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そろばんは悪手

珠算教室に通っていたのは小学生の頃である。兄が通っていた流れで自分も習い出した。スキルを身に付けるという感覚になんとなくのカッコよさを感じれたのは良かった。

団地の集会所に子供達が集まり、おばあちゃん先生の指導の元ひたすらに学習教材を解き続ける。数ヶ月に一回は商工会議所へ赴き階級を取得していくという実績解除もあって、数字の処理能力にはかなりプラスに働いていたと思う。

全盛期には計算をする際には「筆算はワック」という尖り思想も持ち合わせてしまい、脳内そろばんで処理する迄に至っていた。そして電卓より強いんじゃないかという幻想も抱き続けていたが、高学年辺りになると漠然と習い事に通うという行為が苦痛になり、サボり出すようになった。

通ったフリをして後からバレるというのは結末が計算出来すぎたので、とりあえず家で寝過ごすフリをしていたのはよくない逃げ感覚であったと思う。とりあえず3級を取得したら卒業という約束を取り付け、後半は負のエネルギーを原動力に取り組んでいた。こういう思考をベースに行動するのは追い込まれないと怠惰に過ごす癖が付きまくってしまうので完全にオススメしない。

階級試験は難なく突破し無事イグジットを果たし、それ以来そろばんに触れることは無くなっていった。そろばんをローラースケートにする発想の同級生に怒りを覚える矜持を持てたのは良かったが、次第に脳内そろばんができなくなり筆算も尖り故に訓練していなかったため、他より計算が素早く出来ないようになってしまった。今思えば人生初の挫折に近い。

しかし珠算能力というのは基礎的な計算力への応用性も保っていたため、なんとか数年遅れで筆算のメカニズムに浸透していき、並以上の能力は取り返す事ができた。やはり追い詰められると人は強い。しかし、努力を辞めると子供であっても能力が退化してしまうという現実はなかなか恐ろしさを感じたものである。

中学に入ってもゆとり教育の恩恵を受けてか校内では学習面で無双していたが、高校数学になった途端根本的に数学というものが理解できなくなった。難し過ぎて手の付け方が判らないし、周りは普通に理解しているというギャップは文系クラスへの逃避へと沼に嵌っていく。文系は自分のような人間にとって本当に救済である。ありがとう文部科学省。

大学入試も英国社に限定したセンター利用という理系全捨ての「受かれば官軍」の思想で突破できたのはとりあえず良かった。そして東進ハイスクールで林修の面白さにいち早く出会い、「アイツは売れる」と友人にプレゼンしまくっていたら、大学在学中に本当に売れ出したのは良い思い出である。

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