も船の来るのを待っていると、ヤッと船が着いて、やれ嬉しや、この船に乗ろうという時に、不意と後ろから葵の紋の侍(さむらい)が来ると、その者が先へその船に乗ってしまうのです。またアト一時間も待たなければならなくなります。駕籠(かご)を担ぐ人足でも無人のときには吾々(われわれ)は問屋場(といやば)に行って頼んでヤッと出来たところに、アトから例の葵の紋が来ると、出来たその人足を横合いから取られてしまうのです。どんなお心善(こころよし)でも腹を立てずにはいられません。およそ、幕府の圧制殻威張(からいばり)は際限のない事ながら、私共が若い時に直接に侮辱(ぶじょく)、軽蔑(けいべつ)を受けたのは、道中の一事でも血気の熱心は自(おの)ずから禁ずることが出来ず、前後左右に深い考えもなく、ただ癇癪(かんしゃく)の余りに、こんな悪政府は世界中にあるまいと腹の底から観念していました。
幕府の攘夷主義
幕政の殻威張(からいば)りが癇癪(かんしゃく)に障るというのは、これはこっちの血気の熱心であるとして、しばらく差し置き、さてこの日本を開いて外国交際をドウするかということになっては、どうも見ていられませんでした。と言うのは、私は若い時から洋書を読んで、それから亜米利加(アメリカ)に行き、その次には欧羅巴(ヨーロッパ)に行き、また、亜米利加(アメリカ)に行って、ただ学問ばかりでなく実地を見聞(けんもん)していたので、どうしても対外国是(こくぜ)はこういうように仕向けなければならぬと、ボンヤリしたところでも外国交際法ということに気の付くのは当然の話でありましょう。ソコで、その私の考えから割り出して、この徳川政府を見ると殆(ほとん)ど取所(とりどころ)のない有様で、当時日本国中の輿論(よろん)はすべて攘夷(じょうい)で、諸藩残らず攘夷藩で徳川幕府ばかりが開国論のように見えもすれば、聞こえもするようでありますけれども、正味の精神を吟味すれば天下随一の攘夷藩、西洋嫌いは徳川であるといって間違いはありませんでした。あるいは、後年に至って大老、井伊掃部頭(いいかもんのかみ)は、開国論を唱えた人であるとか、開国主義であったとかいうような事を、世間で吹聴(ふいちょう)する人もあれば、本に著した者もありますが、開国主義なんて大嘘の皮(かわ)。何が開国論なものでしょうか。存じ掛けもない話だ。井伊掃部頭(いいかもんのかみ)という人は純粋無雑、申し分のない参河武士(みかわぶし)です。江戸の大城(たいじょう)炎上のとき、幼君を守護して紅葉山(もみじやま)に立ち退き、周囲に枯草の繁りたるを見て非常の最中不用心(ぶようじん)なりといって、自ら腰の一刀を抜いて、その草を切り払い、手に幼君を擁(よう)して終夜家外に立ち詰めなりしという話があります。また、この人が京都辺りの攘夷論者を捕縛して刑に処したることはあっても、これは攘夷論を憎むためではありません。浮浪の処士が横議(おうぎ)して徳川政府の政権を犯すが故に、その罪人を殺したのであります。これらの事実を見ても、井伊大老は真実間違いもない徳川家の譜代、豪勇無二の忠臣ではありますが、開鎖の議論に至っては、真暗(まっくら)な攘実家というよりほかに評論はありません。ただ、その徳川が開国であるというのは、外国交際の衝(しょう)に当たっているから、余儀なく渋々開国論に従っていただけの話で、一幕捲(まく)って正味(しょうみ)の楽屋(がくや)を見たらば、大変な攘夷藩です。こんな政府に私が同情を表することが出来ないというのも無理はないでしょう。まず、その時の徳川政府の頑固な一例を申せば、こういうことがあります。私がチエーンバーの経済論を一冊持っていて、何か話のついでに御勘定方の有力な人、すなわち今で申せば大蔵省中の重要の職にいる人に、その経済書の事を語ると、大造(たいそう)喜んで、ドウか目録だけでもいいから是非見たいと所望するから、早速飜訳(ほんやく)する中に、コンペチションという原語に出会い、色々考えた末、「競争」という訳字を造り出してこれに当てはめました。前後二十条ばかりの目録を飜訳してこれを見せたろころ、その人がこれを見て頻(しき)りに感心していたようだが、
「イヤ、ここに「争(あらそい)」という字がある。ドウもこれが穏かでない。どんな事であるか。」
「どんな事ッて、これは何も珍らしいことではない。日本の商人のしている通りで、隣で物を安く売ると言えば、こっちの店ではソレよりも安くしよう。また、甲の商人が品物をよくするといえば、乙はソレよりも一層よくして客を呼ぼうとこういうので、また、ある金貸しが利息を下げれば、隣の金貸しも割合を安くして店の繁昌をはかるというような事で、互いに競い争って、ソレでもってちゃんと物価も決まれば金利も決まる。これを名づけて競争というので御座(ござ)る。」
「成程、そうか。西洋の流儀はキツイものだね。」
「何もキツイ事はない。ソレですべて商売世界の大本(おおもと)が決まるのである。」
「成程(なるほど)、そういえば分からないことはないが、何分ドウも争いという文字が穏かならぬ。これではドウモ御老中方へ御覧に入れることが出来ない。」
と、妙な事を言うその様子を見るに、経済書中に人間互いに相譲(あいゆず)るとかいうような文字が見たいのであろう。例えば、商売をしながらも忠君愛国、国家のためには無代価でも売るとかいうような意味が記してあったらば気に入るであろうが、それは出来ないから、
「ドウも争という字が御差し支えならば、ほかに飜訳(ほんやく)の致しようもないから、丸でこれは削りましょう。」
と言って、競争の文字を真黒に消して目録書を渡したことがあります。この一事でも幕府全体の気風は推察が出来ましょう。それからまた、長州征伐(せいばつ)のとき、外国人は中々注意していて、あるとき英人であったか米人であったか、幕府に書翰(しょかん)を出し、長州の大名にドウいう罪があって征伐するのだろうか、ソレを承りたいと言って来ました。そうすると、その時の閣老役人達がいろいろ評議をしたとみえ、長々と返辞をやったその返辞の中に、開鎖論ということを頓(とん)と言わないのです。当たりまえならば、国を開いた今日、長州の大名は政府の命令を奉(ほう)ぜずに、外国人を敵視するとか、下ノ関で外国の船艦に発砲したから、とか言いそうなものであるに、ソンな事は一言半句もいわないで、イヤどうも京都に暴れ込んだとか、あるいは勅命(ちょくめい)に戻り台命(たいめい)に背き、その罪、南山(なんざん)の竹を尽くすも数えがたしと言うような、漢学者流の文句をゴテゴテと書いてやっていました。私はその返辞を見て、コリャどうも仕様がない。表面には開国を装っているものの、幕府は真実、自分も攘夷がしたくて堪らないのです。とても、モウ手のつけようのない政府だと、実に愛想が尽きて同情を表する気もありませんでした。
然(しから)ば則(すなわ)ち、これに取って代わろうという上方(かみがた)の勤王家はドウかというと、彼等に代わったら、かえってお釣りの出るような攘夷家であります。コリャまた幕府よりか一層悪い。勤王攘夷と佐幕攘夷と名こそ変わるが、その実は双方共に純粋無雑な攘夷家でその攘夷に深浅厚薄の別はあるものの、詰まるところは双方共に尊攘の仕振りが善いとか悪いとかいうのが争論の点で、その争論喧嘩が遂(つい)に上方の攘夷家と関東の攘夷家と鉄砲を打ち合うような事になるでしょう。ドチラも頼むに足らず、その中にも上方の勤王家は、事実において人殺しもすれば放火もしています。その目的を尋ねてみると、たとえこの国を焦土にしても、飽くまで攘夷をしなければならぬという触れ込みで、一切万事一挙一動、ことごとく攘夷とならざるをえないのです。然(しか)るに、日本国中の人がワッとソレに応じて騒ぎ立てているのであるから、何としてもこれに同情を表して仲間になるような事は出来ません。これこそ、実に国を滅ぼす奴等(やつら)です。こんな不文不明な分からぬ乱暴人に国を渡せば亡国は眼前に見えます。情けない事だという考えが始終、胸に染み込んでいたから、何としても上方(かみがた)の者に左袒(さたん)する気にはなりません。その前後に、緒方の隠居は江戸にいます。これは、故 緒方洪庵先生の夫人で、私は阿母(おっかさん)のようにしている恩人であります。ある時に、隠居が私と箕作(みつくり)を呼んで、
「ドウじゃい、お前さん方は幕府に雇われて勤めているけれども、馬鹿々々しい、止しなさい。ソレよりか上方に行って御覧。ソリャどうもいろいろな面白いことかあるぜ。」
と言います。段々聞いてみると村田蔵六、即ち大村益次郎(おおむらますじろう)とか、佐野栄寿(さのえいじゅ、常民 つねたみ)とかいうような有志者が、皆、緒方の家に出入りをしていました。ソレを隠居さんが知っていて、私と箕作(みつくり)の事は自分の子のようにしていたものだから、江戸にいるな。上方に行け、と勧めたのも無理はありません。その時に私は、誠にありがとうございます。大阪に行けば必ず面白い仕事がありましょうけれども、私はドウも首をもがれたッて攘夷のお供は出来ません。そうじゃないかと、箕作(みつくり)と言って断わったことがありましたが、そのくらいのわけで、ドウしてもその上方勢に与(くみ)することは出来ませんでした。
それからモウ一つ、私の身について言えば、少年の時から中津の藩を出てしまったので、所謂(いわゆる)藩の役人らしい公用を勤めたことがないのです。それから、前にも言った通り、江戸に来て徳川の政府に雇われたからといったところが、これは、いわば筆執(と)る飜訳(ほんやく)の職人で、政治に与(あずか)ろうわけもありません。ただ、職人のつもりでいるのですから、政治の考えというものは少しもありません。自分でもしようとも思わなければ、また私は出来ようとも思いません。たとえまた、私が奮発して、幕府なり上方(かみがた)なり、何でも都合のいい方に飛び出すとしたところが、人の下流について仕事をすることは、もとより出来ず、中津藩の小士族で他人に侮辱、軽蔑されたその不平不愉快は骨に徹っして忘れられないから、今更、他人に屈っしてお辞儀をするのは禁物であります。されば、大いに立身して所謂(いわゆる)政治界の大人(たいじん)とならんか、これも甚だ面白くありません。前にも申した通り、私は儀式の箱に入れられて小さくなるのを嫌う通りに、その通りに儀式張って横風(おうふう)な顔をして人を目下(もくか)に見下すことも、また甚だ嫌いであります。例えば、私は少年の時から人を呼び棄てにしたことがありません。車夫、馬丁(ばてい)、人足(にんそく)、小商人(こあきんど)の如き下等社会の者は別にして、苟(いやしく)も、話の出来る人間らしい人に対して無礼な言葉を用いたことはありません。青年書生は勿論(もちろん)、家内の子供を取り扱うにも、その名を呼び棄てにすることは出来ません。さる代わりに、政治社会の歴々とか何とかいう人を見ても何ともありません。それも、白髪の老人とでもいえば、老人相応に待遇はすれども、その人の官爵が高いなんて高慢な風をすれば、ただ可笑(おかし)いばかりで、話をするのも面白くありません。これは、私が持って生まれた性質か、または書生流儀の習慣か、老年の今日に至るまでも同じ事です。これを要するに、どうしても青雲の雲の上には向きの悪い男でありますから、維新前後にも、ひとり別物になっていたことと、自分で自分の事を推察しています。ソレはソレとして。
さて、慶喜(けいき)さんが京都から江戸に帰って来たというその時には、サア大変。朝野(ちょうや)共に物論沸騰して、武家は勿論(もちろん)、長袖の学者も医者も坊主も皆政治論に忙しく、酔えるがごとく、狂するが如く、人が人の顔を見ればただその話ばかりで、幕府の城内に規律もなければ礼儀もないのです。平生なれば大広間、溜まりの間、雁の間、柳の間なんて、大小名のいるところで中々喧しいのが、まるで無住のお寺を見たようになって、ゴロゴロと箕坐(あぐら)をかいて、怒鳴る者もあれば、ソット袂(たもと)から小さいビンを出してブランデーを飲んでいる者もあるというような乱脈になり果てたけれども、私は時勢を見る必要があります。城中の外国方に飜訳(ほんやく)抔などの用はないけれども、見物半分に毎日のように城中に出ていましたが、その政論流行の一例を言ってみると、ある日、加藤弘之(かとうひろゆき)と今一人、誰であったか名を覚えませぬが、二人が裃(かみしも)を着て出て来て、外国方の役所に休息しているから、私がそこへ行いって、
「イヤ加藤君、今日はお裃(かみしも)で何事に出て来たのか。」というと、
「何事だッて。お会いを願うというのは、この時に慶喜(けいき)さんが帰って来て城中にいるでしょう。ソコで色々な策士論客忠臣義士が躍気(やっき)となって、上方(かみがた)の賊軍が出発したから、何でもこれは富士川(ふじがわ)で防がなければならぬとか、イヤそうでない、箱根の嶮阻(けんそ)によって二子山(ふたこやま)のところで賊を 鏖殺(みなごろし)にするがいい、東照神君(とうしょうしんくん)三百年の洪業は一朝にして棄(す)つべからず、吾々(われわれ)臣子の分として、義を知るの王臣となって生けるは恩を知るの忠臣となって死するにしかず。」
なんて、種々(しゅじゅ)様々の奇策妙案を献じ、悲憤慷慨(こうがい)の気焔(きえん)を吐く者が多いから、いわずと知れた加藤等もその連中(れんじゅう)で、慶喜さんにお逢いを願う者に違いありません。ソコデ私が、
「今度の一件はドウなるだろう。いよいよ戦争になるか、ならないか、君達には大抵(たいてい)分かるだろうから、ドウぞそれを僕に知らしてくれ給(たま)え。是非、聞きたいものだ。」
「ソレを聞いて何にするか。」
「何にするッて、分かってるではないか。これが、いよいよ戦争に決まれば、僕は荷物をこしらえて逃げなくてはならぬ。戦争にならぬといえば、落ち付いている。その和戦いかんは、なかなか容易ならぬ大切な事であるから、ドウぞ知らしてもらいたい。」と言うと、
加藤は眼を丸くして、「ソンな気楽な事をいっている時勢ではないぞ。馬鹿々々しい。」
「イヤイヤ、気楽なところではない。僕は命掛けだ。君達は戦うとも、和睦しようとも勝手にしなさい。僕は始まると即刻、逃げて行くのだから。」と言ったら、加藤がプリプリ怒っていたことがあります。
それからまた或(ある)日に、外国方の小役人が出て来て、
「時に福澤さんは家来は何人お召し連れになるか。」と問うから、
「家来とは何だ。」というと、
「イヤ、事急なれば皆、この城中に詰める方々にお賄いを下さるので、人数を調べているところです。」
「そうか、ソレは誠にありがたい。ありがたいが、私は勿論(もちろん)家来もなければ主人もない。ドウぞ、福澤のお賄いだけはお止めにして下さい。」
弥々(いよいよ)、戦争が始まるというのに、この城の中に来て悠々と弁当など食っていられるものか。始まろうという気振(けぶり)が見えれば、どこかへ直ぐに逃げ出して行きます。まず、私のお賄いは要らないものとして下さいと、笑って茶を呑んでいました。全体をいうと、真実、徳川の人に戦う気があれば、私がそんな放語漫言したのを許すわけはないのです。すぐ一刀の下に首がなくなるはずだけれども、これが所謂(いわゆる)幕末の形勢で、とても本式に戦争などの出来る人気(にんき)ではありませんでした。
その前に、慶喜(けいき)さんが東帰して来たときに、政治上の改革とでもいうか、種々(しゅじゅ)様々な役人が出来ました。おかしくて堪らなかったです。新潟奉行に誰が命ぜられて、どこの代官に誰がなる。甚だしきに至っては、逃げ去って来た後の兵庫奉行になった人さえあって、名義上の奉行だけはこっちに出来ていました。それからまた、御目附(おめつけ)になるもあれば、御使番(おつかいばん)になるものもありました。何でも、加藤弘之(かとうひろゆき)、津田真一(つだしんいち、真道まみち)なども御目附か、御使番(おつかいばん)かになっていたと思います。私も御使番(おつかいばん)になれと言われました。奉書到来という儀式で、夜中差紙(さしがみ)が来ましたが、まっぴら御免だ。私は病気で御座るといって取り合いませんでした。それから、段々切迫して官軍(上方勢)が入り込んで、ソロソロ鎮将府(ちんじょうふ)というようなものが江戸に出来て、慶喜(けいき)さんは水戸の方に行くとこうなったのです。これは慶応四年、すなわち明治元年春からの騒ぎで、その時に私は芝の新銭座(しんせんざ)に屋敷を買ってあったから、引っ越さなければなりませんでした。その屋敷の地坪は四百坪、長屋が一棟に土蔵が一つあるきりですから、生徒のために塾舎も拵(こしら)えなければならず、また私の住居も拵(こしら)えなければなりませんでした。さて、その普請(ふしん)の一段になったところで、江戸市中大騒動の最中、かえって都合が良かったのです。八百八町、ただの一軒でも普請(ふしん)をする家はありません。ソレどころか、荷物を搦(からげ)て田舎に引っ越すというような者ばかりでした。手廻しのいい家では、竈(かまど)の銅壺(どうこ)まで外してしまって、自分は土竈(どべっつい)を拵(こしら)えて飯を焚いている者もありました。この最中に、私が普請(ふしん)を始めたところ、大工や左官の喜びというものは一方(ひとかた)ではありませんでした。安いにも、安いにも、何でも飯が食われさえすればよい。米の代さえあれば働くというわけで、安い手間料で人手は幾らでもあるから、普請は颯々(さっさつ)と出来ました。その建物も新たに拵(こしら)えるのではありません。奥平屋敷の古長屋をもらって来て、およそ百五十坪も普請しましたが、入費(にゅうひ)は僅か四百両ばかりで一切(いっさい)仕上げました。いよいよ普請の出来たのは、その年(明治元年)四月頃と覚えています。その時、私の朋友などはわざわざ止めに来て、
「今頃普請をするものがあるか、どこでも家を壊して立退くという時節に。君独り普請をしてドウする積もりだ。」
と言うから、私は答えて、
「ソリャそうでない。今、僕が新たに普請するからおかしいように見えるけれども、去年普請をしておいたらドウする。いよいよ戦争になって逃げる時に、その家を担いで行かれるものでない。成程(なるほど)今戦争になれば焼けるかも知れない、また焼けないかも知れない。たとえ焼けても去年の家が焼けたと思えば後悔も何もしない。少しも惜しくない。」
と言って颯々(さつさつ)と普請(ふしん)をして、果たして何の災いもなかったのは、投機商売の中で当たったようなものです。何でも、私のところで普請(ふしん)をしたために、新銭座(しんせんざ)辺りは余程立ち退きが少なかったそうです。あすこの内で普請(ふしん)をするくらいだから戦争にならぬであろう。マア引っ越しを見合わせようといって、思い止まった者も大分あったようです。けれども、実は私も心の中では怖かったのです。どこから焼け始まって、ドンな事になるか知れぬと思うから、どこかに逃げる用意はしておかなければなりません。屋敷の中に穴を掘って隠れていようか、ソレでは雨の降るときに困る。土蔵の縁の下に入っていようか。もし、大砲で撃たれると困る。ドウしようかと思う中に、近所に紀州の屋敷(今の芝離宮 しばりきゅう)があって、その紀州藩から幾人も生徒が来ていたのが幸いで、その人達に頼んで屋敷を見に行ったところが、広い庭で土手が二重に食い違いになっているところがありました。ここがよかろう。まかり違って、いよいよ、ドンドンやるようにならば、ここへ逃げて来よう。けれども表からは行かれない。行かれないから、海岸から行くよりほかないというので、いよいよ、セッパ詰まったその時に、私は伝馬船(てんまぶね)を五、六日の間雇って、新銭座(しんせんざ)の浜辺に繋いでおいたことがあります。サアいよいよというときに、家内の者をその船に乗せて、海の方からその紀州の屋敷へ行って、土手の間に隠れていようという覚悟でした。その時に私のところの子供が二人、一(いち、総領の一太郎 いちたろう氏なり)と捨(すて、次男の捨次郎 すてじろう氏なり)、家内と子供を連れてそこへ行こうという覚悟をしていたところが、ソレ程の心配にも及ばず、追々、官軍が入り込んで来たところが存外優しく、決して乱暴な事をしませんでした。既に奥平の屋敷が汐留(しおどめ)にあって、あすこにいる(別室にいる年寄りを指して)一太郎(いちたろう)のお祖母(ばば)さんがその屋敷にいるので、五歳ばかりの一太郎が前夜からお祖母さんのところに泊まっていたところ、奥平(おくだいら)屋敷のつい近所に増山(ますやま)という大名屋敷があって、その屋敷へ不逞(ふてい)の徒が何人とか籠っているというので、長州の兵が取り囲んで、サア戦争だ、とドンドンやっている。それから、捕まえられたとか、斬られたとか、あるいは奥平屋敷の溝の中に人が斬り倒されて、ソレをまた上から鎗(やり)で突いたというような大騒動でした。ところで、私の倅(せがれ)はお祖母さんのところにいました。奥平の屋敷も焼かれてしまうだろう、あの子とお祖母さんはドウなろうかと大変な心配で、迎えにやろうといっても、やることも出来ませんでした。それこれする中に、夕方になったところで事は鎮まってしまいましたが、その時でも大変に優しくて、ジッとしていればドウもしないのです。何もこの内にいる者に怪我をさせようともしなければ乱暴もしない、チャンと軍令というものがあって締まりが付いているから安心しなさいと頻(しき)りになだめて、一寸(ちょい)とも手を触れないという一例でも、官軍の存外優しかったことが分かります。前に思っていたのとは大違い、何ともありませんでした。
義塾次第に繁昌
さて、四月になったところで普請も出来上がり、塾生は丁度慶応三年と四年の境が一番諸方(しょほう)に散じてしまって、残った者は僅かに十八人。それから、四月になったところが段々帰って来て、追々塾の姿を成して次第に盛んになりました。また、盛んになるわけもあります。と言うのは、今度私が亜米利加(アメリカ)に行った時には、それ以前、亜米利加(アメリカ)に行った時よりも多く金を貰いました。ところで、旅行中の費用はすべて官費でありますから、政府から請け取った金は皆手元に残りますゆえ、その金をもって今度こそは有らん限りの原書を買って来ました。大中小の辞書、地理書、歴史等は勿論、そのほか法律書、経済書、数学書などもその時初めて日本に輸入して、塾の何十人という生徒に銘々(めいめい)その版本を持たして立派に修業の出来るようにしたのは、実に無上の便利でした。ソコデその当分十年余も亜米利加(アメリカ)出版の学校読本が日本国中に行われていたのも、畢竟(ひっきょう)、私が初めて持って帰ったのが因縁(いんえん)になったことです。その次第は生徒が初めて塾で学ぶ。その学んで卒業した者が方々(ほうぼう)に出て教師になる。教師になれば、自分が今まで学んだものをその学校に用るのも自然の順序でありますから、日本国中に慶應義塾に用いた原書が流布(るふ)して広く行われたというのも、事の順序はよく分かっています。
官賊の間に偏せず党せず
それで先ず、官軍は存外柔かなものであって、何も心配はありませんでした。しかし、政治上の事は極めて鋭敏なもので、嫌疑ということがあっては、これは容易ならぬわけであるから、ソレを明らかにするために、私は一切万事何もかも打ち明けて、一口に言えば塾も住居も殻明(からあき)にしてしまい、どこを捜した所で鉄砲は勿論(もちろん)一挺(いっちょう)もなし、刃物もなければ飛道具(とびどうぐ)もない。一目明白、すぐに分かるようにしました。始終、そういう身構えにしているから、私のところには官軍方の人も颯々(さっさ)と来れば、賊軍の人も颯々と出入りしていて、私は官でも賊でも一切構わぬ。どちらに向いても依怙贔屓(えこひいき)なしに扱っているから、双方共に朋友でした。その時にこういう面白い事がありました。官軍が江戸に乗り込んでマダ賊軍が上野に籠らぬ前に、市川辺で小競合(こぜりあい)がありました。そうすると、賊軍方の者が夜はそこに行って戦って、昼は眠いからといって塾に来て寝ていた者がありましたが、根っから構わないのです。私はその人の話を聞いて、
「君はソンナ事をしているのか。危ない事だ。マア止(よ)しにした方がよかろう。」と言ったくらいのことであります。
古川節蔵脱走
それから、古川節蔵(ふるかわせつぞう)は長崎丸という船の艦長でありましたが、榎本釜次郎(えのもとかまじろう)よりも先駈けして脱走するというので、私にその事を話しました。ところが、節蔵は先年私が大阪から連れて来た男で、弟のようにしていたから、私はその話を聞いて親切に止めました。
「ソリャ止(よ)すがいい。とても叶わない。戦争すれば必ず負けるに違いない。東西ドチラが正しいとか、正しくないとかいうような理非曲直は言わないが、何しろこういう勢いになったからには、モウ船に乗って脱走したからとて勝てそうにもしないから、ソレは思い止まるがいい。」
と言ったところが、節蔵はマダなかなか強気で、
「ナアに屹度(きっと)勝つ。これから出掛けて行って、諸方に出没している同志者をこの船に乗せて便利の地に挙げて、官軍が江戸の方にやって来るその裏をついて、それから大阪湾に行って掻廻(かきまわ)せば官軍が狼狽する、というような事になって、屹度(きっと)勝算はあります。」
といって、中々私の言うことを聞かないから、
「そうか。ソレならば勝手にするがいい。乃公(おれ)はモウ負けても勝っても知らないぞ。だが乃公(おれ)は足下(そくか)を助けようとは思わぬ。ただ可哀(かあい)そうなのはお政(まさ)さんだ(節蔵 せつぞう氏の内君)。ソレだけは生きていられるように世話をしてやる。足下(そくか)は何としてもいう事を聞かないから仕方がない。ドウでもしなさいと言って別れたことがあります。
発狂病人一条米国より帰来
もう一ヶ条。この時に仙台の書生で、以前この塾にいて、それから亜米利加(アメリカ)に留学していた一条(いちじょう)某(なにがし)というものがあって、ソレが亜米利加(アメリカ)から帰って来ました。ところが、この男が発狂しているというのです。ソレを船中で親切に看病してくれたというのは、矢張り一条と同時に塾にいた柳本直太郎(やぎもとなおたろう)でした。これは、この間まで愛知県の書記官をしていたのですが、今では市長か何かになっているそうです。この柳本直太郎(やぎもとなおたろう)が親切に看病して、横浜に着船しました。その時は丁度(ちょうど)仙台藩がいよいよ朝敵になったときで、江戸中で仙台人と見れば見付け次第捕縛(ほばく)ということになっていました。ソコで、横浜に来たところが、まさしく仙台人ですから、捕縛しようかというに、まがう方なき発狂人だ。ドウにも手の着けようがない。その時に寺島(宗則)が横浜の奉行をしていて、発狂人は仕方がないから打遣(うちやって)置けというような事で、そのままにしてあるその中に、病人は人を疑う病症を発して、飲食物に毒があるといって一切(いっさい)受け付けず、およそ一週間余り何も飲食しないのです。飲食しないからそのまま棄てて置けば餓死してしまう。ソコでいろいろとなだめて勧めたけれども、何としても食わないのです。そうすると、不意としたことで、その病人が福澤先生に会いたいということを言い出しました。福澤は江戸にいましょう。ソコで横浜に置くならいいが、江戸に連れて行くのはドウかと思って、御奉行(寺島)に伺ったところが、御奉行様も福澤に行くと言うなら颯々(さっさ)と連れて行けというので、ソレから新銭座(しんせんざ)に連れて来ました。ソレが面白い。来たところで先ず、取り敢えず久し振りといって茶を出して、茶も飲め、ついでに飯も食えと勧めて、それから握り飯を出して、私も食べるから君も一つ食べなさい。ソレが食べられなければ、私の食べかけを半分食べなさい。毒はないじゃないかというようなことで試みたところが、ソコで食い出しました。食って見れば気狂いの事だから、今まで思っていたことは忘れてしまい、新銭座に来て安心したと見え、食気は回復しました。ソレはいいが、マダマダ病人が何をやり出すか知れないので昼夜番が要る。ところが可笑(おか)しい。その時に薩州の者もいれば土州の者もいる。その官軍一味の者がいて、朝敵だから捕縛しようというくらいな病人を助けて看柄しているのです。そうすると、仙台の者が忍んで来る。大槻(おおつき)の倅(せがれ)なども内々見舞に来て、官軍と賊軍と塾の中で混り合って、朝敵藩の病人を看病していながら、何も風波(ふうは)もなければ苦味(にがみ)もないのです。ソンナ事が塾の安全であったわけでしょう。真実、平等区別なし、疑わんとするも疑うべき種(たね)がない。一方には、脱走して賊軍に投ずるものがあるかと思えば、一方にはチャンと塾に入っている官軍もあるというような不思議な次第柄で、こういう事はつくったのじゃ出来ません。装っても出来ません。私は腹の底から偏頗(へんぱ)な考がありません。少しも幕府の事を感服しなければ、官軍の事をも感服しない。戦争するなら銘々(めいめい)勝手にしろと、裏も表もなく、その趣意(しゅい)で貫いていましたたから、私の身も塾も危ういところを無難に過ごしたことと思います。
新政府の御用召
それから、いよいよ王政維新と決まって、大阪に明治政府の仮政府が出来て、その仮政府から命令が下りました。御用があるから出て来いと一番始めに沙汰(さた)のあったのが、神田孝平(かんだたかひら)と柳川春三(やながわしゅんさん)と私と三人。ところが、柳川春三はドウも大阪に行くのは嫌だ。だから命は奉ずるけれども、御用があればドウゾ、江戸にいて勤めたいという注文。神田孝平は命に応じて行くという。私は一も二もなく病気で出られませぬと断り。その後大阪の仮政府は江戸に移って来て、江戸の新政府から、また御用召(ごようめし)で度々呼びに来ましたけれども、始終(しじゅう)断るばかりでした。あるとき、神田孝平が私のところへ是非出ろといって勧めに来たから、私はこれに答えて、
「一体君はどう思うか。男子の出処進退は銘々(めいめい)の好む通りにするがいいではないか。世間一般そうありたいものではないか。これに異論はなかろう。ソコデ僕の目から見ると、君が新政府に出たのは君の平生(へいぜい)好むところを実行しているのだから、僕は甚だ賛成するけれども、僕の身にはそれが嫌いだ。嫌いであるから出ないというものも、これまた自分の好むところを実行するのだから、君の出ているのと同じ趣意(しゅい)ではないか。されば、今僕は君の進退を賛成しているから、君もまた僕の進退を賛成して、福澤はよく引っ込んでいる。うまい、と言って誉めてこそくれそうなものだ。それを誉めもせずに呼び出しに来るとは、友達甲斐(がい)がないじゃないか。」
と大(おお)いに論じて、親友の間であるから遠慮会釈もなく、はねつけたことがあります。
学者を誉めるなら豆腐屋も誉めろ
それから、いくら呼びに来ても、政府へはモウ一切(いっさい)出ないと説を決めていたところが、ある日、細川潤次郎(ほそかわじゅんじろう)が私のところへ来たことがあります。その時は、マダ文部省というものがない時で、何でもこの政府の学校の世話をしろと言うのです。イヤ、それは行けない。自分は何もそんな事はしないと答え、それからいろいろの話もありましたが、細川の言うに、
「ドウしても政府において、ただ棄てて置くという理屈はないのだから、政府から君が国家に尽くした功労を誉めるようにしなければならぬ。」
と言うから、私は自分の説を主張して、
「誉めるの、誉められぬのと、全体ソリャ何の事だ。人間が人間、当たり前の仕事をしているに、何も不思議はない。車屋は車を引き、豆腐屋は豆腐を拵(こしら)えて、書生は書を読むというのは、人間当たり前の仕事としているのだ。その仕事をしているのを、政府が誉めるというなら、まずは隣の豆腐屋から誉めてもらわなければならぬ。ソンな事は一切よしなさい。」
と言って断ったことがあります。これも、随分暴論であります。
マア、こういうような調子で、私は酷く政府を嫌うようにあるけれども、その真実の大本(たいほん)を言えば、前に申した通り、ドウしても今度の明治政府は古風一点張りの攘夷政府と思い込んでしまったからであります。攘夷は私の何より嫌いな事で、コンな始末では、たとえ政府は替わっても、とても国は持てない。大切な日本国を滅茶苦茶にしてしまうだろう。本当にそう思ったところが、後に至って、その政府が段々文明開化の道に進んで今日に及んだというのは、実にありがたい、目出たい次第であります。ところが、その目出たかろうということが、私には始めから測量が出来ずに、ただその時に現れた実の有様に値を付けて、コンな古臭い攘夷政府を作って、馬鹿な事を働いている諸藩の分からず屋は、国を亡ぼしかねぬ奴等(やつら)じゃと思って、身は政府に近づかずに、ただ日本にいて、何か勉めてみようと安心決定(けつじょう)したことであります。
英国王子に潔身(みそぎ)の祓(はらい)
私が明治政府を攘夷政府と思ったのは、決して空(くう)に信じたのではありません。自(おの)ずから憂うべき証拠があるのです。先(ま)ず、ここに一(いっ)奇談を申せば、王政維新となって明治元年であったか二年であったか年は覚えていませんが、英吉利(イギリス)の王子が日本に来遊、東京城に参内(さんだい)することになり、表面は外国の貴賓を接待することであるから、もとより故障はなけれども、何分にも汚れた外国人を皇城に入れるというのは、ドウも不本意だというような説が政府部内に行われたものと見えて、王子入城の時に二重橋の上で潔身(みそぎ)の祓(はらい)をして内に入れたことがあります。と言うのは、夷狄(いてき)の奴は不浄の者であるからお祓(はら)いをして体(たい)を清めて入れるという意味でしょう。ところが、ソレがいい物笑いの種であります。その時に、亜米利加(アメリカ)の代理公使にポルトメンという人がいまして、毎度ワシントン政府に自分の任所(にんしょ)の模様を報知しています。けれども、余り必要でない事は大統領がその報告書を見ないのです。こっちではまた、ソレを見てもらうのが公使の名誉としています。ソコで、公使が今度英の王子入城に付き潔身(みそぎ)の祓(はらい)云々(うんぬん)の事を探り出して、大いに悦(よろこ)び、これは締(し)めた。この大奇談を報告すれば大統領が見てくれるに違いないというので、その表書(うわがき)に即(すなわ)ち、エッヂンボルフ王子の清めという可笑しな不思議な文字を書いて、中の文句はドウかというに、
「この日本は真実、自尊自大の一小鎖国にして、外国人をば畜生同様に取り扱うの常なり。既にこの程、英吉利(イギリス)の王子入城謁見(えっけん)のとき、城門外において潔身(みそぎ)の祓(はらい)を王子の身辺に施したり、抑(そ)も、潔身(みそぎ)の祓(はらい)とは、上古(じょうこ)汚れたる者を清めるに灌水法を行いしが、中世、紙の発明以来、紙をもって御幣(ごへい)なるものを作り、その御幣(ごへい)をもって人の身体を撫(な)で、水の代用として一切(いっさい)の不浄不潔を払うの故実(こじつ)あり、故(ゆえ)に、今度英の王子に施したるは、その例によることにして、日本人の眼(まなこ)をもって見れば、王子もまた、ただ不浄の畜生たるに過ぎず云々(うんぬん)。」
とて、筆を巧みに事細かに書いてやったことがあります。ソレは、私が尺振八(せきしんぱち)から詳らかに聞きました。この尺振八(せきしんぱち)という人はその時、亜米利加(アメリカ)公使館の通弁をしていたので、尺(せき)が私のところに来て、この間(あいだ)、これこれの話、大笑いではないかといって、その事実もその書面の文句も私に親しく話して聞かせましたが、実に苦々しい事で、私はこれを聞いて笑いどころではない。泣きたく思いました。
米国前の国務卿又日本を評す
またその頃、亜米利加(アメリカ)の前国務卿シーワルトという人が、令嬢と同伴して日本に来遊したことがあります。この人は、米国の有名な政治家で、彼(か)の南北戦争のとき、専(もっぱ)ら事に当たって、リンコルンの遭難と同時に、兇徒に傷つけられたこともある人です。元来(がんらい)、英国人とは反りが合わずに、いわば日本贔屓(びいき)の人でありながら、今度来遊しました。その日本の実際を見て、何分にも贔屓(ひいき)が出来ぬ。こんな根性の人民では、気の毒ながら自立は難しいと断言したこともあります。ソコデ、私の見るところで、新政府人の挙動はすべて儒教の糟粕(そうはく)を嘗(な)め、古学の固陋(ころう)主義より割り出して空威張(からいばり)するのみ。顧(かえ)りみて、外国人の評論を聞けば右の通り。とても、これは仕方がないと真実落胆したれども、左(さ)りとて、自分は日本人なり、無為にしてはいられず、政治はともかくも、これを成り行きに任せて、自分は自分にて聊(いささ)か、身に覚えたる洋学を後進生に教え、また根気のあらん限り著書飜訳(ほんやく)の事を勉(つと)めて、万が一にもこの民(たみ)を文明に導くの僥倖(ぎょうこう)もあらんかと、頼り少なくも独り身構えした事であります。
子供の行末を思う
その時の私の心事は実に淋しい有様(ありさま)で、人に話したことはないですが、今、打ち明けて懺悔(ざんげ)しましょう。維新前後、無茶苦茶の形勢を見て、とてもこの有様では国の独立は難しい。他年一日外国人から、いかなる侮辱(ぶじょく)を被るかも知れぬ。さればとて、今日全国中の東西南北、何(いず)れを見ても共に語るべき人はない。自分一人では勿論(もちろん)何事も出来ず、またその勇気もない。実に情ない事であるが、いよいよ外人が手を出して跋扈(ばっこ)乱暴というときには、自分は何とかしてその禍(わざわい)を避けるとするも、行く先の永い子供は可哀そうだ。一命に掛けても、外国人の奴隷にはしたくない。あるいは、耶蘇宗(やそしゅう)の坊主にして、政事人事の外に独立させては如何(いかん)。自力自食して他人の厄介にならず、その身は宗教の坊主といえば、自(おの)ずから辱(はずかし)めを免れることもあらんかと、自分に宗教の信心はなくして、子を思うの心より坊主にしようなどと種々(しゅじゅ)無量に考えたことがありますが、三十年の今日より回想すれば、恍として夢の如し。ただ、今日は世運の文明開化を有難く拝するばかりです。
授業料の濫觴(らんしょう)
さて、鉄砲洲(てっぽうず)の塾を芝(しば)の新銭座(しんせんざ)に移したのは、明治元年、即ち慶応四年。明治改元の前でありしゆえ、塾の名を時の年号に取って慶應義塾と名づけました。一時、散じた生徒も次第に帰来して、塾は次第に盛んになりました。塾が盛んになって生徒が多くなれば、塾舎の取り締まりも必要になるからして、塾則のようなものを書いて、これも写本は手間が取れるというので版本にして、一冊ずつ生徒に渡しました。ソレには色々箇条のある中に、生徒から毎月金を取るということも慶應義塾が始めた新案であります。従前、日本の私塾では支那風を真似たのか、生徒入学の時には束脩(そくしゅう)を納めて、教授する人を先生と仰(あお)ぎ奉(たてまつ)り、入学の後も盆暮(ぼんくれ)両度ぐらいに、生徒銘々(めいめい)の分に応じて金子(きんす)なり、品物なり熨斗(のし)を付けて先生家に進上する習わしでありましたが、私共の考えに、とてもこんな事では活溌に働く者はない。教授も矢張り人間の仕事だ。人間が人間の仕事をして金を取るに何の不都合がある。構うことはないから公然価(あたい)を決めて取るがよい、というので、授業料という名を作って、生徒一人から毎月金(きん)二分(にぶ)ずつ取立て、その生徒には塾中の先進生が教えることにしました。その時、塾に眠食する先進長者は、月に金四両あれば食うことが出来たので、ソコで毎月生徒の持って来た授業料を掻(か)き集めて、教師の頭に四両ずつ行き渡れば死にはせぬと、大本(だいほん)を定めて、その上に尚(なお)余りがあれば、塾舎の入用にすることにしていました。今では授業料なんぞは普通当然のようにありますが、ソレを初めて行った時は、実に天下の耳目を驚かしました。生徒に向かって金二分持って来い。水引きも要らなければ、熨斗(のし)も要らない。一両持もって来れば釣りをやるぞというように触れ込んでも、ソレでもちゃんと水引を掛けて持って来るものもありました。ソウスルと、こんな物があると札を検(あらた)めるのに邪魔になるといって、わざと上包を返してやるなどは、随分と殺風景なことで、世間の人の驚いたのも無理はありませんが、今日それが日本国中の風俗習慣になって、何ともなくなったのは面白いことです。何事によらず、新工風(しんくふう)をめぐらして、これを実地に行うというのは、その事の大小を問わず、余程の無鉄砲でなければ出来たことではありません。さる代わりに、それが首尾よくまいって、いつの間にか世間一般の風(ふう)になれば、私のためにはあたかも心願成就で、こんな愉快なことはありません。
上野の戦争
新銭座(しんせんざ)の塾は、幸いに兵火のために焼けもせず、教場もどうやら、こうやら、整理しましたが、世間は中々喧(やかま)しかったです。明治元年の五月、上野に大戦争が始まって、その前後は江戸市中の芝居も寄席(よせ)も見世物も料理茶屋も、皆休んでしまって、八百八町は真の闇でした。何が何やら分からない程の混乱なれども、私はその戦争の日も塾の課業をやめませんでした。上野ではどんどん鉄砲を打っていて、けれども上野と新銭座とは二里も離れていて、鉄砲玉の飛んで来る気遣いはないというので、丁度あの時、私は英書で経済(エコノミー)の講釈をしていました。大分騒々しい容子だが烟(けぶり)でも見えるかというので、生徒等は面白がって梯子(はしご)に登って屋根の上から見物していました。何でも昼から暮れ過ぎまでの戦争でしたが、こちらに関係がなければ怖い事もありません。
日本国中唯慶應義塾のみ
こっちがこの通りに落ち付き払っていれば、世の中は広いもので、また妙なもので、兵馬騒乱の中にも西洋の事を知りたいという気風はどこかに流行して、上野の騒動が済むと、奥州の戦争となり、その最中にも生徒は続々入学して来て、塾はますます盛んになりました。顧(かえり)みて世間を見れば、徳川の学校は勿論潰れてしまい、その教師さえも行方が分からぬくらいでした。まして、維新政府は学校どころの場合でありません。日本国中、いやしくも書を読んでいるところはただ慶應義塾ばかりという有様(ありさま)で、その時に私が塾の者に語ったことがあります。昔し、昔し、拿破翁(ナポレオン)の乱に和蘭(オランダ)国の運命は断絶して、本国は申すに及ばず印度(インド)地方までことごとく取られてしまって、国旗を挙げる場所がなくなった。ところが、世界中、わずかに一箇処が残りました。ソレは即ち日本長崎の出島であります。出島は年来和蘭(オランダ)人の居留地で、欧洲兵乱の影響も日本には及ばずして、出島の国旗は常に百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)に飜々(へんぺん)して和蘭(オランダ)王国は曾(かつて)滅亡したることなしと、今でも和蘭(オランダ)人が誇っています。シテ見ると、この慶應義塾は日本の洋学のためには和蘭(オランダ)の出島と同様、世の中にいかなる騒動があっても変乱があっても、未(いま)だ曾(かつて)、洋学の命脈を断やしたことはないぞよ。慶應義塾は一日も休業したことはない。この塾のあらん限り、大日本は世界の文明国である。世間に頓着(とんじゃく)するなと申して、大勢の少年を励ましたことがあります。
塾の始末に困る、楽書無用
それはそれとして、また一方から見れば、塾生の始末には誠に骨が折れました。戦争後、意外に人の数は増したのですが、その人はどんな種類の者かというに、去年から出陣してさんざん奥州地方で戦って、漸(ようや)く除隊になって、国には帰らずに鉄砲を棄てて、そのまま塾に来たというような少年生が中々多かったのです。中にも、土佐の若武者などは長い朱鞘(しゅざや)の大小を挟(さ)して、鉄砲こそ持っていませんが、今にも斬って掛かろうというような、恐ろしい顔色(がんしょく)をしています。そうかと思うと、その若武者が紅(あか)い女の着物を着ている。これはドウしたのかというと、会津で分捕りした着物だといって威張っている。実に血腥(ちなまぐさ)い怖い人物で、一見、先ず手の着けようがないのです。ソコデ、私は前に申した通り、新銭座の塾を立てると同時に、極めて簡単な塾則を拵(こしら)えて、塾中、金の貸借(かしかり)は一切(いっさい)相成らぬ。寝るときは寝て、起きるときは起き、食うときには定めの時間に食堂に出る。それから、楽書(らくがき)一切(いっさい)相成らぬ。壁や障子に楽書を禁ずるは勿論(もちろん)、自分所有の行灯(あんどう)にも、机にも一切の品物に楽書は相成(あいな)らぬというくらいの箇条で、既に規則を決めた以上は、ソレを実行しなくてはなりません。ソコで、障子に楽書してあれば、私は小刀をもってそこだけ切り破って、この部屋にいる者が元の通りに張れと申し付けました。それから、行灯(あんどう)に書いてあれば、誰の行灯(あんどう)でも構わぬ、その持主を咎(とが)めると、時としては、その者が、
「これは自分でない。人の書いたのです。」
といっても私は許しません。人が書いたというのは言い訳にならぬ。自分の行灯(あんどう)に楽書(らくがき)されてソレを見ているというのは馬鹿だ。馬鹿の罰に早々張替えるがよろしい。楽書した行灯(あんどう)は塾に置かぬ。破るからアトを張っておきなさい、と言うようにして、寸毫(すんごう)も仮さない。いかに血腥(ちなまぐさ)い若武者が何と言おうとも、そんな事を恐れていられない。ミシミシ遣付(やっつ)けてやる。名は忘れたが、不図(ふと)見たところが、桐の枕に如何(いかが)な楽書がしてある。
「コリャ何だ。銘々(めいめい)の私有品でも楽書は一切相成らぬと言ったではないか。ドウいう訳けだ。一句の返答も出来なかろう。この枕は、私は削りたいけれども削ることが出来ない。打毀(ぶちこわ)すから代わりを取とって来なさい。」
と言って、その枕を取り上げて足で踏み潰して、サアどうでもしろ、攫(つか)み掛かって来るなら相手になろう、と言わぬばかりの思惑を示したところで、決して掛かってきません。全体、私は骨格(からだ)は少し大きいのですが、本当は柔術も何も知りません。生まれてから、人を打ったこともない男だけれども、その権幕(けんまく)はドウも撃ちそうな、攫(つか)み掛かりそうな気色(けしき)で、口の法螺(ほら)でなくして身体(からだ)の法螺で吹き倒しました。ところが、皆小さくなって言うことを聞くようになって来て、ソレでマア戦争帰りの血腥(なまぐさ)い奴も自(おの)ずから静かになって、塾の治まりが付き、その中には真成(ほんとう)に大人しい学者風の少年も多く、至極(しごく)勉強して、ますます塾風を高尚にして、明治四年まで新銭座(しんせんざ)にいました。
始めて文部省
維新の騒乱も程なく治まって。天下太平に向いて来ましたが、新政府はマダマダ跡の片付けが容易な事でなくして、明治五、六年までは教育に手を着けることが出来ないので、専(もっぱ)ら、洋学を教えるは矢張り慶應義塾ばかりでありました。何でも、廃藩置県の後に至るまでは、慶應義塾ばかりが洋学を専らにして、ソレから文部省というものが出来て、政府も大層(たいそう)教育に力を用うることになってきました。義塾は、相変らず元の通りに生徒を教えていて、生徒の数も段々増えて、塾生の数は常に二百から三百ばかりいました。教えるところの事は、一切(いっさい)英学と定め、英書を読み、英語を解するようにとばかり教導して、古来、日本で行われる漢学には重きを置かぬという風(ふう)にしたので、その時の生徒の中には、漢書を読むことの出来ない者が随分(ずいぶん)ありました。漢書を読まずに英語ばかりを勉強するから、英書は何でも読めるが日本の手紙が読めないというような少年が出来てきました。物事がアベコベになって、世間では漢書を読んでから英書を学ぶというのを、こちらでは英書を学んでから漢書を学ぶという者もありました。波多野承五郎(はたのしょうごろう)などは、小供の時から英書ばかり勉強していたので、日本の手紙が読めなかったが、生まれ付き文才があり、気力のある少年だから、英学のあとで漢書を学べば造作もなく漢学が出来て、今ではあの通り、何でも不自由なく立派な学者になっています。
教育の方針は数理と独立
畢竟(ひっきょう)、私がこの日本に洋学を盛んにして、どうでもして西洋流の文明富強国にしたいという熱心で、その趣は、慶應義塾を西洋文明の案内者にして、あたかも、東道の主人となり、西洋流の一手販売、特別エゼントとでもいうような役を勤めて、外国人に頼まれもせぬ事をやっていたから、古風で頑固な日本人に嫌われたのも無理はありません。元来(がんらい)、私の教育主義は、自然の原則に重きを置いて、数と理と、この二つのものをもとにして、人間万事有形の経営は、すべてソレから割り出して行きたいというものです。また、一方の道徳論においては、人生を万物中の至尊(しそん)至霊(しれい)のものなりと認め、自尊(じそん)自重(じちょう)、苟(いやしく)も、卑劣な事は出来ません。不品行な事は出来ません。不仁(ふじん)不義(ふぎ)、不忠(ふちゅう)不孝(ふこう)、ソンな浅ましい事は誰に頼まれても、何事に切迫しても出来ないと、一身を高尚(こうしょう)至極(しごく)にし、所謂(いわゆる)独立の点に安心するようにしたいものだと、まず土台を定めて、一心不乱に、ただこの主義にのみ心を用いたというそのわけは、古来、東洋西洋相対(あいたい)して、その進歩の前後遅速を見れば、実に大造(たいそう)な相違であります。双方、共々に、道徳の教えもあり、経済の議論もあり、文に武におのおの、長所短所あるものの、さて国勢の大体より見れば富国強兵、最大多数、最大幸福の一段に至れば、東洋国は西洋国の下にいると言わざるを得ません。国勢の如何(いかん)は、果たして国民の教育より来るものとすれば、双方の教育法に相違がなくてはなりません。ソコで、東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較して見るに、東洋になきものは、有形において数理学と、無形において独立心と、この二点であります。かの政治家が国事を料理するも、実業家が商売工業を働くも、国民が報国の念に富み、家族が団欒(だんらん)の情に濃(こ)まやかなるも、その大本(たいほん)を尋ねれば、自(おの)ずから由来するところが分かります。近く論ずれば、今の所謂(いわゆる)立国の有らん限り、遠く思えば人類のあらん限り、人間万事、数理のほかに逸(い)っすることは叶わず、独立の外(ほか)によるところなしというべきこの大切なる一義を、我日本国においては軽くみているのです。これでは差(さし)向き、国を開いて西洋諸強国と肩を並べることは出来そうにもありません。全く漢学教育の罪であると深く自ら信じて、資本もない不完全な私塾に専門科を設けるなどは、とても及ばぬ事ながら、出来る限りは数理をもとにして教育の方針を定め、一方には独立論の主義を唱えて、朝夕(ちょうせき)一寸(ちょっと)した話の端(はし)にもその必要を語り、あるいは演説に説き、あるいは筆記に記しなどしてその方針に導き、また自分にも様々工風(くふう)して躬行実践(きゅうこうじっせん)を勉め、ますます漢学が不信仰になりました。今日にても、本塾の旧生徒が社会の実地に乗り出して、その身分職業の如何(いかん)にかかわらず、物の数理に迂闊(うかつ)ならず、気品高尚にしてよく独立の趣意(しゅい)を全うする者ありと聞けば、これが老余の一大楽事です。
右の通り、私はただ漢学が不信仰で、漢学に重きを置かぬばかりでなく、一歩を進めて所謂(いわゆる)腐儒の腐説を一掃してやろうと、若い時から心掛けました。ソコで、尋常一様の洋学者や通詞(つうじ)などいうような者が漢学者の事を悪く言うのは普通の話で、余り毒にもなりません。ところが、私は随分(ずいぶん)漢書を読んでいます。読んでいながら知らない風(ふう)をして、毒々しい事を言うから憎まれずにはいられないのです。他人に対しては、真実素人のような風をしているけれども、漢学者の使う故事などは大抵知っています。と言うのは、前にも申した通り、少年の時から難しい経史をやかましい先生に授けられて、本当に勉強しました。左国史漢は勿論(もちろん)、詩経、書経のような経義(けいぎ)でも、または、老子、荘子のような妙な面白いものでも、先生の講義を聞き、また自分でも研究しました。これは、豊前(ぶぜん)中津(なかつ)の大儒白石(しらいし)先生の賜(たまもの)であります。どの経史の義を知って、知らぬ風(ふう)をして、折々漢学の急処のような所を押さえて、話にも書いたものにも無遠慮に攻撃するから、これぞ所謂(いわゆる)獅子身中(しんちゅう)の虫で、漢学にとっては、私は実に悪い外道(げどう)であります。かくまでに私が漢学を敵にしたのは、今の開国の時節に、古く腐れた漢説が後進少年生の脳中に蟠(わだかま)っては、とても西洋の文明が国に入ることが出来ないと、あくまでも信じて疑わず、いかにもして彼等を救い出して、我が信ずる所に導かんと、有らん限りの力を尽くし、私の真面目(しんめんもく)を申せば、日本国中の漢学者は皆来い、おれが一人で相手になろうというような決心でありました。ソコで、政府を始め、世間一般の有様を見れば、文明の教育稍々(やや)普(あまね)しといえども、中年以上の重なる人は、とても洋学の佳境に入ることは出来ず、何か事をはかり事を断ずる時には、余儀なく漢書を頼りにして、万事ソレから割り出すという風潮の中にいて、その大切な霊妙不思議な漢学の大主義を頭から見下して敵にしているから、私の身のためには随分(ずいぶん)危ない事でありました。
著書飜訳一切独立
また、維新前後は私が著書飜訳(ほんやく)を勉めた時代で、その著訳書の由来は、福澤全集の緒言(ちょげん)に記してあるから、これは略しますが、元来(がんらい)私の著訳は、真実私一人の発意(ほつい)で、他人の差図も受けねば、他人に相談もせず、自分の思う通りに執筆して、時の漢学者は無論、朋友たる洋学者へ草稿を見せたこともなければ、ましてや序文題字など頼んだこともありません。これも余り殺風景で、実は当時の故老先生とかいう人に序文でも書かせた方がよかったかも知れませんが、私はそれが嫌いなのです。ソンな事かたがたで、私の著訳書は事実のいかんに拘(かか)わらず、古風な人の気に入るはずはないのです。ソレでも、その書が殊更(ことさら)に大いに流行したのは、文明開国の勢いに乗じたことでありましょう。
義塾三田に移る
慶應義塾が芝(しば)の新銭座(しんせんざ)を去って、三田の只(ただ)今の所に移ったのは明治四年でした。これも塾の一大改革ですから、一通り語りましょう。その前年五月、私が酷い熱病に罹(かか)り、病後神経が過敏になったせいか、新銭座の地所が何か臭いように鼻に感じるようになりました。また、事実湿地でもあるから、どこかに引き移りたいと思い、飯倉(いいくら)の方に相当の売家を捜し出して、略(ほぼ)相談を決めようとするときに、塾の人の申すに、福澤が塾を棄てて他に移るなら、塾も一緒に移ろうという説が起こりました。その時には、東京中に大名屋敷が幾らもあるので、塾の人は毎日のように方々(ほうぼう)の空き屋敷を捜してまわり、そこでもない、ここでもない、と勝手次第によさそうな地所を見立てて、いよいよ芝の三田にある島原藩の中屋敷が高燥(こうそう)の地で海浜(かいひん)の眺望も良し、塾には適当だと衆論一決はしたれども、こっちの説が決したばかりで、その屋敷は他人の屋敷であるから、これを手に入れるには東京府に頼み、政府から島原藩に上地(じょうち)を命じて、改めて福澤に貸し渡すという趣向にしなければなりません。ソレには、政府の筋に内談して出来るように拵(こしら)えねばならぬというので、時の東京府知事に頼み込むは勿論(もちろん)、私の平生(へいぜい)知っている佐野常民(さのつねたみ)、その他の人にも事の次第を語りて助力を求め、塾の先進生が総がかりにて運動しました。ある日、私は岩倉公の家に参って、初めて推参なれども、御目に掛かりたいと申し込んで公に面会し、色々と塾の事情を話して、つまり島原藩の屋敷を拝借したいという事を内願して、これも快く引き受けてくれることになりました。どこも、ここも、至極(しごく)都合のよい折柄、幸いにも東京府から私に頼む事が出来て来たというのは、当時、東京の取り締まりには邏卒(らそつ)とか何とかいう名を付けて、諸藩の兵士が鉄砲を担いで市中を巡廻(じゅんかい)しているその有様(ありさま)の殺風景とも何とも、まるで戦地のように見えました。政府も、これをよくないことと思い、西洋風にポリスの仕組に改革しようと心付きはしたのですが、さてそのポリスとは全体ドンなものであるか、概略でもよろしい、取り調べてくれぬかと、役人が私方に来て懇々と内談するその様子は、この取り調べさえ出来れば何か礼をするというように見えるから、こっちは得たり賢し、お易(やす)い御用で御座ござる。早速、取り調べて上げましょうが、私の方からも願いの筋(すじ)があります。兼ねて長官へ内々御話いたしたこともある通り、三田の島原の屋敷地を拝借いたしたい。これだけは、厚く御含みを願うというは、巡査法の取り調べと屋敷地の拝借と交易にしようというような塩梅(あんばい)に持ち掛けて、役人も否(いな)といわずに黙諾(もくだく)して帰りました。ソレから、私は色々な原書を集めて警察法に関する部分を飜訳(ほんやく)し、綴(つづ)り合わせて一冊に認(したた)め、早々清書して差し出しました。東京府では、この飜訳を種(たね)にして、尚(なお)市中の実際を斟酌(しんしゃく)し、様々に工風して、断然彼(か)の兵士の巡廻(じゅんかい)を廃し、改めて巡邏(じゅんら)というものを組織し、後にこれを巡査と改名して、東京市中に平和穏当の取締法が出来ました。ソコで、東京府も私に対して自(おの)ずから義理が出来たようなわけで、屋敷地の一条もスラスラ行われて、島原の屋敷を上地させて福澤に拝借と公然命令書が下り、地所一万何千坪は拝借しました。建物六百何十坪は一坪一円の割合にて、所謂(いわゆる)大名の御殿二棟、長屋幾棟の代価六百何十円を納めて、いよいよ塾を移したのが明治四年の春でした。
敬礼を止める
引越してみれば、誠に広々とした屋敷で申し分なしでした。御殿を教場にし、長局(ながつぼね)を書生部屋にして、尚足らぬところは、諸方諸屋敷の古長屋を安く買い取って寄宿舎を作りなどして、にわかに大きな学塾になると同時に、入学生の数も次第に多くなり、この移転の一挙をもって慶應義塾の面目を新たにしました。ついでながら、一奇談を語りましょう。新銭座(しんせんざ)入塾から三田に引越し、屋敷地の広さは三十倍にもなり、建物の広大な事も新旧比べものにならないほどでした。新塾の教場、即ち御殿の廊下などは九尺巾(きゅうしゃくはば)もあります。私は毎日、塾中を見廻り、日曜はことに掃除日と定めて、書生部屋の隅まで一々検(あらた)め、大小便所の内まで私が自分で戸を明けて、細かに見るというようにしていたから、一日に幾度も廊下を通って、幾人の書生に逢うか知れないのです。ところが、その行き逢う毎(ごと)に、新入生などは勝手を知らずに、私の顔を見ると丁寧にお辞儀(じぎ)をします。先方から丁寧にやれば、こっちもこれに応じて辞儀をしなければなりません。忙しい中にウルサクて堪らないのです。ソレから、先進の教師連に尋ねて、
「廊下で書生のお辞儀(じぎ)に困りはせぬか。双方の手間潰(てまつぶ)しだが。」と言うと、いずれも同様、
「塾が広くなって、家の内の御辞儀には閉口している。」と言うから、
「よし来た、おれが広告を掲示してやる。」といって、
「塾中の生徒は長者に対するのみならず、相互(あいたがい)の間にも粗暴無礼はもとより禁ずるところなれども、講堂の廊下、その他、塾舎の内外往来頻繁の場所にては、たとえ教師、先進者に行き逢うとも、丁寧に辞儀するは無用の沙汰(さた)なり。互いに相見て、互いに目礼をもって足るべし。益もなき虚飾に時を費やすは、学生の本色にあらず。この段、心得のために掲示す。」
と張紙をして、生徒のお辞儀を止めた事があります。長者に対して辞儀をするなと言えば、横風(おうふう)になれ、礼儀を忘れよというように聞こえて、奇なように思われますが、その時の事情は決してそうではありません。百千年来圧制の下に養われて、官民共に一般の習慣を成したるこの国民の気風を活溌に導かんとするには、お辞儀の廃止も自(おの)ずから一時の方便で、その功能はたしかに見えました。今でも塾にはコンな風がのこって、生徒取扱いの法は塾の規則に従い、不法の者があれば会釈なくミシミシ遣り付けて、寸毫(すんごう)も仮(か)さず、生徒に不平があれば、皆出て行け、こっちは何ともないと、チャンと説を決めて思う様に制御しておれども、教師その他に対して入らざる事に敬礼なんかんというような、田舎らしい事は塾の習慣において許しませんでした。さればとて、本塾の生徒に限って粗暴な者が多いでもなし、一方から見て幾分かその気品の高尚にして男らしいのは、虚礼(きょれい)虚飾(きょしょく)を脱したその功徳(くどく)であろうと思われます。
地所払下
三田の屋敷は福澤諭吉の拝借地になって、地租もなければ借地料もなし。あたかも、私有地のようではありますが、何分にも拝借といえば、いつ立ち退きを命じられるかも知れず、東京市中を見れば、私同様、官地を拝借している者は甚だ多く、いずれも不安心に違いないと推察が出来ました。どうにかして、これを御払い下げにしてもらいたいと、様々思案の折柄、当時政府に左院と称して議政局のようなものが立っていて、その左院の議員中に懇意(こんい)の人があるからその人に面会して、何か話のついでに拝借地の有名無実なるを説きました。等しく官地を使用せしむるならば、これを私有地にして銘々(めいめい)に地所保存の謀(はかりごと)を為(な)さしむるに若(し)かずと、しきりに利害を論じてその人の建言(けんげん)を促したるは毎度の事でした。その他、政府の筋の人にさえ逢えば同様の事を語るの常なりしが、明治四年の頃、それかあらぬか、政府は市中の拝借地をその借地人、または縁故ある者に払い下げるとの風聞(ふうぶん)が聞こえました。これは妙なりと大いに喜び、その時、東京府の課長に福田という人が専ら地所の事を取り扱うという事を聞き伝え、早速、福田の私宅を尋ねて委細の事実を確かめ、いよいよ発令の時には知らしてくれることに約束して、帰宅して日々便りを待っていると、数日の後に至り、今日発令したと報知が来たから、暫時(しばし)も猶予は出来ませんでした。翌朝、東京府に代理の者を差し出し、御払い下げを願うて、代金を上納せんと金を出したところが、府庁にも昨日発令したばかりで出願者は一人もなし。マダ帳簿も出来ず、上納金請取の書式も出来ずというから、その正式の請取は後日の事として、今日はただ金子(きんす)だけの御収納を願うといって、強いて金を渡して、仮り御払い下げの姿を成してきました。その後、地所代価収領の本証書も下りて、いよいよ私の私有地となり、地券面本邸の外に附属の町地面を合わして一万三千何百坪、本邸の方は千坪に付き価(あたい)十五円、町地(まちぢ)の方は割合に高く、両様共算して五百何十円とは、ほとんど無代価と申してよろしい。その代価の事はともかくもとして、かく私が事を性急にしたのは、この屋敷に久しく住居(じゅうきょ)すればするほど、いよいよ、ますますいい屋敷になって来て、実に東京第一、他に匹敵するものはないと自ら感心して、塾員と共に満足すると同時に、これを私有地にするといえば何か故障の起こりそうな事だと、俗にいう虫が知らせるような塩梅(あんばい)でした。何だか気になるから無暗に急いで埓(らち)を明けたところが、果たして然(しか)り、東京の諸屋敷地を払い下げるという風聞が、段々世間に知れ渡ったその時に、島原藩士何某が私方にやって来て、当屋敷は由緒ある拝領屋敷なるゆえ、主人島原藩主より御払い下げを願う。こっちへ御譲渡(ごじょうと)して下されいと捩(ね)じ込んで来たから、私は一切知らず、この地所のむかしが誰のものでありしや、それさえ心得ていない。とにかくに、私は東京府から御払いの地所を買い請けたまでの事なれば、府の命に服従するのみ。何か思(おぼ)し召しもあらば府庁へ御談(おだんじ)然(しか)るべしと刎(は)ね付けました。スルと先方も中々渋(しぶ)とい。再三再四やって来て、とうとうしまいには屋敷を半折して半分ずつ持とうというから、これも不承知。地所の事は島原藩と福澤と直談すべき性質のものでないから御返答は致さぬ。一切万事、君、それこれを東京府に聞けという調子に構えていて、難しい談判も立ち消えになったのは有難かったです。今日になって見れば、東京中を尋ね廻(まわ)っても、慶應義塾の地所と甲乙を争う屋敷は一箇所もありません。正味一万四千坪、土地は高燥(こうそう)にして平面、海に面して前に遮るものなし、空気清く眺望佳(か)なり。義塾唯一の資産にして、今これを売ろうとしたらば、むかし御払い下げの原価五百何十円は、百倍でない千倍になりましょう。義塾の慾張(よくばり)、時節を待って千倍にも二千倍にもしてやろうと、若い塾員達はリキンでます。
教員金の多少を争う
右の通り、三田の新塾は万事都合よく行われて、塾の資本金こそ皆無なれ、生徒から毎月の授業料を取り集めて、これを教師に分配して、どうやら、こうやら、立ち行くその中にも、教師は皆、本塾の先進生であるから、この塾にいて余計な金を取ろうという考えはないのです。第一、私が一銭でも塾の金を取らぬのみか、普請(ふしん)の時などには毎度こっちから金を出してやります。教師達もその通りで、外に出れば、随分(ずいぶん)給料の取れるのを取らずに塾の事を勤めるから、これも私金を出すと同じ事であります。およそコンナ風で、無資金の塾も維持が出来ましたが、その時の真面目(しんめんもく)を申せば、月末などに金を分配するとき、ややもすれば教師の間に議論が起こるその議論は、即ち金の多少を争う議論で、僕はコンなに多く取るわけはない。君の方が少ない、と言うと、
「イヤそうでない。僕はこれで沢山だ。イヤ多い、少ない。」と喧嘩のようにいってるから、私は側(そば)から見て、
「ソリゃ、また始まった。大概にしておきなさい。ドウせ足りない金だから、いい加減にして分けてしまえ。争う程の事でもない。」と毎度笑っていました。
この通りで、慶應義塾の成り立ちは、教師の人々がこの塾を自分のものと思って勉強したからの事です。決して、私一人の力に叶う事ではありません。人間万事、余り世話をせずに放任主義の方が良いかと思われます。その後、時勢も次第に進歩するに従い、塾の維持金を集め、また大学部のためにも募り、近来はまた重ねて募集金を始めましたが、これも私は余り深く関係せず、一切の事を塾出身の若い人に任せています。
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