個、社会、自然のバランス――宮下洋一著『安楽死を遂げるまで』

 欧米では安楽死を法律で認める国が出てきている。スイス、オランダなどがそうで、アメリカでも州によって尊厳死という名で認められている。とはいえ、どこも全面的にOKというわけではなく、反対論もある。そうしたい人がいるなら権利を認めようという感じのようだ。『安楽死を遂げるまで』というノンフィクションを読んで、そんな世界の安楽死の現状を初めて知った。

 安楽死をしてよい条件や、承認のプロセスもいろいろと決められている。実行方法も、本人が点滴のコックを開けたり薬を飲んだりするのを医師がサポートする自殺幇助や、医師自身が致死薬を投じる方法などがあり、そこにも議論がある。安楽死を希望する人には4Wといって、白人、富裕層、高学歴、心配性な人が多いと言われるのも興味深い。

 著者の宮下さんは欧州を拠点とする日本人ジャーナリストで、40代くらいの人だろうか。安楽死を実行しているスイスの団体にまず密着し、安楽死の現場を体験。医師や、まさに明日、死を迎えようとしている「患者」にもインタビューを行い、安楽死への理解を深めていく。そして、取材を進めるうちに、欧米と日本との価値観の違いという、もうひとつのテーマが浮かび上がってくる――。

 果たして自分は安楽死を望むだろうか? と考えてみる。もちろんそういう状況、例えば難しい病気で死期が迫っているような状況にならないとわからないが、今は自分から望むことはないだろうと思う。任せようという感覚があるからだ。死は自分で決めるものではない。自分のものではない。そんな感覚。

 そもそも安楽死とは、本人がではなく、苦しんでいる患者を医師や家族が見かねて行うものだと思っていた。実際、日本でこれまで議論されたり問題になったりしてきたのも、そういう「他人のための」安楽死だ。

 一方、欧米の安楽死のもとにあるのは死の自己決定権という思想で、これはまさに自分で決めるべきものとしての死である。

 ここまで「個人」が優先されるのか、と改めて感じさせられる。この本のなかで、ある日本の大学教授は、日本の社会では自分の生き方も自己決定できているとは言えない、だから死に方の自己決定について議論するのは時期尚早だ、という。

 死は個人のものなのか、それとも家族や社会のものなのか。

 欧米の社会で長く暮らしてきた著者は、「個」を貫く殺伐とした空気を長年肌で感じてきた。日本の村社会にあこがれる気持ちもあるようだ。

 自分としては人間関係や組織に息苦しさを感じることがあるので、欧米的な個の世界のほうが生きやすいんじゃないかと思う。でも、宮下さんは逆のことを感じている。たしかに毎度毎度、個人の責任で利害を判断しなければならないのは大変だ。損得をいちいち計算しなくても悪いようにはならない、そんな社会が暮らしやすい気がする。

 個の判断の究極の形として、死も自分のコントロール下に置きたいという考えがあるのだろう。よく、自分の考えを持て、自分で判断せよなどと言われるが、突き詰めると、最後は自分の死も自分で決めないといけない。それはそれで孤独だなあと思う。著者が違和感を覚えているのも、そのあたりかもしれない。

 個人的には「自然に任せる」部分も持っておきたい。個、社会、自然、その3つのバランスが取れているのが、生きやすい状態なんじゃないか。安楽死から始まって、そんなことを考えたのだった。

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