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"The LEPLI" ARCHIVE 119/『アートとデザインの根幹の差異とは?−2。 ”ファッション・クローン”の誕生とその新しさ。』

文責/ 平川武治:
初稿/ 2014年9月 7日:
写真/ワッサー・アパートメント、ヴィエナ。

プロローグ/
      『思想なきラディカルは名声を得る事で自己防衛へ廻るだけだ。』
 『その美は人間の欲望、奢侈、快楽、快適さを満足させてくれるものとしての
それであったと言えた。
つまり、現実的欲求の範囲内のものであった。
 それに対し『自由』と結びついた『美』は現実の欲望を超越し、
それとは無縁の地平で求められるべきものであった。』
出典/『芸術崇拝の思想ー政教分離とヨオロッパの新しい神』松宮秀治著-2008年-白水社刊。

前回は、『アートとデザインの根幹の差異とは?』について述べた。
 端的に言ってしまえば人間もそうである様にただ、“生まれ育ちが違う”事である。
どれだけ深く、自心のこゝろの有り様と言うカオスに自由に、本能ある美意識を持って
作品制作の為の“A source of the inspiration”を持ち得るか、その深度であり、
そこにどれだけの”倫理観”が介在しているか?でしか無い。
 結果、”パクる、パクらない”の世界は倫理であり、
大衆資本経済主義における”広告産業”との関係性が大いにこの“育ち”の違いを露にする。
 だから、また、『アートとデザイン』における造型の違いがそれぞれの世界観を面白く
”作品”として表層化しているのも戦後日本の育ちの悪さと歪さであり、特質でもあろう。
 
そして、話をモードの世界へ/
 本来、モードのコレクションとは、
個別性としての「個性ある好きなデザイナーの作品」或いは、時代の流行感としての
「シーズンのトレンド/流行モノのシュルエットと色と素材」そして、時代の空気感として、「愉しく、気分軽やかにカッコ良く」。
あと現代では、時代の特化性として「着てみたい素材が気に入った手法で使われている」。
 即ち、モードとはいつの時代に於いてもこれら
『個別性』+『流行性』+『空気感』+『特化性』+『倫理観』が根幹であり、
それぞれのシーズンへ向けての作品世界を発表する。
 ここにデザイナーたちが競いあうべき才能が彼らたちの美意識によって昇華され、
調和ある美しさや快適さを感じさせる服に仕立てられているかを問う世界でもある。

「モードのクローン化」の登場と「ファッションディレクターの誕生。」/
 2000年代迄に多様多感であった、ファッションの世界に於ける「作り手の思想概念」は
対象が”人体”と言う限定と、“豊かさ”というリアリテが肥満化し、
イメージがバーチュアルなデューンへ吸い込まれ、『距離の消滅』が完了。
 以来、その造型性の限界が即ち、此処でも20世紀のコンテンツの一つであった
『あり得るべき距離』が消滅した事により「モードの普遍化」を招き、
もう一方では「モードのグローバリズム」によってその資本主義経済の
ポリテカルパワーにこのモードも殆どが飲み込まれ、
気が付くと『ファストファッション』と言う新たな了解の登場。
実はこれは、「モードのクローン化」でしかないのである。

 そして、結果、少しづつモードは”過去”そのものが新しさを感じさせる
“スロー”な時代感にチューニングされてゆく。
その現実はただの“Variation of the Archives"が広告産業と化し、
コマーシャリズムを喜ばせるだけイメージの元ネタの世界になった。
 「モードのクローン或いは、ファッションのクローン化」が時代の表層へ躍り出るためには、それなりの”パッケージング”としての”イメージ力”がより必然になる。
したがって、ここでデザイナーに変わるイメージングのディレクション可能な
”ファッション・ディレクター”の登場という時代になった。

 この「モードのクローン或いは、ファッションのクローン化」によって
新たに協力者が誕生した。
一つは、”ファッションメディアと広告産業”であり、もう一つは、若い世代たちへの
”イメージ操作”としての”SNS"という覚醒的なるゲームである。
 これが2010年以降のモードとその周辺に屯している、「モードの世界」の現在点である。

”共有イメージの集合体コード”と言う「ユニフォーム」がファッション/
 従って、ある時期まで存在したモードの世界の根幹の一つであった
“新しさ”とそのための”クリアティビティ”、その一つとしての造型性は
“豊かさ”と言うリアリティの中で孵化された情報量の過剰さによって
埋没或いは消滅し辛うじて、その新しさのコードは使われる素材とその質感そして、
それらを処理するべき手技法性に残されてしまっているのが
現在のモードのクリアティビティでしかない。
 故に、モードの世界に於ける行為、”デザインする”と言う事は
より、”服”であり、”消費財”でありうる様になる。
即ち、それなりの”豊さ”を所有した大衆にとっての”ファッション”とは、であり、
同時代に豊かにみんなで安心して生きていると言う迄の
”共有イメージングの集合体コード”或いは、「ユニフォーム」でしかない。
 これも、「ファッション・クローン」を誕生させた賜物。

もう一つの側面であるファッション・ビジネスは/
 このファッションのもう一つの側面であるビジネスは故に、
近年のデザイナーブランドと称するカテゴリィーの世界も
再び、素材産業企業が情報発信した『トレンド』と言うビジネス・フレームが
ファッションビジネスの”安全パイ”と再度なり始め、
イメージングによるパッケージビジネスによる「売れ線志向型」。
 昨今の巴里-プレタポルテコレクションに於いても参加デザイナーの90%程が
この”安全パイ”としての「トレンド」のフレーム内でのデザイン活動である。
コレクションデザイナーでは、I.マラン、ACNE等を始めとする日本的に言えば、
大手資本のデザイナーブランドと巴里サンチェ発(フランスのデパート向けアパレルの俗称)の既製服のブランド、マージュ、サンドロほか”キャラクターブランド”と
それらのコピーものである、”ファッション・クローン”たちのファストファッション”の世界が売り上げを延ばしているだけだ。

 では、なぜ、”シーズントレンド”を素材産業界が発信しているのか?
答えは、1年先のビジネスのまさに、”安全パイ”としてである。
僕たちが未だ、創造性豊かなブランドだと思い込んでいる多くの世界レベルのブランドも
今、売れていると言われているSACAIもこの素材業界が発信した「トレンド」という
安全パイの中でそれぞれが築いて来た”世界観”をこなしているから売れるのである。
よって、メディアも取り上げるのである。
 この現実はファッション産業そのものが何ら世紀前と変っていないという事実でしかなく、
この産業界で誰が一番儲けているのか?の根拠ともなっている。
 僕たちは、その表層の華やかなメデイアに煽られたコレクション=ランウエーの表情に
理屈を付けて、一喜一憂するのがファッション評論と信じているが
実は、彼らたちデザイナーを後で支えているのが素材産業であり、
素材メーカーと付属部材メーカーが一確実に儲けており
次に、ブランド企業経営者たちと彼らに雇用されているデザイナーが儲けている世界である。

変わらぬ、「植民地政策主義」という白人至上主義の延長線上でしかない、/
 
グローバリズム以後のファッションリアルビジネスの現実も
その根幹、”誰が一番儲けているか?”を読むことが必然である。
 現在でも、縫製工場は発展途上国に多くあって、双方の利幅の調整機構にもなっている。
此処にも”グローバリズム”故の必然的なるポリテカルな構造の根幹が見られる。
という事は、やはり此処にユダヤ民族の世界が俯瞰視されるのだ。
 どれだけ、”巴里”でイメージ気高く、ラグジュアリィーにプレゼンテーションを行ない、
レッドカーペットを利用し、広告メディア産業とブロガーたちとの駆け引き
そして、どれだけ”巴里”から遠くで生産してその“距離”性によって
新たな儲けある世界を構造化するかが
現在のファッションビジネスのレアリズムである。
 ここには既に、彼らユダヤ民族の世界が構造化した、開発途上国との関係性が
「21世紀版コロニアリズム/新たなる植民地主義」化されているだけでしかない。

(追記;これが現在では、"グローヴァルノース"と"グローヴァルサウス"という
白人たちに都合よい呼称が再度、国際的に拡大し、継続されているに過ぎず、
これによって、現在の社会問題の一つである”格差社会”の構築の根幹でしかない。)
/2024年2月記。

 実際この構造によって、”ファッション・クローン”が世界の低賃金諸国で大量に生産され
ここでも、だれもが、”ファッション・クローン”とはよばず、
”ファストファッション”が新たに、登場出来たのである。
 この現実は近刊書、『ファストファッション-クローゼットの中の憂鬱』を熟読すれば
もう一つのファッションの世界を知ることが出来る。
『ファストファッション』/エリザベス-L.クライン著:’14年7月/(株)春秋社刊。

文責/ 平川武治。
初稿/ 2014年9月 7日。


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