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流石あたしの正岡子規

相変わらず正岡子規を読んでいて最近確信したのだが、子規が書く「くだもの」とか「犬」とか「画」みたいなタイトルのやつは大体おもしろい。

そして読むほどに「こういうめんどくさいこと言う人、いるよね〜」と思う。
今だと、ラッパーの人に多い気がするな。まぁ、映画とか漫画の世界でもいるとは思うけど。


おそらく人は昔から、いつもその時々の流行りの文化の中でお互いの作品について「ここに〇〇とか入れるのってさ、正直ダサいよね」「売れてるかもしれないけどさー、俺はああいうのムリだわ」「センスのない人間にはわかんないんじゃないっすかね」なんて言いながらやってきたのだろう。

話が上手くて才能があれば聞けるけど、どっちかが欠けてたらめんどくさいだけのやつね。
子規のウンチクは読みながら「めんどくさいなこの人」と思うけど、ひたすら文章がうまい上に”正岡子規だから”があるので読める。


最近読んだ「画」という作品で子規は「俺、わりと絵画とか好きなんよね」と話している。
絵画は好きだが自分では描けなくて、見ることはあっても専門的な知識はなかったようだ。

あるとき子規が絵の専門家と話をしたときに「富士山の絵は絶対良いもんでしょ」といったら「富士山とがダセぇよ」と言われ「え、そうなん?!」となる。
聞けば「富士山は素人がすぐ喜ぶけど、俗っぽくてダメだ」と言う。
「マジか」となって、その感覚を俳句と照らし合わせて「あー、なるほどね。たしかに俳句にすぐ”富士”とか入れるのダサいし、”松”とか使ってるやつはだいたいつまんないもんね。絵画もそこ一緒なんだ~。へー!考えたことなかったー!」と素直に驚く。

ここら辺が子規の天才らしいところ。
すごいことは素直にすごいと認めて、自分の知識にしてしまう。

そこから子規は絵画に詳しい人から少しずつ話を聞き、洋画と日本画への理解を深めていくのであった。


…までは普通のお利口さんの話。

子規はここから違う。
あたしの子規はちょっと違う。

子規は元々非常に日本画信仰が強かったので、洋画と日本画を比べて「日本画は平面的で…」「洋画に比べてリアルじゃなくて…」と、まるで日本画が劣ってるかのように語られると「比べないでよぉ!日本画すごいもん!バカぁ!」となってしまう。
普通はならないけど、子規はなる。
しょうがない。

しかし子規は偉い子なので、怒って学ぶことをやめたりしない。
ちゃんと相手に「別々にお話しして」とお願いして、日本画は日本画、洋画は洋画で説明してもらって勉強する。

めちゃくちゃ可愛い。賢い。愛おしい。

そして、「画」の最後はこの一文で終わる。

〇 僕に絵が画けるなら俳句なんかやめてしまう。
「画」正岡子規

流石、あたしの正岡子規。

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