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五十歳。何がめでたい。

50歳になっちゃった

2024年6月30日に私は50歳になった。
まだ1週間前なので、なりたてホヤホヤの50歳だ。
始めに断っておくが、この記事は「年齢なんて関係ない!50なんてただのナンバー!」のようなひたすらポジティブな内容ではない。
タイトルのような「何もめでたいことなんてねえ!」みたいな愚痴である。
同世代の人が読んで「そうそう、そうだよねー」って共感してもらえたら嬉しいし、若い人が何らかの「目安」にしてくれたらそれも嬉しいかなと思う。

パーティーが終わったあとは

phaさんのパーティーが終わって、中年が始まる
というアラフィフの心境(phaさんは46歳だ)を書いたエッセイがあるのだけど、まさにその本のタイトルような気持ちだ。
40代のうちは何となくチーム30代・40代みたいな気分だったので、30代の開催するパーティにどさくさ紛れに参加しているような気分があった。そしてそれがまだ40代ならギリギリ許されているような気もしていた。それが50代になってそのパーティー会場の入り口のところに並んでいると、警備員みたいな人に「お客さんはそっちじゃないですよー!こっちですよー!」と呼ばれて、50代・60代グループの方に並ばされてしまった、みたいな心境だ。
50になるのは当たり前だけど分かってたし、なんなら46くらいから「私は50なんだ」と自分に言い聞かせ訓練してきたつもりだ。
それでもやっぱり50歳の誕生日は受け入れ難いものだった。受け入れるも何も、断るという選択肢はないわけですけど。
わがまま?往生際が悪い?
いいえ、そういう女性は(男性も)多いはず。
ほら、ケイト・モスだってそうなんだから。

20代、30代の頃って、50代なんてまだものすごーーーく遠い先の話で、それってまるで別世界で起きる出来事みたいに思ってた。
なのに、こんなにもあっけなくなっちゃった!それも予想してた以上に早く。
村上春樹氏が何かのエッセイで、30歳になった時に「こんな風にスルスルと歳を取るんだなと思った」みたいなことを書いてた。
そうそう、本当にスルスルとエレベータで30代から40代、そして50代と上ってきたような感じだ。
そして人生も、こんな風にスルスルと最上階まで行ってあっけなく終わりを迎えるんだろうなと、今はリアルに実感できる。

手放してスッキリ

50を前に心理的かつ物理的な断捨離をした。
コロナ禍の混乱期に便乗したかたちだったけど、友人や知り合いをごっそり減らした。何となく参加していたLINEグループのメンバーとか、その類の人たちだ。こっちから連絡をやめたら、向こうもスパッと何も連絡しなくなってきたら、どのみちお互いにその程度の関係だったんだろう。
女子会ランチだとか、飲み会だとか、そういうのをなんとなくキープしとかないとって思ってたんだよね。一人ぼっちって思われるのが怖かったからかな。今じゃランチも基本1人だし、家飲み専門になって飲みにも行かない。
そして結局、本当の友達は2人だけ残った。これで十分だ。2人もいてありがたいくらいだ。あとは家族がいればそれで満足。
服もごっそり減らした。本当に着ていて心地よくて気分が上がる服だけを残した。つまり1軍の服だけを残したのだ。そしたらほとんど残らなかった。「使えそう」とか「安い」からという理由で買った2軍3軍の服が大半だったのだ。今は数少ないお気に入りの服だけを着ているから「いつも同じ服を着ている人」と思われてるかもしれない。それでも全く構わない。もう他人からどう思われるかを気にして、好きじゃない服を着ているほど人生は長くないのだ。「とっておき」をずっととっておくと、気づいたら時間がなくなってしまうというに気づくのに50年かかってしまった。

若い人に対しての感情

若い人を「羨ましい」から「かわいい」と思うようになった。
嫌味でもなく強がりでもなくて、本当に、純粋にそう思う。
次の世代に託したいとかそんな高尚なもんじゃなくて、
ただ単に若い人を見ていると微笑ましいのだ。
飲み屋でバカ騒ぎしてる若い連中だって、昔は眉をひそめて不愉快になったことが今はそれすらも微笑ましい。職場にいる20代の女の子の愚痴を聞いてるのも楽しい。
自分でもびっくりしている。
私はどちらかといえば、そんなに寛容なタイプではなく「許せない」ことが多い人間だ。
それが明らかにここ数年で変わりつつある。
もしかして、これが歳とれば丸くなるってやつ?

老眼について

最後にどうしても老眼の話をさせてほしい。
老眼は思っていた以上に厄介だという話。
とにかく「老い」がまっさきに現れるのは目!
白髪とか顔の皺とかは個人差があるけれど、老眼だけは金持ちだろうが貧乏だろうが、美人でもそうでない人も、神様がきっちりと平等に与えて下さいます。
今じゃ「近くの物を見る時にはメガネを上にズラす」という老眼持ち鉄板の動きも様になってしまった。
そして老眼になって分かったこと。
「近眼はコンタクトやメガネさえ着けていれば解決できた。でも老眼が老眼鏡をかければそれで全てOKということではない。」
どういうことかといえば、近眼と老眼の間の微妙な位置にあるものがいつもぼんやりしてピントが合わないのだ。たとえば、食事をしている時の皿の上の食べ物とか。
これが魚とか骨のあるものを食べる時は大変。
あと、もれなく飛蚊症も発症した。
でも不思議なことに、不便ながらも慣れてしまった。
私がアラフォーくらいの時にアラフィフの知り合いが「何か色々見えなくなってきてイライラするわー!」みたいなこと言ってて、ああ!まさにこれだったんだな!と10年の時を経て、満を持して理解できるわけです。

やっぱり最後は継続する力だ

色々ととりとめもなく書いてしまったけど、
まぁ50になって決してハッピーな気分じゃないけど最悪ってほどでもない。
残りの寿命を失って得るものもあるなという感じ。
世間って若者には期待するけど、老年者には期待しないんだから、
だったらどうでもいいことをじゃんじゃんやっていこう。
もう「将来」ってやつもそんなに長くないんだから、「そんなことやって将来なんの役に立つの?」って言ってくるやつもいないでしょ。
これは歳を取ったことの特権であり、存分に謳歌しなくてはと思う。
まずは目標としてアウトプットを継続していきたい。
例えばこのnoteのように、インスタでもいいし、現在進行中のことをSNSで発信していく。しかも50歳ということを全面に出して。
なぜなら50代以上で発信している人は少ないから。
たまに同じ世代の人の投稿などを見かけると嬉しくなるように、私もそうやって得意の「継続する力」をアウトプットして表現していきたいなと思う。


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